「ふんっ!ふんっ!ふんっ!」
目の前でアリアが棒で宙を突いている。最初の頃に比べると、動きに無駄と迷いがなくなり、速く、そして鋭さを増した印象を受ける。風を切る音も違うように聞こえるな。アリアは確実に上達していると言えよう。この短時間で、良くこれだけ成長したものだ。これも時間を見つけては練習していた、アリアの努力が実ったのだろう。しかし…。
「いつッ!…ふんっ!ふんっ!」
夜風に微かに血の臭いが混じる。またマメでも潰れたか?それとも皮でも破れたか?今のアリアの手は、見るも無残にボロボロになっていた。明らかにやり過ぎだな。これでは自傷行為と変わらん。
「アリアよ。今日はもう遅い。寝るぞ」
「もうちょっとだけっ!ふんっ!ふんっ!」
「それは先程聞いた」
我がアリアに声をかけたのは、これで3回目だ。過去二回も「もうちょっと」と言って、結局止めなかったではないか。今回も止めない魂胆に違いない。
「怪我しているのだろう?今日はもう止めておけ」
「ふんっ!ふんっ!ふんっ!」
無視か。
「何を焦っているのだ?」
アリアが棒を振り回すのを止め、勢いよくこちらを向く。
「焦ってる!?私が!?」
声は怒ってるようだ。だが、その顔は泣いてしまいそうな程歪んでいた。
「焦っているだろう?いったい何を恐れているのだ?」
「…ッ!はぁー…。どうしてあなたにはそうデリカシーってものが無いの?」
アリアが一瞬力を込めたように見えたが、次の瞬間には脱力していた。その目は不満そうに我を見ている。なんだか心外だな。
「人の心にずかずか入り込んできて…」
「それで?何を悩んでいるのだ?」
アリアがよく分からないことを言い始めたので、我は聞いてみることにした。
「はぁー。あなたも知ってるでしょ?私は落ちこぼれの魔導士なの」
「クラスで一番弱いんだったか」
「あなたに言われるとムカつくわね…。でも、その通りよ」
その後のアリアの説明はよく分からなかった。精密魔力検査だとか、放出口が1しかないとか言われてもよく分からない。しかし、アリアの弱い理由、魔術の発動が人よりも遅い、高度な魔術は使えないというのは、アリアの体質的な問題で、改善の余地が無いらしい。
「だから、私にもできること“槍術”を頑張ろうと思ったのよ。皆の足を引っ張りたくないし…」「そうか…。ん?槍術?棒術ではなかったか?」
「頼み込んで、より実践的に槍術を教えてもらってるのよ」
最初は護身術として棒術を教えてもらっていたが、これは自分の身を守ることに重きを置いたものだった。しかし、アリアは相手を倒し、制圧する手段を求めて、槍術に手を出したようだ。槍術で魔術の腕を補おうと考えているらしい。
「気がつかなかったな」
同じように棒を振ってるようにしか見えなかった。棒術と槍術は似ているみたいだ。基本は同じなのかもしれない。
「結構違うのよ?槍術は刃の角度とかも気を付けないといけないし」
アリアに言わせると違うらしいが、見てる分には違いが分からん。話が逸れたな。本筋に戻さねば。
「だがな、アリア。今のお前は明らかに無理をしている。自分でも分かっているだろう?」
「無理なんてしてないわよ…」
アリアが我から顔を逸らし、小さな声で反論する。
「いいや、無理をしている。朝なんて遅くまで寝ているし、起こしてもなかなか起きないし、いつも眠たそうにしているし、今日なんて授業中に寝て先生に怒られていたではないか。それに…」
「あーもー!分かった、分かったから!」
本当に分かってくれたのか?
「今日はもう止めにしておく。これで良いでしょ?」
「今日に限った話ではない。別に槍術の練習をするなと言ってるわけではない。無理をするなと言っているのだ」
「でも…」
アリアが不安そうな顔を見せる。
「アリア。心配せずとも、アリアは確実に上達している。焦る必要など無いのだ」
「…ほんと?」
「本当だとも」
アリアは悩む様に黙り込む。暫し時が流れ、やがてポツリと呟く様に。
「……分かった」
やっと了承してくれたか。このままアリアの意思が変わらない内に寝かせてしまおう。
「では、もう寝よう。夜も遅いからな」
「分かったわよ…」
アリアと連れ立って部屋に帰る。まったく、やれやれだ。
「どれ、見せてみろ。手を怪我しているのだろう?傷口を舐めてやろう」
舐めると傷の治りが早くなるからな。
「…止めておくわ。あなたの舌、ザラザラで痛そうだもの」
コイツ、猫の親切を何だと思ってやがる。
◇
「寒っ!」
女子寮を出た所で、急な木枯らしに吹かれ、アリアが悲鳴を上げる。その手はスカートの裾をしっかりと握っており、風でスカートが捲れないように押さえつけている。いつもながらすごい反射速度だ。熟練した技をそこに見た。
不思議なのだが、アリアはスカートの下に穿いている下着を人に見られることを嫌う。恥ずかしいらしい。何故わざわざ見られて恥ずかしいものを身に付けるのか謎だ。恥ずかしいなら穿かなければ良いではないか。そしたら見られる心配もない。
「暖かくなってきたけど、まだまだ寒いわね」
「そうだな」
寒いのは苦手だ。ふと、アリアの視線を感じて上を見上げる。アリアの顔には面白がるような笑みがあった。
「クロはそんな立派な毛皮を着てるのに、まだ寒いのね」
「毛皮と言うな」
着ているのではない、自前だ。失敬な奴め。
歩き出したアリアに並んで我も歩き出す。冷気を発しそうな程冷たく冷えた石畳に辟易する。足を踏み出す度に、冷たさが肉球を貫いて我に襲い掛かる。木枯らしも相まって、どんどんと我の体温が奪われていく心地がした。
「ではな」
教室に行くアリアとは途中で分かれ、我は中庭へと早歩きで向かう。一刻も早く暖を取りたい気分だった。
校舎を曲がると、中庭の様子が見える。日向で横になっているイノリスの姿が見えた。アイツはでかいからな、すぐに分かる。我はイノリスへと歩を進めた。
我の接近に気付いたのか、イノリスが目を開けてこちらを見た。
『なんだい、クロか。おはよ』
イノリスの言葉が分かるということは、キースの奴も居るな。
「おはよう」
我は挨拶を済ますと、早速とばかりにイノリスの腹の方へと回り込む。其処が一番温かいのだ。だが、其処にはもう先客が居た。
「おはようございます、クロムさん」
「リノアも居たか、おはよう」
我はイノリスとリノアにくっつくように身を寄せると座り込んだ。ああ、温かい。ぬくぬくだ。
「はぁー…。生き返る心地だ」
「まぁ。大げさですよ」
リノアがクスクスと笑う。だが、大げさでも何でもない。肉球がもげるかと思うくらい寒かったのだ。それに比べれば此処は極楽である。
『なんだい、クロは寒がりだねぇ』
「イノリスは寒くはないのか?」
『そこまで寒くはないねぇ』
イノリスは寒さに強いらしい。ん?そう言えばキースの奴は何処に居るんだ?あのおしゃべりが黙っているなんて珍しい。
『此処に居ますぞ』
イノリスのふわふわの毛の中から、キースが顔を出してはすぐに引っ込んだ。何してるんだ、アイツ。
『私めはどうしても寒いのが苦手でして、こうしてイノリス嬢の中で寒さを凌いでいるのですよ。まったくもって冬というのは嫌な季節ですね。どうしてこんなに寒いのか!ああ!しゃべるだけで!息を吸うだけで寒い!皆さんとおしゃべりしたいのに、天はそれさえも許してはくれない!ああ、なんて憐れなわ・た・し…。という訳で、私の事はどうぞお気になさらず、皆さんご歓談ください。では!』
相変わらず騒がしい奴だ。言いたい事だけ言って引っ込んでしまった。だが、キースの気持ちも分からんでもない。こうも寒いとな…。口数は自然と少なくなる。
無言の間が暫し続く。しかし、我にはその無言の時間さえ愛おしく感じる。
本当に寒いのが嫌なら、部屋の中で、温かい布団に包まっているという選択肢もあるのだ。しかし、寒い寒いと言いながらも此処に来てしまうのは、仲間と居るのが楽しいからだろう。
「仲間か…」
少し前の、野良猫時代の我なら嗤ってしまうような言葉だ。我も丸くなったということかな?それとも大人になっただろうか?余裕が持てるようになったのは確かだな。
「どうかしましたの?」
「なんでもない」
我はリノアと顔をこすり合わせて目を瞑った。