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【第十四節/それが偽善でも】

 カナンが詰所にたどり着いた時、そこは異様な空気に包まれていた。


 狂騒のなかで暴力的な言葉が飛び交い、しかも、それらの声はたった一人の人間に向けられている。


 イスラを取り囲む人々の顔は興奮で真っ赤に染まり、夢でも見ているかのように虚ろだった。カナンは背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。


(この人たちは、自分たちの言っていることがわからないの?)


 彼らは理性を投げ捨て、集団の持つ暴力性に陶酔している。カナンにはそう思えたし、実際、その読みは当たっている。


 彼らが口々に言うことは、彼女には到底信じられないようなことばかりだった。人殺しと言うだけでは飽き足らず、死体を犯すような性倒錯者に仕立て上げようとしている。完全に無実だと証明出来るものは何も無いが、しかし、彼に課せられた罪状はあまりにも空想的だ。


 彼女の知る範疇において、イスラはそんな非人道的なことをする人間ではない。人を斬ったと確かに言ったが、やむを得ない状況下のことだった。


 ましてや今回は、夜魔という明確な犯人がいるのに、その責任が全て彼に押し付けられている。身びいきであることを差し引いても、十分異常と言える光景だった。


 もたついてはいられない。この場の空気は急速に悪化しつつある。弾かれたようにカナンは動き出した。


「退いて……通してください……!」


 カナンは人ごみを掻き分けイスラの元に向かおうとする。だが、狭い詰所の中は人で一杯になっていて、おまけに誰もカナンの声を聞いていない。彼らの耳には闇渡りの罪状が響いていて、口からは彼を呪う言葉しか出て来ない。


「殺せ、殺せ!」


 死を求める声が大きくなるたびに、カナンは恐ろしくなっていった。彼らは自分が何を言っているか分からず、その結果が導く意味も知らない。何がここまで、彼らの理性を曇らせているのか……?


 カナンは人間の理性を信じている。どのような地位、どのような生まれにあろうと、人間の奥底には必ず理性の光があると信じている。それは彼女なりの信仰であり、自己の立脚点でもあった。この光景は、彼女の信じることとは正反対のことだ。


「イスラ……」


 カナンは顔を上げた。群衆の向こう側にはイスラが一人で取り囲まれている。血のこびりついたぼろぼろの服、腫れ上がった頬……水浸しになっていて、濡れた髪が顔に張り付いている。表情は分からない。


 兵士たちが剣を抜く。一斉に鍔鳴りの音が鳴り響いた。いかにイスラといえど、この囲みからは逃げられない。カナンは息を呑んだ。必死に前へ出ようとするが、群衆は彼女の存在に気付かない。人の背中が壁のように立ち塞がっていた。


 ただ一人、イスラだけが気付いて、彼女と視線を重ねる。彼が口を動かしたように見えた。




 ――こんなものだ。




 絶望し、虚脱し切った表情でイスラは呟き、薄らと笑って見せた。


 皮肉というわけでもなく、勝ち誇ったような気分があるわけでもない。現実に直面した彼女に対して「気を落とすな」と慰めるためだった。


 どうして彼女を慰める気になったのか、今一つイスラにも分かっていなかった。ただ、カナンはここ数年で自分が久しぶりに笑いかけた人物だった。大笑いをしたり、満面の笑みを浮かべたりということはなかったが、彼女と一緒にいるときは自然と唇の端に笑みが宿っていた。


 そうか、あいつは俺が久しぶりに笑いかけた人間なんだ。だから慰めたくなったんだな。


 イスラはそう思った。彼女が「本物」かどうかは分からないが、この世界であれだけお人好しで能天気な言葉を吐ける人間はそう多くない。嘘だとしても、中途半端な覚悟から来たものだとしても、自分は心のどこかでそういう温かな言葉を望んでいたのだ。


 その事実を認めるのはいささか悔しかったが、悔やむ時間もそれほど長く残されてはいない。ここが旅の終わりだ。だから彼女には、せめて笑って別れておきたかった。


 だが、カナンはそんなことは許さなかった。




「諦めるな、イスラ!」




 果たして、それはイスラにだけ向けた言葉だっただろうか。


 後々になっても、カナンは自分の口走った言葉を思い返すことがあった。諦めるなと言うが、それは自分に対して言い聞かせたいだけであって、真心から出た言葉ではなかったのではないか。そんな己の偽善について、心を悩ませることは幾度もあった。


 だが逆に、あの時あれ以外の言葉が出たとも思えない。イスラの絶望に対して、それでも諦めるなと自分は言った。彼だけでない、誰であっても、生きることを諦めてほしくない。それがカナンの心からの願いだ。


 その願いを言葉にしたら、ああなった。


 イスラはピクリと瞼を震わせた。だが、依然として二人は人の壁によってはばまれている。剣を抜いた男たちは、今にも彼を引き裂こうとしていた。


 カナンは逡巡したが、覚悟を決めた。


「……我が蒼炎よ!」


 彼女が唱えるのと同時に、抜き身の剣が蒼い炎で包まれた。その熱は一瞬で柄まで及び、持ち主の手を焼いた。焼鏝を当てられた家畜のように悲鳴を上げ、次々と音を立てて剣を取り落とす。イスラへの殺意が揺らいだ一瞬を突いて、カナンはイスラの前にたどり着いた。


「イスラ……!」


 両腕で彼の身体を抱き締める。イスラは目を白黒させている。兵士たちも、継火手が闇渡りに抱きついたのを見て驚いた。


 衆目など気にせず、カナンは腫れた頬や傷口に手を添える。法術でそれらを癒していくが、傷が無くなれば良いというものではない。


 一方で、イスラもイスラで困惑していた。今にも泣き出しそうな彼女に何と言ってやれば良いか分からない。おい、これじゃ目論見外れだろ、俺はあんたにそんな顔をさせたくなかったのに……。


「ば、馬鹿野朗、泣くなよ……」


「イスラが泣かないから!」


 勢いよく顔を上げてカナンは怒鳴った。


「あなたが泣かないから……それが悲しいから泣いているんです。そんな、悟ったような顔をしないでください……!」


 カナンは袖で乱暴に涙を拭い、キッと振り返った。継火手の怒りを恐れて兵士たちは手を出してこないが、ナームという若い兵士だけは依然イスラを睨みつけていた。立ち塞がったカナンの姿を見て困惑しているが、取り落とした剣を拾い直し構えた。


 我に返った同僚たちが止めに入るが、ナームは押し殺した声で「退いてください」と言った。


「出来ません」


 カナンは頑として譲らない。


「そいつは俺の恋人を殺したんです!」


「それは誤解です。あの人たちは夜魔の手に掛かって命を落としました」


「信じられるか!」


 ナームはグイと剣先をカナンの喉元に突き付けた。継火手に対する不敬に兵士たちが騒めいた。


 だが、カナンはより一層思い切った行動に踏み切った。


 突き付けられた剣を片手で握り、その切っ先を喉に触れさせたのだ。


 刀身を握った手からは血が溢れている。最悪、右手の指を全て失うかもしれないというのに、カナンは一層力を込めて刃を握り締めた。鮮血が銀色の刀身を伝って流れ、ナームの手を赤く染めた。


 喉の皮も微かに破れている。小さな花のようにぷくりと血が浮き出ている。


 怒りに我を忘れていたナームも、彼女の大胆な行動のせいでさすがに頭を冷やされた。だが、こうして継火手に剣を向けた以上、引っ込みはつかない。なにより今この闇渡りを殺さなければ、自分は決して心の平安を取り戻せないだろうと思い込んでいた。


 頑なに剣を握り締めて離さない彼に、しかし、カナンはさらにもう一歩踏み出した。今度は喉に切り傷が出来た。


「恋人を亡くされたのですね」


 つとめて穏やかな声でカナンは言った。


「とても大切にしていた……」


「そうです、だから!」


 カナンは右手に力を込める。果実を搾ったように血が溢れる。


「だから、その人の死を受け入れられない」


「そいつのせいだ!」


「違います。それは、絶対に。私もその場に居合わせ、夜魔と戦いました」


 逆手で細剣を引き抜き、ナームの前で掲げて見せる。刀身の先端には黒い体液がこびりついていた。


「大切な人を失うことが、どうしてこんなに辛いか、考えたことはありますか?」


「どうして、って……」


「それは、一度失ったら替えが効かず、無くしたら無くしたまま、痛みに耐えて生きていかなければならないからです」


 己の激情を抑えながら、カナンは言葉を紡ぐ。指の痛みはかえって彼女を冷静にした。胸はふつふつと煮えたぎっているが、頭のなかは氷のように澄み切っている。


「その痛みにはどんな薬も効かない。時の流れに身を任せ、痛みと一つになる以外に、乗り越える方法はありません。その長い苦しみの時間を想うから、人は死を恐れるんです」


 一言ずつ、自分自身に言い聞かせるようにカナンは語った。


 偉そうなことを言っているが、カナンはまだ大切な人と死別したことがない。母はすでに亡いが、物心つく前のことだ。姿さえ知らない。


 だが、父とは完全に決別したと思っている。恐らく、もう二度と娘として扱われることはないだろうし、会いにいくまいと決めている。それだけの覚悟が無ければ、闇渡りのイスラと一緒にエルシャを飛び出すようなことはしなかった。


 今、自分にとって最も失ってはならない人間は、イスラに他ならない。


 居場所や地位をかなぐり捨て、父や姉さえ置き去りにした。それは全て、イスラと旅をするためだ。


 彼ならば、自分の望んだ旅路に付き合ってくれる。あの日、エルシャでそう確信したからこそ、自分は彼を守火手として選んだのだ。イスラは自分のことについて多くを語ろうとしない。カナンも尋ねなかった。いずれ教えてくれれば良いと思っていたからだ。


 まだ彼のことについてほとんど何も知らない。自分も、ほとんど何も教えていない。


 だが、彼はきっと良い旅仲間になれると確信していた。まだ相棒とか、戦友といった域には達していないものの、少しずつ互いのことが見え始めてきたところだ。


 まだ、こんな場所では死なせられない。


 この場を切り抜けるためならば、いくらでも卑怯者や偽善者になってやろう。旅のために、イスラのために。


「心に痛みを抱え、そしてそれに耐えるからこそ、人は人と呼ばれるのです。あなたがイスラを殺しても、心は決して晴れない。無用な罪を増やすだけです」


「……」


「あなたも本当は分かっているはずです。イスラが持って帰ったものを見れば……少なくとも、強盗とは思わないでしょう」


 ナームはもう何も言わなかった。剣を下ろし、俯きながら肩を震わせている。 気色ばんでいた他の兵士たちも、バツが悪そうに解散しつつあった。


 カナンは肩の力を抜いて振り返り、イスラに手を差し出した。眠ってとれたはずの重荷が、かえってずしりと圧し掛かってくるようだった。


「行きましょう、イスラ」


「あ、ああ……」


 呆然としたまま、イスラは血に濡れたその手を握り返した。


「通してください」


 有無を言わさぬ声でカナンは言った。人ごみが割れる。乱雑に散らかされたイスラの持ち物をまとめて、二人は詰所から抜け出した。

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