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【第七節/いざ、狭き門をくぐりて】

 イスラは城壁内の牢獄に閉じ込められていた。武器と外套を奪われ、動くに動けないので不貞寝を決め込んでいる。ひんやりとした石の壁にもたれ、黴くさい空気を吸いながら何とか眠りにつこうとしていた。


 だが、獄司たちが数分ごとに牢の前に立っては、珍獣でも見るような目でじろじろと不躾な視線を送ってくる。お陰で気が散って仕方がない。


 ならば、本当に獣になった気分で考えてみよう、と思った。


(もし俺が狼なら……この距離で舐め腐った態度をとる奴らには容赦しないだろうな。首に噛みついて終いだ)


 ところが自分は人間で、檻をすり抜けるようなことは出来ないし、鋭い爪や牙も持ち合わせていない。


 だが、格子越しでも届くものはある。


 また獄司たちがやって来た。今回は二人連れだ。手には石ころのように小さな黒パンを持っている。


「おい餌だぞ。闇渡り」


 獄司は犬にそうするように手を突き出してパンを振って見せている。獄司たちは下品な笑い声をあげた。


 イスラは動かない。俯いたままじっとしている。いつまで経っても反応が無いので、飽きた獄司はパンを投げ入れた。そこで初めてイスラは立ち上がる。


 屈んで、それを拾うかに見えた次の瞬間……イスラは跳ねるように鉄格子へ駆け寄り、獄司の服の襟元を掴んだ。


 格子の間から自分と獄司の頬を擦り合わせ、嚙みつくぞ、とでも言うかのように唸り声をあげる。さながら狼のように犬歯を剥き出しにして、獄司たちが正気に戻る寸前で突き飛ばす。


「へっへっへっ……」


 悪魔のようにイスラが笑うと、獄司たちは鉄格子があることも忘れて逃げ去った。イスラはパンを拾って口に放り込む。そして先程と同じように壁にもたれ掛かった。


 そんなに闇渡りが怖いのか、と思う。彼らの目には自分の白い肌と傷だらけの頬が大層異様に映るらしい。それを滑稽と思いこそすれ、傷ついたりはしなかった。


 ただ、ますますカナンと名乗った少女のことが奇妙に思えてくる。自分のような人間に油を注いでも仕方が無いだろうに。一体何がしたいのか。


 もしさしたる理由も無く自分を守火手に選んだのであれば、大うつけと言うほかない。それはそれで面白いと思う。馬鹿は世界を温めるとは過去の闇渡りの言だ。


 ただし、それに付き合わされるのが自分でなければ、の話だが。


「まったく、あのお嬢さん……とんでもない厄介事に巻き込んでくれたモンだ」


「いやあ、それほどでも。そんなに褒められると照れちゃいます」


「……褒めちゃいないよ」


 いつの間にか、檻の向こうにカナンが立っていた。


「『隣人があなたについて話すとき、それを良いものとして聞き入れなさい。疑いや悪口に心を痛めてはならない』」


 カナンはすらすらとそらんじた。若干、やり返してやったという色が見えないでもない。


 彼女はローブを脱ぎ捨て旅装に変身していた。白色のシャツに若葉色のチョッキを重ね、脚にぴったりと合わさった茶色のズボンを履いている。ブーツの丈は長く見るからに頑丈そうだ。腰のベルトには細身の片手剣を吊るし、肩にはイスラの荷物袋を引っ掛けている。外套は最初に彼女と出会った時と同じ、茶色の襤褸のような物を羽織っている。その右手には継火手の権杖けんじょうがあり、左手に伐剣ばっけんと短剣を携えていた。


「何だかな……呼ぶと出てくるような気がしてたよ」


「私は魔神か何かですか」


「似たようなモンだろ。それで、俺を助けに来てくれたのか?」


「ええ。何てったって、あなたは私の大切な守火手ですから」


 あっけらかんとカナンは言ってのけた。イスラは頭を抱えた。


「まだ言ってるのか。冗談もほどほどにして、俺をここから出してくれよ」


「もちろん」


 カナンは懐から鍵束を取り出した。


「……何で鍵を持ってるんだ?」


「拝借しました」


 カチリ、と音がして戸が開く。恐る恐る詰所の方に歩いて行くと、案の定先程の獄司たちが泡を吹いて倒れていた。ご丁寧に縛り上げられた上、猿轡まで嵌められている。


「おいおい、これじゃ立派な牢破りだな」


「そうですね。でも、あのままだったら明日は城壁に吊るされて、カラスの朝ご飯になってますよ?」


「そりゃ勘弁……しかし、びっくりするほど呑気だな、ここは。まるでザルじゃないか」


 装備を定位置に着けながらイスラは言った。この区画には、彼を閉じ込めていた場所も含めて五つしか牢が無い。その内三つ(と一つ)は空になり、あとの一つでは酔漢がいびきをかいている。詰所は小さく、獄司も二人しかいなかったことから、警備にはさほど力を注いでいないのだろう。


「建前上、煌都に犯罪者はいないことになってますから。ここもせいぜい留置所くらいの機能しかありませんよ」


「だとしても、そう易々と侵入は出来ないだろ? 出て行くこともな」


 詰所はそれぞれ本部と結ばれていて、必ず人の多い箇所を通らなければならない。仮に牢破りが出ても、関門は抜けられない造りになっている。だが、カナンはさして困った様子でもなかった。


「ご心配無く。道はちゃんと確保してありますよ」


 そう言って、カナンはごみ捨て用の排出口の蓋を跳ね上げ、こいこいと手招きする。


「よくこんな道を思いついたな……」


「経験者から聞いたんですよ。さ、急がないと」


 言うが早いが、カナンは排出口内の滑り台に身体を乗せた。イスラは頭を掻きながら後に続いた。




◇◇◇




 すでに大燈台ジグラートの遮光壁は降りかけている。煌都に「夜」が訪れようとしていた。燈台の炎に代わって街灯が次々と点火されていく。それでも人通りは確実に減りつつあった。祭の熱もほとぼりが冷め、疲れた人々は家路についている。


 そんな中を逆行するように、イスラとカナンは貧民街を走っていた。もう脱走したことがバレているかもしれない。それを思うと悠長にはしていられなかった。


 目指すは都市の東側。そこは城壁の途切れ目になっていて、岩で出来た建造物が点々としている。必然的にあぶれた者の巣窟となるわけだが、反面、警備はお粗末だ。


 無闇に入り込むのは危険だが、こういう場所に住む人間ほど内心臆病であることをカナンは知っていた。小競り合いは同じ共同体に属する者としか起き得ない。いたずらに外部の者と接触すると、余計な介入を招きかねないからだ。


 ましてや血相を変えて走る二人……うち一人は闇渡りの組み合わせを邪魔する者など、いるはずが無い。彼らとて都市の人間、余所者が怖いのは一緒である。


 イスラは彼女の妙な知識や大胆な判断に内心舌を巻きながら、一方では本当についてくる気なのか未だに信じ切れずにいた。門の前で両足を揃えて「やっぱりやめます」と言うかもしれない。というか、言って欲しかった。


「なあ、あんた」


「何ですか?」


「今更だが、どうして俺について来ようとする? 都市の外に出たがる理由は何だ」


「今はまだ話せません」


「やましいことがあるのか」


「そうじゃないです。話すと長くなるし、じっくり説明しないと理解して貰えないでしょうから」


 難しい話は嫌だな、とイスラは思った。


 そうこうする内に、二人は都市の外縁部へたどり着いた。蔦に覆われた石造りの廃墟があちこちに立ち並んでいる。都市の内と外とをかつての関所跡が隔てているが、門の高さは大人がようやく潜れる程度で、横幅はロバと並んで何とか通れる程度だ。恐らく、最も簡単にエルシャへ入り込める門だろう。


 イスラはその狭い門の取っ手に手を掛け、ふと顔を上げる。


「その理由ってのは、俺が納得出来そうなものか?」


「そうであると信じています」


「俺はあんたを信用してないぜ?」


「分かっています。だから、あなたが私を信じてくれたら、ちゃんとお話しします……これから、森を抜けるんですね?」


「ああ。闇渡りは街道を歩けないからな」


「では、次の煌都にたどり着くまでに、あなたが私を認めてくれたらお話しします」


「……分かった」


 ただし、とイスラは付け加える。


「途中で根を上げたら、全部チャラだ。森を抜けられないと判断して、街道に放り出す」


「はい」


「俺の判断には絶対に従え。素人判断で動くなよ?」


「それは、もちろん」


「魚を手掴みして、はらわたを掻き出せるか!?」


「出来ます!」


「虫を喰う日もあるぞ、たまに! 喰えるか!?」


「喰います!」


「ウサギを絞めて、毛を毟るのは!!」


「やります!!」


 イスラのくどいほどの質問に対して、カナンは胸を張り律儀に答えて見せた。彼女が本当にその深刻さを理解しているのかは分からないが、少なくとも、中途半端な意思でないことだけは確かそうだった。


「……ま、試してみようか」


 イスラは扉を開け放つ。カナンはその狭い門を潜り、本当の夜へと踏み出した。


 かくして旅は始まったのだ。

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