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【第十節/秘蹟 下】

 まとめて倒す、というカナンは勇ましかったが、その声が微かに震えていることにイスラは気付いていた。背中から彼女の荒い息遣いが伝わってくる。


「あんた、ビビってるだろ」


「怖がらないわけにはいきませんよ。でも、大丈夫です。切り札がありますから」


「切り札?」


 胡乱な声でイスラは聞き返す。もたついている余裕は無い。夜魔たちはじりじりと包囲網を狭めつつあるのだ。せめて先手を打って一体でも仕留めないことには、状況を打破できない。


「剣を掲げてください!」


「遊んでる場合じゃないんだぞ!」


「良いから早く!」


「チッ!」


 言われるままにイスラは剣を頭上へ振り上げた。こちらの動きに合わせて、八体の夜魔が一斉に襲い掛かる。


「聖別されし者に我が祝福を授けん……!」


 カナンは細剣を振り上げ、イスラの伐剣を真横から叩いた。


秘蹟サクラメント!」


 瞬間、鐘の鳴るような音がした。


 その時イスラの身体に走った感覚は、それまで彼が感じてきたどのようなものとも異なっていた。


 まず、剣の柄が焼かれた石のように熱くなった。その熱が手の平に吸い込まれ、腕を伝って心臓に至り、全身へ広がっていく。まるで上等の火酒を飲んだ時のような、心臓が釜戸に変わったような感覚だ。だが酒と異なって酩酊することはなく、喉や鼻腔が焼けることもない。


 見ると、彼の手の中にある伐剣は、カナンの杖に宿るそれと同じ蒼い炎によって包まれていた。炎は彼の右腕の肘にまで及んでいるが、服や肌は少しも焼かれていない。むしろ身体の内側で燃え盛っている熱の方が、遥かに熱いくらいだ。


「これは……」


「前の敵は任せます!」


 背中が離れた。カナンは駆け出し、向かってくる四体の夜魔を迎撃する。


 イスラも、呆然としている場合ではなかった。


「クソッ、何が何だか!」


 腕も剣も、あるいは心臓も燃えている。滅多に取り乱さない彼でもさすがに頭を搔き毟りたくなった。


 そんな目下の苛立ちは、眼前の敵にぶつけるほかない。


 イスラはいつもと同じように大きく胸を張り、右腕を身体で隠すような形で構え、踏み出した。その一歩目の踏み込みの時点で、イスラは何か様子が違うことに気付いた。


 自分の想定よりも早く、夜魔の身体が眼前に迫る。イスラは反射的に剣を振り切った。


 伐剣は夜魔の身体を斬り裂いた。それも、とろけたバターのように易々と。


 彼の真後ろで両断された夜魔が崩れ落ちる。


 だが、振り返る暇もなく新手が襲い掛かって来た。振り下ろされた爪を辛うじて受けとめ、それどころか逆に押しのける。退けた夜魔の爪は、ドロドロと熔解していた。


 ようやく、自分の身に何が起こったか分かってきた。


「これが、秘蹟サクラメントってやつか……」


 継火手は体内に天火アトルを宿している。その一部を他者に分け与える行為を秘蹟サクラメントと呼ぶ。しかし、彼女らの第一の仕事が煌都の維持である以上、秘蹟の恩恵にあずかる人物は必然的に限られてくる。


 秘蹟を受けた者は、常人を越えた活力を得るとともに、退魔の力をも手に入れる。継火手の護衛としてこれほど頼もしい存在は無い。だからこそ、油によって聖別された特別な存在、すなわち守火手が必要とされるのだ。


 そんな大層なものを、こうもあっさりと渡されたのでは拍子抜けする。


「だが……この力があれば……!」


 イスラは剣の柄を強く握りしめた。


 二体の夜魔を両脇に従え、中央からグレゴリが突っ込んでくる。


 イスラは敵の左側面に回り込んだ。一体ずつ確実に始末していかなければならない。


 走りながら短剣を投擲し、敵の目を潰す。夜魔は動きを止める。が、倒れもしなかった。


 イスラは一気に駆け寄り、蒼炎をまとった伐剣で腕と胸をまとめて斬る。両断するには至らなかったが、炎にまかれた傷口は泡立ち、かつ溶け始めた。夜魔の肉体は蒼い炎に包まれ崩れていく。


 ただ斬るだけで夜魔を倒せるとは思いもしなかった。手応えも先ほどとは段違いに容易い。


 だが、なまじあっさりと倒せたことが不味かった。イスラの油断に付け込むように、グレゴリが手に持った三叉槍を投げつけてきた。


 咄嗟に反応して回避するが、穂先の一つがイスラの左肩を抉った。痛みに顔を顰めるが、グレゴリは新たに槍を創り出して投擲の構えをとっている。通常型の最後の一体も爪を振り上げ迫っていた。その爪を受け止め、上手く重心を移動させて夜魔の身体を盾に使う。すぐ目の前に三叉の槍の穂先が飛び出してきたが、夜魔はひるむどころか一層押し込む力を強めている。


 だが、先に根を上げたのは爪のほうだった。蝋燭のようにあっさりと折れ、大きな隙が出来る。


 イスラは逆袈裟に剣を振るい、返す刀で夜魔の頭を叩き潰した。燃え上がる夜魔を蹴り飛ばし、いよいよイスラはグレゴリと対峙する。


 グレゴリは獲物の長さと彼我の体格の差を活かして巧妙な攻撃を仕掛けて来る。だが、イスラはその全てを的確に捌いて見せた。


 それは彼の実力を示すものだが、同時に秘蹟のおかげでもあった。強化された肉体はいつも以上に敏捷に動いてくれる。防ぐことなど考えられないような強力な一撃でも、踏ん張れば耐えることが出来た。いつの間にか、傷の痛みさえ消えていた。


「行ける!」


 グレゴリの橫薙ぎを掻い潜り、そのまま一気に距離を詰めた。鱗で覆われた腹に伐剣を叩き込む。


 だが、刃先は硬質な音とともに弾かれた。


「なっ!?」


 迂闊だった。中途半端に食い込んだだけに、抜くのに少し手間が掛かった。


 それは、一秒あるかないかの隙だが、グレゴリが足元のイスラを蹴り飛ばすための時間としては長すぎる。


 鉤爪の生えた足がイスラの腹にめり込む。咄嗟に左腕で防いでなければ、腹の皮を破られていただろう。


 イスラの身体は一旦宙に浮いた後、地面に叩き付けられた。受け身を取ることが出来なかったのだ。右手には伐剣をしっかと握り締め、左腕はグレゴリの爪によって傷ついている。


「糞、何が……!」


 右腕を見ると、カナンから分けられた炎が消えつつあった。辛うじて刀身には燃え残りが宿っているが、右腕からは完全に消えてしまっている。釜戸のように熱かった心臓も、今や仄かな熱しか残していない。


 代わりに、左腕に負っていた傷は塞がりつつあった。まだ傷痕は残っているが、血の流れは止まっている。


 秘蹟が永続するものではないことにようやくイスラも気付いた。時限式か、それとも使うだけ減退するのかは分からないが、いずれにせよ過信することは出来ない。ましてや二度も慢心してしまったのは許しがたい愚行だ。


「……俺が舞い上がってたって? 冗談じゃない!」


 グレゴリの槍が迫る。頭上から振り下ろされたそれを紙一重のところで回避し、地面を這いながら先ほど斬りつけた箇所にもう一撃叩き込む。倒れない。夜魔の傷も塞がりつつあった。


 刀身に宿った炎は、あと僅か。


「……っ!」


 次の一振りで、おそらく秘蹟の残滓は消えてしまうだろう。これで決めなければならない。


 イスラは身体のバネを活かして跳ね起き、距離をとりつつグレゴリと向き合った。敵が突っ込んでくる。三叉の槍が真っ直ぐ彼に向かってくる。


 イスラは左に跳んだ。グレゴリの槍の死角だ。隙だらけの側面から攻めかかろうとする……が、敵は上半身を捻って無理やり薙ぎ払った。


 それを、イスラは読んでいた。


 伐剣で槍を受け止め、そのまま槍の柄の下で刀身を滑らせる。グレゴリが右脚で蹴りつけようとするが、鍵爪はイスラの身体を捉えられなかった。すでに彼は飛び上り、伐剣を振りかぶっていた。


 グレゴリの顔面に刃を埋め込む。手応えは良くなかった。せいぜい、兜のような頭骨を砕いた程度で、致命傷にはなっていない。伐剣の炎は完全に消えていた。


「チィッ!」


 反撃を覚悟して回避しようとした時、グレゴリの胸を燃える権杖が突き破った。炎は一瞬で怪物の身体を覆い、ぼろぼろに崩壊させる。


 その向こうから、肩で息を切らせたカナンが姿を現した。


「大丈夫ですか、イスラ!?」


 汗ばむ額に金色の髪が張り付いていた。片手に持った細剣には、夜魔の黒い体液がべったりと付着している。


「ああ、お陰様で。まさか逆に助けられるとは思わなかったよ」


「えへへ……そうでしょう? 私、結構役に……」


 言い終わらないうちに、カナンはがくりと膝を折った。「おい!」イスラは慌てて彼女の身体を支える。


「ちょっと、天火アトルを使い過ぎちゃったみたいです……初めてだからって調子に乗り過ぎました……」


「お、おい、寝るな!」


「……むりれす」


 イスラにもたれ掛かったまま、カナンはすやすやと寝息を立て始めた。


「ったく、どういう肝っ玉してるんだよ、こいつ……」


 イスラは拾った伐剣の柄で、こつんとカナンの頭を叩いた。彼女の口から涎がこぼれた。

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