目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
【第十三節/イスラの絶望】

 これまでも、理不尽な目にあったことは幾度となくあった。無視されることや軽蔑されることはまだマシで、ゆえ無く罵られたり、唾を吐かれたこともある。


 それは煌都の人間のすることで、闇渡りには闇渡り同士の絆がある。と、信じ込んでいた時期もあった。部族という苦難を共にする共同体があったことも、幼いイスラを絶望から救っていた。


 だが、イスラを遺して部族が全滅した時、彼に救いの手を差し伸べる者は誰一人いなかった。それどころか、屍肉を漁るように生活道具を掻っ攫っていった。おそらく四つか五つの部族が群がっていただろう。鍋やテントといった使えそうな物は一瞬で無くなった。彼と彼の生まれた部族との繋がりは、いまや一振りの伐剣のみだ。


 イスラは十二歳で、一人きりのまま夜の森に放り出された。孤独や恐怖が少年の背骨をへし折ろうとのし掛かってきた。彼はある一時いっときに唐突に絶望したのではない。様々な要素が積み重なって、彼自身気付かぬうちに徐々に絶望の深みへと沈み込んでいたのだ。


 そうしていつしか、世界の一切のものが価値を失った。世界は自分に対して無関心で、それ故残酷なほど理不尽だ。期待しても答えは無く、打ってみても響かない。


 そういうものだ。人生とはそういうものだ。闇渡りのイスラは、世界から見放されている。




◇◇◇




 頭から水を掛けられた。石で出来た壁に背中を預けていたイスラは、ゆっくりと目を開いた。頭はぼんやりしているが、自分が殺気立った連中に取り囲まれていることは分かる。


「この人殺し!」


 胸ぐらを掴まれ、無理やり立たされた。若い兵士が目を潤ませながら彼を揺さぶる。


「何の話だ」


 冷めた声でイスラは言った。ひどく眠い。疲れているところを無理やり引き起こされたせいだ。だが、相手はイスラの態度に一層怒りを掻き立てられたようだった。


「とぼけるな! お前がディナを殺したんだ!」


 兵士は鉄で出来た指輪をイスラの顔に突き付けた。


「誰だそいつは」


 右から拳が飛んでくる。イスラは避けるが、今度は両腕を掴まれ壁に押し付けられた。涙目の兵士がイスラの顔を殴る。一度となく、二度、三度と繰り返し痛めつける。彼はそれを悪だとは思っていなかった。彼にとって目の前にいる闇渡りの少年は、恋人や仕事仲間を殺した冷徹な殺人鬼だった。


 無論、イスラがそんな身勝手な決めつけに屈する理由は無い。その程度の自尊心は彼にもある。


 四発目の衝突に合わせて頭突きをぶつけ、相手の拳を砕く。骨の砕ける音がした。


 頭がくらりとしたが、兵士は痛みに声を上げて引き下がる。拘束が緩んだところで素早く身を翻し、肘鉄を右の兵士に、そのまま右拳で左の兵士を殴って怯ませた。


「頭が冷めたろ。あんたとあの行き倒れがどういう関係か知らないけど、俺はやっちゃいない。伐剣を抜けば分かる。あんたの女には黒い血が流れてるのか?」


「仲間の武器を使ったんだ! でなきゃ、お前の服についた返り血はどう説明するつもりだ!?」


「あれは俺の血だ」


「しらばっくれるな、お前のどこに傷痕がある!?」


 イスラはニッと右の唇を吊り上げて見せた。歯茎や唇から血が流れている。当然、彼の皮肉は相手の怒りを煽る結果となった。


「そうカッカするなよ。あの時の俺には、カナンの秘蹟サクラメントがあった。あれで傷が治ったんだ」


「嘘をつくな! 継火手様が、闇渡りなぞに秘蹟を与えるものか!」


「仕方ないだろ、事実なんだから」


 内心、信じてもらえるとは微塵も思っていなかったし、実際そうなった。左右の兵士も含めて、三人が好き放題に彼を罵る。騒ぎを聞きつけて他の兵士たちも集まって来た。


「人殺し」「嘘つき」「おい、何があったって?」「卑怯者」「人殺し」「死ね」「あの闇渡りが、ナームの恋人を殺したらしい」「ろくでなし」「闇渡りはすぐに嘘をつくからな……」「嘘つき」「強姦魔」「悪魔」「何だ何だ、何の騒ぎだ?」「人殺し」「嘘つき」「セルグの娘さんがな、あの闇渡りに……」



 ――ああ、こういうものだ。



「人でなし」「強姦魔」「……死体とヤッたってか?」「けだもの」「悪魔」「気持ち悪ィ……」「これだから闇渡りは」「人の皮を被った夜魔に違いねえ」「何でこんな所にいるんだよ」「町から叩き出せ!」「そんなので収まるかよ! 殺した方が良い!」



 ――なあ、カナン。あんたは知識と想像力が云々って言ってたけど、こういうのは想像出来たのか? 



 ――人間のどうしようもない部分に、単に目を瞑ってただけだろ?



「そうだ、殺そう」「生きてる価値なんてねえよ」「殺したって誰も困らない」「むしろ世の中のためだぜ」「ああ、生かしておいたら、また人を殺したり、女を犯すかもしれねえ」「そうだ殺そう」「殺せ、殺せ!」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」



 ――偏った物の見方と、偏った物の考え方。俺にそれを否定する権利は無い。



 ――俺だって人間である以上、どっこいどっこいだ。みんな、どいつもこいつも、そんなもんだ。



 ――そういう器のちっさい人間の集まったこの世界に、平和とか調和とか情けとか、出て来るわけないだろ、馬鹿馬鹿しい。



「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」



 ――この世界は、永遠の夜っていう不条理に包まれてる。神様はこの世界を去ったんだってな? じゃあ、今は世界を包んでいる不条理の夜こそが神様の代わりってこった。



 ――人の生き死になんてものは、結局この世の不条理にぶつかるかどうかなんだ。剥げ頭のゼノンは、頭に亀の甲羅がぶつかって死んだ。俺はここで、馬鹿な思い込みに追い詰められて死んでいく。だからさ、別に構わねえよ。好きにしろ。好きに……。



「諦めるな、イスラ!」

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?