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【第十節/秘蹟 上】

 カナンは走った。隆起した根を飛び越え、尖った枝や刺草いらくさを薙ぎながら、一刻も早く声のした方にたどり着こうとする。だが、イスラの目にはどうしようもなくノロマに見えた。


 やはり、こういう状況でカナンが動かないわけがない。分かってはいたが溜め息の一つもつきたくなる。


 あっさりと彼女に追いついたイスラは、肩に手をかけてグイと引っ張った。


「あんたは下がれ。出て行くことは無いよ」


「そんな……見捨てろってことですか!?」


「そうだって言いたいけど。どうせ無駄だろうからな。俺が先に行く。後からついて来い」


「……分かりました。お願いします」


 イスラは無言で伐剣を納めた。手袋をはめ直し、外套をカナンに押し付ける。何をする気なのか彼女が尋ねるよりも早く、少年はするりと樹上へ登った。


 瘴土の中とはいえど、樹の上に登ってしまえば関係無い。頭の上を冷えた風が通り過ぎていく。さきほどまで松明だけで歩いていたせいか、月明かりだけでも十二分に明るく見えた。


 イスラは声のした方に目を向ける。瘴土の中に一点、明らかに賑やかな箇所がある。目測でおおよそ二百ミトラ程度だろうか。


「よし」


「何か見えましたか?」


「ここから南東、二百ミトラほどの場所だ。時間は掛かっていいから、焦らずに歩いてこい」


「イスラはどうするんですか?」


「走っていく」


 カナンが止める間も無く、イスラは枝を思い切り踏みつけ跳んだ。


 闇の中を飛ぶ矢のように、イスラは加速を続ける。不安定な枝の上であるにも関わらず、地面を走るのと同じ感覚でイスラは樹々の間を飛び続けた。


 もちろん何の弊害も無いというわけではない。瘴土の鋭く尖った樹々は容赦なく彼に牙を向いた。


 細かい枝が足と言わず腕と言わず容赦なく切り裂き、頬にも新たな傷が増えていく。一本動くごとに新しい傷が増え、頬から流れる血が顔を真っ赤に染めた。


 防ぐことは出来ない。両腕で均衡をとらなければ、さすがのイスラもこんな荒業は実行出来ない。


 どの道、傷は増えるのだ。ここで血を流そうが、後で血を流そうが、結局は大して変わらないとイスラは思っている。


 枝を踏みつける音に混ざって、剣戟の音が大きくなってきた。血の臭いまでは区別がつかない。イスラは前方に目を凝らし、着地点を定める。


「あそこが……良いな」


 一際太い枝を踏みつけイスラは戦場に飛び込んだ。



 一閃。



 跳躍の勢いと渾身の一撃は、棒立ちになっていた夜魔を真っ二つに斬り裂いた。粘土の塊を斬りつけたような大きな抵抗が伝わってくる。


 耳障りな悲鳴を上げながら真っ二つになった夜魔はその場に崩れ落ちた。受け身を取ったイスラは立ち上がり剣を構え、油断なく情況を確認する。


 瘴土のなかにしては広い空間だが、そこに三体も夜魔が集まっているとさすがに狭く感じる。イスラが斬り捨てた一体も含め、全て一般的な人型の夜魔だった。


 人型とは言うが、その姿形は異形そのものだ。体型には個体差があるが、どれも手や腕が極端に長く、そこから鋭い爪が伸びているという点は共通している。全身は闇に溶けるように黒く、刺青いれずみを思わせる白い紋様が縦横無尽に走っていた。


 顔に当たる部分には蜘蛛とよく似た赤い目が散らばっている。胸や肩には硬質な鱗に覆われていて、生半可な武器など弾き返してしまう。


 夜魔たちの足元には三つの人影が倒れていた。ピクリとも動かない。どうみても手遅れだった。幸い、彼らの持っていた松明のおかげで視界は確保出来ているが、あまり時間はかけられないだろう。


「……カナンが見たら、どう言うかな」


 夜魔の咆哮など意にも介さずイスラは駆けだした。


(まずは手前の奴から……!)


 イスラは蛇のように身をかがめて、夜魔の足首を斬りつけた。


 敵が傾いで倒れるのに構わず、地面に落ちていた血まみれの剣を拾って突き出す。


 隙を突こうとしていた二体目は予想外の攻撃を受けて怯んだものの、その程度では倒れなかった。一体目も姿勢を立て直し襲い掛かってくる。


「やっぱり真っ二つにしないと駄目か」


 夜魔は半端な攻撃では殺せない。


 頭を潰す、首を刎ねる、胴を両断する。それくらいのことをしなければ夜魔は倒せない。


「だから面倒なんだよ……!」


 三体はイスラを囲むように展開し、休ませないよう波状攻撃を仕掛けて来る。一斉に掛かって来ない辺りが嫌らしい。そう来られたら逃げられるのだが、常に防戦に回っているとその隙さえ与えられない。


 だが、イスラは焦っていなかった。夜魔を三体同時に相手取るのは初めてではない。


 一体、踏み込んでくる。


 今だ、とイスラは呟いた。


 攻撃を紙一重の所で躱し、その長い腕をグイと引っ張る。重心を崩した夜魔はあっさりと倒れ込んだ。


 イスラは跳ぶ。引き倒した夜魔を踏み台にして、また、跳ぶ。


 着地点は二体目の夜魔の肩。その赤い目玉に、イスラは抜き放っていた短剣を突き立てた。


 三体目の爪が襲うが、その時には既にイスラの姿は無い。敵の頭上を飛び越え、着地してから真横に一閃。狙いは最も細い足首だ。


「オオッ!」


 倒れた敵に伐剣を叩き付ける。一回、二回、三回と純粋な殺意を余すことなくぶつける。


 ほどなく夜魔の頭は完全に潰れた。残りは一体、最初に踏みつけた個体だが、立ち直る前にイスラはその首を刎ねた。


 広場から音が消えた。


 イスラは息を整えながら得物に視線を落とす。刀身も手も、べっとりとした黒い血液に汚れていた。これを洗い落とすのはなかなかに骨の折れる仕事なのだ。


「あいつ、ちゃんと追いついて来れるかな」


 刀身を振りながらイスラは呟く。


 剣を納めなかったのは、彼なりの勘だった。戦いが終わっても油断はしていなかった。そして、まだ戦いは終わっていなかった。


 反射的にイスラは身を屈めた。頭の上を夜魔の爪が通り過ぎていく。舌打ちしながら距離を取るが、背後からもまた新たな夜魔が現れた。


 前方に五体、後方に三体。しかも、その内一体は通常型の夜魔ではなかった。一際太い胴体に、ニ十個ほどの赤い目玉。手には三又の槍を持っている。


「グレゴリか」


 夜魔の突然変異種、あるいは上位種に位置づけられている存在だ。見た目通り強大な膂力を持ち、人間の戦士のように練達した槍捌きをする厄介な敵だ。おまけに頑強さも輪をかけて高いときている。倒すよりも逃げることを優先したい相手だった。


「でも、この状況だとな……」


 前後を挟まれ、左右は植物に覆われている。逃げたり、木に登っている間に斬殺される可能性の方が高い。かといって正面切って戦うのはあまりに不利だ。


 そして何より、考えをまとめる時間など与えてくれるはずが無い。


 八体の夜魔は一斉にイスラへ襲い掛かった。イスラは剣を構えるが、頭の片隅では「駄目かもしれない」と考えていた。


 おそらく、カナンが樹々の間から現れなければ、その想像は実現していただろう。


「イスラ!」


「来るな、あんたは逃げろ!」


 カナンは迷い無く飛び出し、イスラと背中合わせに立った。


「我が蒼炎よ!」


 カナンの声と共に杖の先端が蒼い炎によって包まれた。光は瘴土の闇を押し分け、夜魔の醜悪な姿を暴き出す。彼女の炎に怯えたのか、距離を詰めていた夜魔たちは一斉に動きを止めた。だが、諦めてもくれない。視界が確保出来ただけで、依然として情況は悪かった。


「あんた、本当に俺の言うこと聞かないな。従うって最初に約束しただろ」


「何事にも例外はありますよ。第一、本来なら継火手の私の方が偉いんですからね?」


「だからってな、こんな修羅場に出てこられちゃ困る。俺だって逃げにくくなった」


 自分一人なら身を翻して逃げる自信がある。連中が動きを止めた今なら可能だろう。が、それはカナンを置いてけぼりにするということだ。そんな選択肢はイスラには無かった。


「逃げる必要はありません」


 カナンは腰に帯びた細剣を抜き放った。


「まとめて倒しましょう」

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