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【第十二節/カナンの怒り】

 カナンは目を覚ました。


 柔らかな寝台の上に寝かされている。布団に横たわるのは数週間ぶりだ。当たり前だが森の地面よりもずっと柔らかく、温かい。それが彼女をまどろみへと引き戻そうとするが、誘惑を断ち切ってカナンは身体を起こした。


 部屋はさほど広くない。暖炉や寝具が部屋の大きさと釣り合わず、少し狭苦しく感じる。壁には複雑な織物や鹿の剥製が掛けられていて、一層圧迫感を強めていた。頭のそばには花の活けられた花瓶があるが、それも無駄に大きい。


 服が真っ白な寝間着に替えられている。旅装は確かに汚れきっていたが、自分のあずかり知らないところで裸にされるのは嫌だな、と思った。


 布団を除けて立ちあがり、手を伸ばして大きく背中を反らした。身体がなまっている感じはしない。ただ、頭はぼんやりとしたままだった。天火アトルを使い過ぎるとこうなるのだ。初めて夜魔と相対したが、自分が思っていた以上に緊張していたのだろう。過剰なほど力を使ってしまった。


「夜魔……そうだ、イスラ……!」


 彼のことを思い出すと同時に、気絶する直前までの情況が一気に脳裏に蘇ってきた。


 グレゴリは自分が倒したが、そこで力尽きて倒れてしまったのだ。その後、イスラは瘴土を抜けて何とか人里までたどり着いた。


 ……その後は? どうして自分だけここに居て、イスラは居ないのか。


 部屋の隅には旅の道具が置かれている。権杖も細剣もまとめて壁に立てかけられていた。どうやら敵対的な相手に捕まったわけではなさそうだ。


 カナンがそれを手に取った時、戸が叩かれた。「つ、継火手つぎびてさま! あ、開けてもよろしいですか!?」幼さを感じさせる声だった。


「ええ、どうぞ」


 カナンは努めて冷静に答えた。「失礼いたします!」と言って、前掛けを着けた少女が入って来た。歳は十三、四程度だろうか。奉公に出されたばかりといった雰囲気だ。イスラほどではないものの肌が白く、緊張で顔が真っ赤に染まっていた。


「ご、ごご、ご加減はいい、いかがでしょうか!」


 少女はかわいそうなほどうろたえている。背中が杉の木のようにピンと伸びきっていた。内心では緊張していたカナンも、その狼狽ぶりを前にして思わず脱力してしまった。


「ありがとうございます、とても良く眠れました」


 微笑みながらカナンは言った。思いのほか丁寧なカナンの返答に、少女は一層顔を赤らめた。


「いくつか質問しても良いですか?」


「はい! 何なりと!」


「そうですねえ……私は大祭司エルアザルの娘、名をカナンと言います。貴女のお名前は?」


 あまり父親の名前を出したくなかった。地位を見せびらかしているようだし、少女をますます縮こまらせてしまうだろう。だが出自や親を隠しながら相手に名前を尋ねるのは、返って失礼にあたる。


 案の定、少女は恐縮し、恥かしそうに「きこりセルグの娘、名はマルタ……です」と名乗った。


「マルタ、ここはどこですか?」


「リダの町長の御屋敷です」


「リダの町……そうですか。もうそんな所まで来ていたのね……」


 カナンは頭の中に仕舞っていた地図を広げた。煌都エルシャが管轄する領域の最北端にある町だ。北にはアラルト山脈が広がり、それ以外の全ての方位を森によって囲まれている。天火アトルはあるがエルシャのそれとは比べ物にならない。住民も二千名足らずといったところだ。林業でなんとか経済を保っている小さな町である。


「継火手様……?」


「いえ、何でもありません。ところで、着替えは貴女がしてくれたのですか?」


「も、申し訳ありません!」


「ふふ、怒ってなんかいませんよ。同性の人にお世話をしていただいて、安心しました。私の服、だいぶ汚れていたでしょう?」


「い……はい。勝手ですが、洗濯させていただきました。もう少ししたら乾くと思います」


「ありがとう、何から何まで」


 カナンが礼を言うと、マルタは手と首を同時に振った。


「そんな! 私こそ光栄です! リダの町に継火手様が来てくださることなんて、年に一度のことですから」


 今度はカナンが驚く番だった。


「年に一度? そんなに少ないのですか?」


辺鄙へんぴなところにある町ですから、仕方ありません」


 それもあるだろう。だが理由は一つだけではない。


 有り体に言えば、この町に来たところで何の旨味も無いからだ。煌都の権力者は、人々から盛大に歓迎されることを望んでいる。その欲望の源泉は富や名誉、権力に対する執着に他ならない。


 無論、村のなかには彼らの横暴な振る舞いに苦い思いを抱いている者もいるだろう。だが都市は天火アトルが無ければ成立せず、それを維持する継火手の存在は必要不可欠だ。需要は決して無くならない。それが分かっているから、特権階級の人間も傍若無人に振る舞えるのだ。


「お風呂の用意が出来ています。どうぞ、こちらへ」


 促されるままカナンは彼女の後に続いた。まずは町長に会わなければならないし、こんな状態で出ていくわけにもいかなかった。イスラのことが気がかりだが、交渉や説得が求められた時に汚れた格好のままでは不利になる。なまじ権力者の娘であるだけに、身なりの大切さというものをカナンはわきまえていた。


 脱衣所で服を脱いで浴室に入る。


 浴室は岩を組み上げて作った小さな小屋で、浴槽もそれほど広くはない。だが、火や水をこれほど潤沢に使うことは普通の町民には出来ない。エルツ地方は入浴の文化が一般的だが、よほどの金持ちでない限り大衆浴場で済ませる。


 頭から順番に湯を被り、石鹸を泡立たせた布で身体を磨いていく。身体を洗うのは数週間ぶりのことだった。


 自分だけこんなことをしていて良いのかと思う一方で、内心、確かに喜んでもいた。カナンとて年頃の娘なのだ。必要以上に着飾るのは好きではないが、汗や垢を落とさず人前に出るのは苦痛である。


 背中はマルタが洗ってくれた。手取り足取りやってもらうのは性に合わないが、自分の命令を嬉々として待っている姿を見ると、どうにも無下には扱えなかった。


 実際、マルタはカナンの役に立ちたいと思っていたし、彼女の身体を洗うことも神聖なことと感じていた。


 カナンの裸体は美しかった。マルタ以外の何人なんぴとが見てもそう思うだろう。


 手脚はすらりと長く、それでいて均整がとれている。日に焼けた肌はいかにも健康的だが、それだけに赤らんだ頬や丸みを帯びた肩が殊更ことさら煽情的だった。手触りも絹のように滑らかで、背中などは触れると吸い付きそうなほど柔らかい。胸や腰は女性らしい綺麗な曲線を描いているが、無駄なあぶらは一切付いていなかった。金色の髪がうなじに張り付き、その色気のために、同性のマルタですら胸の高鳴りを抑えられなかった。


 もし伝説に登場する女神や天使がいるとすれば、こんな姿をしているのだろう。安直な感想だが、そうとしか思えない。


 髪と身体を洗い終えると、カナンは数分だけ湯船に浸かった。全身から旅の疲れが抜けて行くようで、そこから出るのはなかなか勇気の要ることだったが、どこに居るか分からないイスラのことを思うと、自分本位に行動するのは躊躇われた。


 全身を拭いて、マルタの用意してくれた旅装に身を包む。短時間で乾かそうとしたため、まだ微妙に湿っている箇所があったものの、大して気にはならなかった。それに、町長の用意した晴れ着を着てしまうと、ずるずると長居する羽目になるかもしれない。簡単に挨拶を済ませて、燈台の天火アトルに継火を済ませたら、それで出発するつもりだ。


 だが、先方にはそんな気など全く無かった。


 カナンは屋敷の最上階にある燈台へ呼び出された。もとより向かうつもりだったのだが、階段の上で正装した町長が揉み手をしながら待っているのを見ると、回れ右をして逃げ出したくなった。


「継火手様、ようこそリダの町へお越しくださいました。私は町長のアンナスと申します。どうか、お見知りおきを」


「エルシャの大祭司の娘、カナンと言います。こちらこそ、よろしくお願いします」


 カナンはアンナスの差し出した手を握った。


「お疲れのようでしたので、手前てまえどもの方で勝手にお着換えをさせていただきましたが、どうかご容赦のほどを……」


「こちらこそ、何から何まで心を砕いていただいて、感謝の言葉もありません。……まずは継火手としての責務を果たしたいのですが、よろしいですか?」


「願っても無いことです!」


 どうかよろしくお願いします、と言ってアンナスは屋上の扉を開いた。カナンはマルタの持って来た権杖を手に、燈台とは名ばかりのやぐらへ登った。


 杖をかざし、目を細めて祈りの言葉を紡ぐ。


「……天を去られし我らの神よ、小さき我が祈りを聞き入れ給え。汝が我に預けたもうたほむらを取り出し、新たな燭台にともすことを許し給え……」


 権杖の先端に蒼い天火アトルが現れる。それはゆっくりと勢いを強め、すぐに弱まっていたリダの炎よりも大きくなった。マルタは床に膝をついて両手を組み、アンナスも敬虔そうな表情で儀式を見守っている。


 カナンは杖の先端を天火アトルの中に差し込んだ。二つの炎は互いに混ざり合い、杖を巻き込んでカナンの腕にまで伸びてくるが、肌や服が焼けることはなかった。


「汝のほむらによって、人々が救われんことを。この焔が永遠に燃え続けるように、神よ、とこしえまで見守りたまえ」


 祈りの言葉が終わる頃には、燈台の炎は赤々と燃え盛っていた。強まった光は町を隅々まで照らし、大通りを歩く一人一人の顔が見えるほどに明るい。町の燈台が蘇ったことに気付いた町人たちは、その場で火に向かって跪いた。


 カナンはホッと肩の力を抜いた。エルシャで何度も練習してきたが、自分一人で儀式を行うのは初めてだった。自信はあったが、思っていたよりも緊張したな、と思う。


 ともあれ、これで彼女の仕事は終わった。この町に長居をする理由は無い。


「ありがとございます。これでしばらくの間は、このリダも安泰でしょう」


「お気になさらないでください、これも継火手の使命ですので。もし天火アトルの弱まるようなことがあれば、エルシャにナオミという継火手が居ますので、その方に手紙を出してください。決して無下に扱う人ではありませんので」


「承知しました。ところで、歓迎の準備を整えてあるのですが、良ければ……」


 アンナスが切り出すが、カナンは即座に断った。


「せっかくですが、辞退させていただきます。それより、私の守火手を知りませんか?」


「はて、貴女の守火手ですか。肌の焼けた方は誰も来ていませんが」


「私の守火手は闇渡りです」


 その時の町長の顔は、エルシャを旅立つ直前に見た父の表情とそっくりだった。


「彼がここまで連れてきたくれたはずです。イスラは今、どこにいますか?」


「ろ、牢屋の中に……」


 口を滑らせてから、アンナスは「しまった」と思った。驚愕のあまり思考が回らなくなっていたのだ。


 カナンがサッと顔色を変える。


「彼が、何か悪事を働きましたか?」


「……いえ、それは不明です。しかし闇渡りである以上、町の中を徘徊させるのは……」


「何の罪も犯していない人を、牢屋に入れたのですか?」


 カナンの声は静かだが、歳にそぐわない迫力があった。彼女自身、ふと心の中に灯った暗い炎を自覚し、自らの怒りに対して動揺した。だが、その慄きは表出させず、無表情のまま怒りを突き付ける。


「そこはその、私にも町の治安を維持する使命がありますので、どうかご容赦を……」


「それが貴方なりの流儀ということですね」


「存じ上げなかったのです!」


 町長は悲鳴をあげた。だが、半端な言い訳はカナンの怒りに一層油を注いだ。


「彼が私の守火手でないとしても、そんな不正義は見逃せない! 今すぐ解放していただく!」


 アンナスは弾かれたように動き出したが、すでに手遅れだった。


 役人の一人が息を切らせながら階段を駆け上がってきた。


「大変です町長! 衛士たちが……!」

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