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第72話

「ふんっ!ふんっ!ふんっ!」

 目の前でアリアが棒で宙を突いている。最初の頃に比べると、動きに無駄と迷いがなくなり、速く、そして鋭さを増した印象を受ける。風を切る音も違うように聞こえるな。アリアは確実に上達していると言えよう。この短時間で、良くこれだけ成長したものだ。これも時間を見つけては練習していた、アリアの努力が実ったのだろう。しかし…。

「いつッ!…ふんっ!ふんっ!」

 夜風に微かに血の臭いが混じる。またマメでも潰れたか?それとも皮でも破れたか?今のアリアの手は、見るも無残にボロボロになっていた。明らかにやり過ぎだな。これでは自傷行為と変わらん。

「アリアよ。今日はもう遅い。寝るぞ」

「もうちょっとだけっ!ふんっ!ふんっ!」

「それは先程聞いた」

 我がアリアに声をかけたのは、これで3回目だ。過去二回も「もうちょっと」と言って、結局止めなかったではないか。今回も止めない魂胆に違いない。

「怪我しているのだろう?今日はもう止めておけ」

「ふんっ!ふんっ!ふんっ!」

 無視か。

「何を焦っているのだ?」

 アリアが棒を振り回すのを止め、勢いよくこちらを向く。

「焦ってる!?私が!?」

 声は怒ってるようだ。だが、その顔は泣いてしまいそうな程歪んでいた。

「焦っているだろう?いったい何を恐れているのだ?」

「…ッ!はぁー…。どうしてあなたにはそうデリカシーってものが無いの?」

 アリアが一瞬力を込めたように見えたが、次の瞬間には脱力していた。その目は不満そうに我を見ている。なんだか心外だな。

「人の心にずかずか入り込んできて…」

「それで?何を悩んでいるのだ?」

 アリアがよく分からないことを言い始めたので、我は聞いてみることにした。

「はぁー。あなたも知ってるでしょ?私は落ちこぼれの魔導士なの」

「クラスで一番弱いんだったか」

「あなたに言われるとムカつくわね…。でも、その通りよ」

 その後のアリアの説明はよく分からなかった。精密魔力検査だとか、放出口が1しかないとか言われてもよく分からない。しかし、アリアの弱い理由、魔術の発動が人よりも遅い、高度な魔術は使えないというのは、アリアの体質的な問題で、改善の余地が無いらしい。

「だから、私にもできること“槍術”を頑張ろうと思ったのよ。皆の足を引っ張りたくないし…」「そうか…。ん?槍術?棒術ではなかったか?」

「頼み込んで、より実践的に槍術を教えてもらってるのよ」

 最初は護身術として棒術を教えてもらっていたが、これは自分の身を守ることに重きを置いたものだった。しかし、アリアは相手を倒し、制圧する手段を求めて、槍術に手を出したようだ。槍術で魔術の腕を補おうと考えているらしい。

「気がつかなかったな」

 同じように棒を振ってるようにしか見えなかった。棒術と槍術は似ているみたいだ。基本は同じなのかもしれない。

「結構違うのよ?槍術は刃の角度とかも気を付けないといけないし」

 アリアに言わせると違うらしいが、見てる分には違いが分からん。話が逸れたな。本筋に戻さねば。

「だがな、アリア。今のお前は明らかに無理をしている。自分でも分かっているだろう?」

「無理なんてしてないわよ…」

 アリアが我から顔を逸らし、小さな声で反論する。

「いいや、無理をしている。朝なんて遅くまで寝ているし、起こしてもなかなか起きないし、いつも眠たそうにしているし、今日なんて授業中に寝て先生に怒られていたではないか。それに…」

「あーもー!分かった、分かったから!」

 本当に分かってくれたのか?

「今日はもう止めにしておく。これで良いでしょ?」

「今日に限った話ではない。別に槍術の練習をするなと言ってるわけではない。無理をするなと言っているのだ」

「でも…」

 アリアが不安そうな顔を見せる。

「アリア。心配せずとも、アリアは確実に上達している。焦る必要など無いのだ」

「…ほんと?」

「本当だとも」

 アリアは悩む様に黙り込む。暫し時が流れ、やがてポツリと呟く様に。

「……分かった」

 やっと了承してくれたか。このままアリアの意思が変わらない内に寝かせてしまおう。

「では、もう寝よう。夜も遅いからな」

「分かったわよ…」

 アリアと連れ立って部屋に帰る。まったく、やれやれだ。

「どれ、見せてみろ。手を怪我しているのだろう?傷口を舐めてやろう」

 舐めると傷の治りが早くなるからな。

「…止めておくわ。あなたの舌、ザラザラで痛そうだもの」

 コイツ、猫の親切を何だと思ってやがる。

 ◇

「寒っ!」

 女子寮を出た所で、急な木枯らしに吹かれ、アリアが悲鳴を上げる。その手はスカートの裾をしっかりと握っており、風でスカートが捲れないように押さえつけている。いつもながらすごい反射速度だ。熟練した技をそこに見た。

 不思議なのだが、アリアはスカートの下に穿いている下着を人に見られることを嫌う。恥ずかしいらしい。何故わざわざ見られて恥ずかしいものを身に付けるのか謎だ。恥ずかしいなら穿かなければ良いではないか。そしたら見られる心配もない。

「暖かくなってきたけど、まだまだ寒いわね」

「そうだな」

 寒いのは苦手だ。ふと、アリアの視線を感じて上を見上げる。アリアの顔には面白がるような笑みがあった。

「クロはそんな立派な毛皮を着てるのに、まだ寒いのね」

「毛皮と言うな」

 着ているのではない、自前だ。失敬な奴め。

 歩き出したアリアに並んで我も歩き出す。冷気を発しそうな程冷たく冷えた石畳に辟易する。足を踏み出す度に、冷たさが肉球を貫いて我に襲い掛かる。木枯らしも相まって、どんどんと我の体温が奪われていく心地がした。

「ではな」

 教室に行くアリアとは途中で分かれ、我は中庭へと早歩きで向かう。一刻も早く暖を取りたい気分だった。

 校舎を曲がると、中庭の様子が見える。日向で横になっているイノリスの姿が見えた。アイツはでかいからな、すぐに分かる。我はイノリスへと歩を進めた。

 我の接近に気付いたのか、イノリスが目を開けてこちらを見た。

『なんだい、クロか。おはよ』

 イノリスの言葉が分かるということは、キースの奴も居るな。

「おはよう」

 我は挨拶を済ますと、早速とばかりにイノリスの腹の方へと回り込む。其処が一番温かいのだ。だが、其処にはもう先客が居た。

「おはようございます、クロムさん」

「リノアも居たか、おはよう」

 我はイノリスとリノアにくっつくように身を寄せると座り込んだ。ああ、温かい。ぬくぬくだ。

「はぁー…。生き返る心地だ」

「まぁ。大げさですよ」

 リノアがクスクスと笑う。だが、大げさでも何でもない。肉球がもげるかと思うくらい寒かったのだ。それに比べれば此処は極楽である。

『なんだい、クロは寒がりだねぇ』

「イノリスは寒くはないのか?」

『そこまで寒くはないねぇ』

 イノリスは寒さに強いらしい。ん?そう言えばキースの奴は何処に居るんだ?あのおしゃべりが黙っているなんて珍しい。

『此処に居ますぞ』

 イノリスのふわふわの毛の中から、キースが顔を出してはすぐに引っ込んだ。何してるんだ、アイツ。

『私めはどうしても寒いのが苦手でして、こうしてイノリス嬢の中で寒さを凌いでいるのですよ。まったくもって冬というのは嫌な季節ですね。どうしてこんなに寒いのか!ああ!しゃべるだけで!息を吸うだけで寒い!皆さんとおしゃべりしたいのに、天はそれさえも許してはくれない!ああ、なんて憐れなわ・た・し…。という訳で、私の事はどうぞお気になさらず、皆さんご歓談ください。では!』

 相変わらず騒がしい奴だ。言いたい事だけ言って引っ込んでしまった。だが、キースの気持ちも分からんでもない。こうも寒いとな…。口数は自然と少なくなる。

 無言の間が暫し続く。しかし、我にはその無言の時間さえ愛おしく感じる。

 本当に寒いのが嫌なら、部屋の中で、温かい布団に包まっているという選択肢もあるのだ。しかし、寒い寒いと言いながらも此処に来てしまうのは、仲間と居るのが楽しいからだろう。

「仲間か…」

 少し前の、野良猫時代の我なら嗤ってしまうような言葉だ。我も丸くなったということかな?それとも大人になっただろうか?余裕が持てるようになったのは確かだな。

「どうかしましたの?」

「なんでもない」

 我はリノアと顔をこすり合わせて目を瞑った。

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