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【第十五節/君の隣に】

 詰所から出ると、カナンはイスラの手を引っ張ったままずんずんと大通りを進んだ。町の住人たちは何事かという風に視線を向けて来るがカナンはまるで気にしなかった。


 イスラは、しばらくぼうっとしたままだった。頭の中が不明瞭で、何かを考えようとしても、すぐに思考が霧散してしまう。


 小さい頃に一度だけ風邪をひいたことがあるが、その時の感覚とよく似ていた。五感の全てが鈍くなって、足元がおぼつかず、何かをしようという意欲も湧き上がらない。衛兵の詰所で殺されかけたが、そのことも取るに足らないことと思えた。


 ただ、大股に歩くカナンの背中と、つないだ手の感触だけが現実として浮彫になっていた。他の全てのことは、見えるものにせよ、音や匂いにせよ、何もかもが幻のようだ。


 そう思うのは、これが自分の記憶のどこかに引っかかっているからだ。記憶が現実になっている。イスラは強烈な既視感に酔っていた。


 やがて、町の外れにたどりついた。小川の上に小さな石造りの橋が架けられている。どうしてこんなにところに来たのか、二人とも分かっていなかった。カナンはただ、あの場所から離れたいという一念で動いていたし、ぼんやりしたままのイスラはいまだに記憶の中を探っていた。


 何の記憶だろう……? 分からない。分からないほど、遠い昔のことなのだ。もちろん、まだろくに生きてもいないのだが。


「イスラ? どうかしましたか?」


 カナンが振り返る。予期していなかったイスラは「え」と言葉を詰まらせた。


「まだどこか痛みますか?」


 カナンが腰を曲げて覗き込んでくる。


「いや……大丈夫。もう、どこも」


「そう」


 彼女はほっとしたように微笑んだ。いつものような無垢な笑顔ではなく、どこか苦しそうな笑みだった。


 カナンはイスラの手を取ったまま俯いた。手に力が込められる。


「ごめんなさい」


「何で謝る」


「色々、です。あなたがあんな目に遭っているのに、すぐに助けに行けなかった。私が気を失わなければ町に立ち寄る必要も無かったし、埋葬だってあなたにやらせる必要は無かった。それに……」


「何でもかんでも謝るなよ。あんたのせいじゃない。最後は助けてくれたし、気絶したのだって仕方のないことだ。第一、俺だって余計に煽らなきゃ、あそこまで酷くはならなかっただろうからさ」


「そうかもしれません。でも、何よりも私は……私は、あなたを取り巻く現実を、ちゃんと理解してはいなかった」


 あの時、イスラは確かに「こんなものだ」と言った。怒るでもなく落胆するでもなく、ただ事実を事実として語っていた。現実を知らない、無知なカナンのために。


 闇渡りのような被差別階級は、単に煌都の員数調整のために存在しているわけではない。都市に生きる様々な階級の人間が、共通して憎悪するための生贄という役割をも負っているのだ。


 そういう狙いがあることはカナンも理解していた。だが、それはあくまで頭の中での話だった。彼の言う現実がいかに過酷なものであるか、そこにカナンの想像力は追いついていなかったのだ。


「軽はずみに、楽観的なことばかり言って……私がそんなことを言ったところで、説得力なんて無いですよね……」


 カナンは、自分がこれまでいかに綺麗な世界で育ってきたかを自覚した。支配階級の腐敗こそ目の当たりにしてきたが、自分自身に直接向けられる悪意とは全く無縁だった。幾人かは下心を持っているとしても、いつ、どこにいても彼女は愛される対象だった。


 イスラは違う。この世に生まれ落ちたその瞬間から、不条理な憎悪の対象となる運命にあった。運が悪ければ私刑にかけられ死ぬ可能性すらある。そんな過酷な世界を思い描くことなど、光のうちに生きてきたカナンに出来るはずがない。


 自分は、ただ「知っていた」だけだ。頭でっかちの、愚かな娘。カナンは自分自身をなじった。


 だが、そんなことをしても何の償いにもならない。


「あなたからすれば、私なんてただの馬鹿娘にしか見えないですよね……それなのに、無理やり守火手に選んで……」


「確かに強引だったな」


 煌都でのやり取りを思い出す。押し倒され、無理やり頭に手を置かれた。あの時は、無茶苦茶なことをする娘だと心底思った。


「そう、ですよね……」


 カナンはしゅんとうなだれている。彼女がこんなに落ち込むところは、見たことが無い。


 これじゃダメだな。こんな姿、全然カナンこいつらしくない……イスラはそう思った。


 彼は少しだけ迷った。今思っていることは、自分の本心なのだろうか。こんなあやふやな状態なのに? 大酔漢のダン曰く、酔ったまま物を決めるな。だが、酔って踏ん切りをつけろとも言っている。



「なあ、あんた………いや、カナン。そんなに自分を責めるなよ。ひょうきん者のシラスも言ってる、自責は心の毒だ、って」



 その名前を口にした時、イスラは奇妙な感覚を覚えた。


 なぜ今まで頑なに呼ばなかったのだろう。


 まるで自分の名前を言ったかのように、彼女の名前を呼ぶことが自然に思えた。


「え……? イスラ、今、名前で……」


 彼女の反応は無視して、イスラは続ける。


「第一、早とちりだよ。さっきも言ったけど、あんたが謝ることは何も無い。俺はこれっぽっちも怒っちゃいないよ。それなのに謝られると……何ていうか、困る」


「でも、私は……!」


「ああ、確かに分かってなかった。知ってるってだけだった。でも、そんなの誰だって同じだ。あんたは神様じゃない。当たり前のことなんだ。だからさ……」


 イスラは傷だらけの頬をポリポリと掻いた。何となく、小恥ずかしい気分だ。


「俺はその、あんたにそんな顔をして欲しくないんだ。いっそ馬鹿だと思われるくらい、お気楽なことを言ってて欲しい。何ていうか……俺って捻くれてるからさ。あんたみたいに、物事を前向きに見れないんだ」


 我ながらいつになく饒舌になっているな、と思った。だが、口を開くともう止まらなかった。次から次へと言葉が溢れてくる。言いたいと思うことがあまりに多くて、上手くまとめきれない。



「今まで、あんたみたいな人には会ったことが無かった。誰もかばってくれない、自分の身は自分で守るしかないって、そう思って生きてきた。


 だからさ……さっき、あんたが助けに入ってくれた時、悔しいんだけど……悪くないな、って思ったんだ。あんたの守火手なら、やってもいいかな、って……」



 そう言って、イスラははにかみながら笑みを浮かべた。これまでカナンが見たことの無かった、歳相応の純粋な笑顔だった。


 カナンは何も言わなかった。ただ、しっかりとイスラを抱き締めた。


 イスラとは逆に、カナンは言葉を紡げなかった。様々な感情が溢れて、それが抱擁という形で現れたのだ。安堵、感動、罪悪感、愛しさ、憐れみ……感情の奔流は、およそ言葉に表せるものではない。



 こんなことを言われたら、もう絶対に裏切れない。



「ありがとう、イスラ……!」


「お、おい! 事あるごとに抱きつくな!」


 イスラは彼女の身体をグイッと引き剥がした。


「大体、俺はまだ、あんたの旅の目的を聞いてないんだぞ」


「ええ、約束でしたね」


「くだらない理由だったら承知しないからな」


「それは、大丈夫。イスラなら……」


 瞬間、イスラの眼差しが鋭くなった。目にも止まらない速さでカナンの細剣を抜き、背後に向けて突き出す。「ひゃっ」と子犬の鳴くような声が上がった。


 剣を突きつけられ、木の陰に立っていた少女が尻もちをついていた。


「ま、マルタ!?」


「知り合いか?」


「ええ……私が寝ている間の世話をしてくれました」


 そうか、と呟いてイスラは細剣をカナンに返した。「あんた、良い剣持ってるな」「分かります? でも、町中ですぐに抜くのはやめてくださいね」


 カナンはマルタに手を差し出した。マルタはビクリと肩を震わせたが、カナンが微笑みかけると恐る恐る手を伸ばした。


「申し訳ありません! 継火手様の荷物をお届けに来たのですが……町の人達に聞いたら、お二人が石橋に向かうのを見たと聞いたので……」


 二人が抱き合っている場面に出くわしたのがよほど気まずかったのか、マルタは目を白黒させ、どもりながら弁解を続ける。その視線は二人の顔を往復していた。顔は真っ赤になっている。明らかに情況を誤解していた。


「その……お二人は」


「継火手と守火手の関係です」


「そ、そうですよね!?」


 カナンは荷物を背負い直した。あの場はなんとか切り抜けることが出来たが、この町の住人がイスラに対して友好的でないことは明らかだ。長居をしても損こそすれ、得をすることは何も無いだろう。


「もうたれるのですか?」


「見ての通り、私の守火手は闇渡りです。長居したのでは要らぬ誤解を招いてしまう」


「そうですか……」


 マルタは名残惜しそうにカナンを見つめた。だが、イスラに対しては恐れの混ざった視線を向ける。逃げ出さないだけ見上げたものだ、とイスラは思った。


 やっぱり俺は町に居るべきじゃない。


「行こうぜ、カナン。どこに行くかは知らないけど」


 あんた次第だ、とイスラは言い添えた。


「ええ、行きましょう。目指すはアラルト山脈です!」


 意気揚々とカナンは宣言した。イスラはやれやれと肩をすくめて荷物を背負い直す。


 去っていくカナンの背中に向けてマルタは頭を下げた。




◇◇◇




 同刻、リダの町に十騎の騎士が入ったことを二人は知らない。

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