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【断章/ユディトの恋歌1 下】

 私たちの家は、エルシャの大燈台ジグラットに最も近い場所にある。光を最も浴びやすい位置にあるので、庭は小さな植物園のようになっている。 暇になったり、授業が嫌になると、カナンはいつも庭に出て行って夜まで戻らなかった。


 それでも、大体カナンの行きたがる場所は決まっている。池のほとりにある、林檎の木の下だ。その日もカナンは、私を林檎の木の下に連れて行った。


 先客がいた。


 一人の男の人が、林檎の木を背もたれにして、剣を抱えたまま眠っていた。


 私たちが十歳だから、あの人はたぶん二十歳だったはずだ。端整な顔立ちや背の高さは変わらないけれど、ぐっすりと眠る表情には子供っぽさが残っていた。


 一方で硬質な銀色の髪の毛は大人びている。平服を着ていたから、最初は剣を預けられた従者なのかと思ったけれど、それなら彼の抱えている剣の武骨さが説明できない。従者を雇うような武芸者なら、こんな地味な剣を持とうとはしないだろう。それに、肌の色もどちらかというと白くて、煌都の支配階級よりも一段低い位置にいるのだと思った。


「誰かな、この人」


「……私たちの先生候補かな」


「起こしてみるねっ」


 言うが早いが、カナンはあの人の肩を揺さぶった。私は慌てて「勝手に起こしたらダメよ!」と止めに入ったけれど、彼は心地よさそうにうめきながら目を覚ました。


 ……今でも、その時の彼の表情や、息遣いを憶えている。


 最初に思ったのは、ライオンに似ているな、ということだった。大きく伸びをする姿はどこかのんびりとしていて、それでいて退屈そうだ。今も、酔っている時以外は緩んだ表情を見せないのだけれど、その時の幸せそうな寝起き顔は忘れられない。


「……ああ、失礼。天火アトルに当たるのは久しぶりで、つい眠ってしまいました」


 そう言うと、彼は剣を持って立ち上がった。もうあの柔らかな表情はどこにも無くて、鉄で出来たような硬い面持ちに変わっている。銀色の髪や瞳が、余計にそう感じさせるのかもしれない。


「お邪魔だったでしょう。なまじ、身体が大きいものだから」


 ただ、今思うと、あの時の彼はそれなりに気を遣ってくれていたと思う。素面の時はまず冗談が言えない人だ。今でも、自分の顔つきを気にしている節があるから、あの時だって小さな女の子を怖がらせないように配慮してくれたのかもしれない。


「い、いえ、そんな……」


 でも、私はカナンのように振る舞えないから、どうしても中途半端な言葉しか出て来なかった。


「ねえ、あなたのお名前は?」


 物怖じしないカナンは、無作法なほど率直に名前を訊ねた。


「カナン、人に名前を訊ねる時は……」


「うん、わたし、カナン! こっちは」


「あ、姉のユディトですっ」


 私たちが口々にそう名乗ると、彼は少しだけ眉を動かした。「そうか、貴女たちが……」と呟いたので、私は「貴方も指南役に立候補を?」と尋ねた。それで、彼がどんな表情を見せるのか、少し気になったからだ。もし血相を変えて売り込もうとするようなら期待外れ。


 でも、彼はそんなことはしなかった。


「ええ。一応、立候補だけはさせていただいています。これくらいしか食い扶持のアテが無いので……申し遅れましたが、小生の名はギデオン、エルシャの軍人ヨアスの子です」


「ギデオン……強き戦士、という意味ですね」


 私がそう言うと、ギデオンはまた少しだけ鉄面皮を動かした。「よく知っていますね」と言う声は、私の気のせいかもしれないけれど、少し嬉しそうだった。


「古い名前ですから、もう誰も意味を知らないと思っていました」


「そんな……軍人らしい良い名前だと思います」


「ありがとうございます、実力もそれに見合うだけあれば良いのですが」


「ギデオンは、弱いの?」


 私は妹の頭を全力ではたいた。スパァンッ! と、良い音がしたのを憶えている。「ふぐぅ」とうめきながら、カナンは涙目でうずくまった。


 最近は多少マシになったけれど、基本的にあの子は図々しい。十歳の頃は本当に加減を知らなかった。


 それでも、ギデオンは気を悪くするどころか、かえって微笑ましそうに私たちを見ていた。それこそ、大人が子供に対して向ける目で。


「自分ではどうとも言えません。それこそ、他の人に決めてもらわなければ」


「それって、人任せじゃないの?」


「こらっ」


「いえ、カナン様の言う通りです。剣の腕に関わらず、物事の評価は他人に任せるに限る。自己評価など、大してアテにはなりません」


 カナンを叱っておきながら、今度は私が質問をしたくなった。


「それって……誰かに評価されるまで、頑張り続けないといけないってことですよね」


 もし彼の言う通りだとすれば、私がカナンに勝つために頑張っていることも、誰かに評価されるまで続くことになる。


 でも、たった一回で勝敗は決まらない。私とカナンが姉妹である以上、どちらが優れているかという比較は一生ついてまわる。私はそのたびに、他人からの評価に戦々恐々しなければならない。


 きっと、暗い顔をしていたのだろう。ギデオンは腕を組んだまま、軽く顎を撫でて言った。


「少々語弊がありました。小生は別に、評価を求めるべきとは思っていません。そんなものは勝手についてくるものです。どんな物事であれ……」


 いつの間にか、ギデオンは抜き身の剣を手に持っていた。抜刀の動作があまりに速くて、いつそれをしたのか分からなかった。


「小生の取り柄は剣です。叶うならば、何人なんぴとをも到達したことのないような高みに登り詰めたい。しかし、その高みとはどんなものなのか? どこまで登れば良いのか? ユディト様はどう思いますか」


 唐突に話題の矛先を向けられ、混乱した。ギデオンは剣を地面に突き立て、柄尻に手を乗せて私の答えを待っている。


「えっ……どう、って……誰にも負けないくらい?」


「なるほど。確かに、剣術の目的が戦いである以上、誰にも負けないほど強くなれば高みに登ったと言えるでしょう。では、その次は?」


「次?」


「例えば、瘴土の中には夜魔という怪物たちが住んでいます。彼らのなかには、剣では容易に斬れない者も存在する。例え人に勝てても、夜魔に勝てないのでは意味がない」


「じゃあ、夜魔も倒せるくらい強くなる!」


 訊かれるより早くカナンが答えた。ギデオンは小さく頷いた。


「それも良いでしょう。しかし、夜魔たちは魔王の創り出したものと言われています。当然、魔王は夜魔よりも強いでしょうから、夜魔たちだけを倒したとて、魔王を斬っていないのでは、完全な高みに達したとは言えない」


「でも……それじゃあ、どこまでいってもキリが無いです」


 私がそう言うと、ギデオンは力強く「その通りです」と言った。


「評価などどうでも良い、と言い切るのはさすがに憚られますが、過度に重要視するものでもありません。結局は、登り詰めたいと思うものに出会えるか、そのいただきを目指して歩んでいるか。その二つの方がよほど大切なのです。


 そうして愚直に山歩きを続けていれば、ふもとにいる人々や、別の山を登っている人が声を掛けてくれる」


 と、小生は思いますよ。ギデオンはそう締めた。ありふれた小話でもしたかのように。


 けれど、彼の言葉は、鐘の音のように私の胸の中で何度も反響した。


 ひたすら他人からの評価を気にしていた私にとって、ギデオンの言葉は少しも想像したことのないものだった。


 ……実は、数年前、酔ったギデオンにこの時のことを話した。とても感動した、と言ったら、「そんなに大層なことを言ったわけではありませんよ」と笑われてしまった。


 けれど、彼の言葉で私の人生は確かに変わった。なぜなら……。


「あのっ……」


 私がギデオンに話しかけようとした時、父が庭の向こうから歩いてくるのが見えた。傍らには大きな剣を抱えた大男が一緒についている。あちこちに痣や切り傷が出来ていて、先ほどまでの乱戦ぶりを示す見本になっていた。


「おお、ユディト、それにカナン。こんな所に居ったのか」


 ギデオンは即座に頭を下げたけれど、父はちらりと一瞥しただけだった。


「こちらの方に、お前たちの指導をしてもらうことになった。さ、挨拶なさい」


「嫌っ!!」


 間髪入れず、だった。さすがカナン。私に言えないことを平然と言ってのける。憧れたりなんかしないけど。


 それに、私だってそれ以上のことを言わせる気は無かった。


 私はギデオンの腰に抱き付いて、「この人に教えてもらいます!」と叫んでいた。そうしないと、同じことをカナンが言っただろうから。


 父も、その大男も、さらにはギデオンまで呆然と私たち姉妹を見ていた。やがて、自体を理解した大男が額に青筋を立てながらギデオンに詰め寄った。


「若造め……一体何を吹き込んだ」


「何も。ちょっとした立ち話をしていただけです」


かせ! 童心を惑わしおって! 大祭司猊下、今すぐこの男とも一戦交えさせていただきたい!」


 大男は今にもギデオンの胸倉を掴みそうな勢いだった。私も、いつの間にか反対側にしがみついていたカナンも、彼のズボンをギュッと握り締めた。


「……まあ、それも良かろう。君も剣を携えてここにおる以上、異論はあるまい?」


「ハッ」


 ギデオンは、私とカナンの頭をポンポンと軽く叩いた。不安げな表情で見上げると、彼は小さく微笑んでくれた。


 その笑顔を見た瞬間、この人ならきっと大丈夫、と確信した。胸の中がポッと暖かくなったのを憶えている。


 けれども、彼の前に立ち塞がった男は優にニミトラ(2メートル)以上の上背があって、服の上からでも分かるほど筋肉を蓄えている。手にした大剣は私たちの背丈よりも長くて、刀身は爛々と輝いていた。ギデオンも長身ではあるし、貧弱とは到底言えない体格だけれど、相対した男はそれこそ常人離れしていた。


 剣を握ったまま、二人はしばらく対峙した。大男は大剣を大上段に構えて、いつでも飛び掛かることの出来る態勢を整えている。一方のギデオンは、剣先は地面に向けたまま、静かに立っていた。


「始めい」


 父の号令と同時に、大男が斬りかかった。獣めいた雄叫びをあげながら、猛然と剣を振るう。一太刀ごとにブンブンと空気の切り裂かれる音がして、そのたびにカナンが「ひゃっ」とか「ひっ」と悲鳴をあげていた。


 私は悲鳴をあげたりはしなかった。そんな余裕は無くて、ただギデオンの戦いに心を奪われていた。「負けないで……!」たぶん、そう呟いたと思う。


 ギデオンは、防戦一方に見えた。


 大男の剣撃は凄まじく、見るからに重たい上に、勢いもある。それを何度も連続して繰り出せることからも、男の膂力が伺えた。


 ギデオンが受け手に回っていることに、歯痒いものを感じた。きっと、あの場の誰よりも私は緊張していたと思う。


 でも、その時間は長くは続かなかった。次第に私たちは、本当はどちらが有利なのか気付かされた。


 ギデオンは守ってばかりだけれど、後ろには一歩も下がっていない。正確には、左右に足を運びながら受け流している。大男の突きは軌道を逸らされ、上段からの攻撃はするりと左右に流される。横薙ぎの剣は上に跳ね上げ、切り上げは押さえつけて制圧する。つまり、大男は全ての攻め手を封じられていた。


「ぐ、ぬぅ……!」


 それでも起死回生を狙って、大男は大きく踏み出した。ギデオンは死角に回ろうとするけれど、ハッと何かに気付いて動きを止めた。


 大男はその隙に乗じて剣を横薙ぎに振るった。ギデオンが負ける! そう思った私はギュッと目を閉じた。次の瞬間、身体の芯まで震わすほどの音が響き渡った。


 恐る恐る目を開く。ギデオンは大男の剣を完全に受け止めていた。


 男は全力で剣を押し込もうとするけれど、ギデオンの剣は少しも揺るがない。返って男の方が押し込まれている。



「終わりだ」



 ギデオンが呟く。それに大男が反応するより早く、ギデオンは相手を押し飛ばしていた。男はすかさず反撃しようとするけれど、大上段に振り上げた剣の柄尻を、ギデオンは下から素早く打ち上げた。


 大剣がくるくると宙を舞う。その柄を掴んで、ギデオンは男の喉元に突きつけた。


 腕を振り上げたまま男は固まっていた。顔は紅潮していて、ぶるぶると震えていたけれど、やがて絞り出すような声で「参った」と言った。ギデオンは手の中でくるりと大剣を回転させて、その柄を男に差し出した。それを受け取った男は、大きくため息をついて庭から出て行った。


 父もカナンも私も、皆呆気に取られていた。あまりに鮮やかな彼の手際に、言葉など出るはずも無かった。


 今思えばあの大男も相当な腕だったのだけれど、ギデオンは自分自身を傷つけるどころか、あの男にも傷一つつけずに勝ってしまった。同じことは出来ないと、男も痛感したことだろう。


「……素晴らしい」


 呆けた声で父が言った。ギデオンはぺこりと頭を下げて「恐縮です」と答えた。


「是非、儂の方からお願いしたい。どうか、我が娘たちに武術を教えてやってくれんだろうか」


 私とカナンは飛び上がりそうになった。あの父が、誰かに「お願い」をすることなんて前代未聞だ。それだけの衝撃がギデオンの剣術にはあったのだ。


「身に余る光栄です……小生などでよろしいのでしたら」


「あれだけの技を見せられて、君を欲しがらぬ者などおらぬだろう。名前は何というのかね」


「ハッ。エルシャの軍人ヨアスの子、名をギデオンと申します」


「結構。ではギデオン、今日は荷物をまとめて、ただちに引っ越せるようにしておきなさい。部屋は儂の方で用意しよう。その白い肌では、儂としても積極的に人前に出せんからな。ここで暮らしなさい」


 この時ほど父に感謝したことは無い。ギデオンと一つ屋根の下で暮らせる、そう思っただけで、私の心臓はドキドキと高鳴った。


 もう、幼い私でも、この感情が何なのか気付いていた。


「ところで、一つ気になったことがあるのだが」


「ハッ、何でしょうか」


「途中で一度態勢を崩したように見えたが、何かあったのかね」


「ああ……それでしたら」


 ギデオンは、さっきまで眠っていた林檎の木を指さした。


「あの木に傷がつきそうだったので。少し、無理をしました」


「ほっ」


 父が目を丸くした。これも、滅多に見られない反応だ。


「猊下さえ良ければ、あの木の木陰を小生にいただけないでしょうか」


 他人からすれば冗談に聞こえるかもしれないけれど、ギデオンは真顔だった。本気でそう言ってしまうあたり、彼の感性は他人と少しズレている。


 でも、その時の私はもう、彼がどんなことを言っても受け入れられるように……肯定出来るようになっていた。彼の声を聞くだけで、幸せになれた。




◇◇◇




 私はカナンより劣っている。顔や背丈は同じだけれど、特別な天火アトルなんて持っていない。頭の回転も感性も、いたって普通だ。人とも特別早く打ち解けられるわけじゃない。


 でも、生まれてくるのと……初恋だけは、カナンよりも早かった。



 だから、誰よりも綺麗になろうと決めた。



 世界中のどんな女性よりも美しくなってみせる。そして、ギデオンに振り向いてもらう。他の人からの評価なんていらない、彼だけが綺麗だと言ってくれたら、もうそれ以外には何もいらない。カナンがどれだけ他人から評価されようと、そんなものにはもう何の価値も無い。


 幼いころにそう決めて、今でもその野心は燃え続けている。そして、彼を私の守火手にすることは出来たけれど……残念ながら、私の望む言葉は、まだもらえていない。

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