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【第二節/「恩には恩を」】

 イスラのこぶしはレヴィンの頬に直撃し、料理が載ったままの机の上まで吹き飛ばした。机が倒れ、食器の割れる音が静まり返った空気を一瞬で掻き乱した。


「き、貴様ァ!」


「何だよ、大将がぶん殴られてようやく動き出すなんざトロ過ぎるぜ」


「う、うるさい!」


 挑発に乗った兵士たちがイスラに殺到する。


 だが、一斉に動き出したせいで、レヴィンの暴行を目の当たりにした客たちが狂ったように反撃へと転じた。やらなければやられる、そんな心理が働いたのかもしれない。


 飛んできた椅子が一人の兵士の頭に当たり、それを火蓋に大乱闘が始まった。


 酒瓶が飛び、食器が飛び、時々人が投げ飛ばされる。脆い壁を突き破って大通りまで放り出される者まで出る始末だ。


 そんな大騒ぎの渦中に居るイスラは、両勢力を相手に大立ち回りを繰り広げていた。


 正面から殴りかかってきた兵士を返り討ちにし、後ろから組み付いてきた客の顔に裏拳を当ててから突き飛ばす。飛んできた壺を避けると真後ろにいた誰かに当たり、中に入っていた麦酒ビラーが飛び散った。頬に掛かったそれを舐めていると、外套を誰かに引っ張られた。


 反射的に拳を振るったが、当たる直前で受け止められた。


 手加減無しの一打を止めたのは、先ほどまで彼と食事を共にしていた人物だった。


「こっちです!」


 イスラはほとんど引きずられるように店の外へと連れ出された。その拍子にフードが外れ、隠されていた金色の髪が彼の目の前で踊った。


 騒ぎを聞きつけたのか、祭の警備に当たっていた兵士までもがこちらに集結しつつあった。しかも、二人の姿を見るや血相を変えて追いかけて来る。


「あんた、ひょっとして女か」


「ええ!」


「驚いたな。さっきのは、手加減してなかったんだが」


「私も驚きましたよ。よりにもよって軍人を殴り飛ばすなんて!」


「闇渡りの掟に従ったまでだ」


 イスラは平然と言ってのけた。


「過ぎた狼藉云々っていう、アレですか? 貴方だって大概ですよ!」


「そっちじゃない。人情人のシモン曰く、受けた恩には即座に報いよ。さすればより大きな実りとならん……俺が行かなかったら、あんたが殴りに行ってたんじゃないのか?」


「……私なら、もうちょっと穏便なやり方にします」


 イスラの手を引いたまま少女は城壁の方に向かって走り出した。訳の分からないまま彼はその後についていくが、あの場所に留まっていても得をすることは何も無いだろう。ここは逃げるにくはない。


 問題はこの少女の正体だ。暗い路地裏ばかり走っているため、どんな顔をしているのかまるでわからない。短く切った髪の毛が金色だと分かる程度だ。


 自分はともかく、何故彼女が逃げる必要があるのか、そもそもどうして自分を誘ったのか。疑問は色々浮かんでくる。


「それに、私が何か、恩を売るようなことをしましたか?」


「飯を食おうって誘ってくれた」


「それだけのことで!?」


 少女が頓狂な声を上げる。


「十分な恩義だよ。俺たちにとっちゃね」


「……」


 少女は下級民街の構造に詳しいらしく、ほとんど迷うことなく道を決めて飛び込んでいく。だが、イスラは違和感を覚えていた。


 下級民の手にしてはずいぶん感触が柔らかい。剣ダコはあるがそれだけだ。自分も含めて、生活に余裕の無い人間がこんな風に手を荒らさないでいることは難しい。それに、ずいぶん息も上がってきている。足は速いが、体力が無い証拠だ。そういうことが分かるのは、常に周囲を観察して生きてきたからに他ならない。


「なあ、あんた」


「なにっ、です、か!? 出来れば、手短に」


「どこまで逃げる気だ? 俺は別に、逃げなくても良いと思うんだが」


 息の荒い少女と反対に、イスラは淡々としていた。この程度の早駆けなど、走っているうちに入らない。


「誰の、せいで、こうなったと……私にとっては都合が悪いんです!」


「そうか」


「そうです!」


「逃げたいんだな?」


「もちろん!」


「じゃあこのままだと捕まるな。よっ……と」


「え? きゃっ!」


 イスラは少女の手を引っ張り、態勢を崩した彼女の胴を素早く抱え上げた。


「何をっ!?」


「こうした方が速いだろ。あんたは指図してくれたら良い」


「そういう問題じゃ……って、お腹痛い! 締まる、締まってます!」


「やかましい。跳ぶぞ」


 少女が返事をするのも待たず、イスラは目の前にあった樽を踏み台にして大きく跳躍した。少女から悲鳴が上がったのは言うまでもない。




◇◇◇




 エルシャを一周する観覧式はもうすぐ終わろうとしていた。城壁に面した外延部を回り終え、行列は再び中央通りに戻ろうとしている。もう一度、継火手つぎびてたちの煌びやかな姿を見ようと、先ほどにもまして見物客は増えていた。


 彼ら一般市民からすれば、普段は大燈台の内側に籠っている上流階級を垣間見る数少ない機会である。少年たちは礼装した軍人に憧れの視線を向け、年頃の娘は継火手の女性たちが纏う純白のローブに溜息を漏らす。彼らのほとんどは美しい容姿をしていて、顔には下級民が自然と蓄えていくような苦労の色など微塵も見えない。


 しかし、わけても最後尾の戦車に乗った少女は、他の継火手たちさえ霞むほどの美貌を備えていた。


 華奢な肢体、滝のように流れる金色の髪、可憐な容貌に、蒼玉のような深い青色を湛えた瞳。そしてなにより、天火アトルの恵みを浴びた証である褐色の肌。都市における美女の条件を彼女は全て満たしていた。戦車の上で権杖をかざし、そこから放たれた光が見物人達を照らすたびに感謝や歓喜の声が沸き起こる。


 その傍らに軍服を纏った青年がゆっくりと近づき、正面を向いたまま呟くように言った。


「ユディト様、妹君が見つかりました」


「あの子のことですから、どうせ下町に居たのでしょう?」


「は……それが、少々事態がこじれていまして」


「何か問題でも?」


「闇渡りに攫われた、と報告が上がっています」


「……一緒についていった、あるいは連れ出した、の間違いでしょうね」


 ユディトは苦笑しながらかぶりを振った。


「小生もそう思いますが、さすがに見逃すわけにもいきません」


「連れ戻してくれますか、ギデオン?」


「仰せの通りに。闇渡りの方はどういたしますか?」


「追い払ってください」


「承知」


 短くそう答えてギデオンは列を離れていった。だが、一人残ったユディトは誰にも聞かれないよう小さく呟く。


「でも、もう手遅れかしらね」

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