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三章

 今夜は空虚な色が夜空を覆い尽くしていた。街の薄汚い灯りのせいで星の輝きが薄らいでいくのは当然のことながら、その街の灯りさえも薄らいでいるように思えるほど、今晩は誰にとってもとても寒く感じられる。よく耳を澄ませば、悲哀に満ちた吐息のような風の音や、遠くからのサイレンの音、怒声や叫び声の混じった音が薄ら聞こえてくるものの、皆それが聞こえないのか、無関心なのか、目を背けているだけなのか、理由は様々だろうしわからないが、何事もなかったかのように平気な顔で歩いている。それはまさに、皆がコンピューターのようにただ自動的に活動しているだけのような、そんな空間のようにも見えてくる。

 そんな街の中を志貴は独りで歩いている。周りが物凄いスピードで移り変わっていくように見えるのに対して、志貴はただ一人取り残されているかのように見える。そして、そんな志貴の頭の中は、いろんな記憶や想いで頭がいっぱいだった。

 志貴は後悔していた。沙代のような普通の女の子を、裏社会とも関わるかもしれない探偵業に引き入れてしまったことを。最近は便利屋のような仕事ばかりだったので、気が抜けていた。でもいつかは、今日のような日が来るかもしれない。そんなことは予想出来ていたはずなのに。

 目を背けていたのかもしれない。他人の優しさに甘えて、つらい現実から逃げてきただけなのかもしれない。いろんな感情が入り乱れ息苦しくなりながら、沙代との思い出が蘇ってくる。

 沙代が初めて志貴の事務所である新都租界を訪れたのは、ちょうど一年前である昨年の四月頃。楊からの依頼を受けて仕事を全て終えてから、一ヶ月ばかりが経った頃ぐらいのことだった。まだ事務所を開業してからそんなに期間も経っていなかったせいもあったのか、あの時期、探偵業のような依頼はあれからからっきし無くなり、なんとか食っていこうと便利屋のような依頼を格安で徐々に受け始めていた。そして依頼をこなすうちに、それなりに評判が良かったのか、徐々に依頼の頻度も増えてきたため、志貴は従業員を雇うためにSNSや張り紙で募集をかけたのだ。それでやって来たのは、自分と同い年の若い女性であった。

 志貴は正直なところ、最初、沙代を雇うことに対して前向きになれなかった。楊から来た依頼のように、危険な面倒事に関わる場合もあるだろうし、元々仕事になかなかつけない男性を雇おうと考えていたので、女性を雇うことを考えていなかった。そして、これを言うと女性蔑視ととられかねないが、特にタフにも見えない、ただの若い女性にこんな仕事が続けられるとは到底思えなかったからだ。とはいえ、応募に来たのは彼女しかいなかったため、仕方なく沙代を事務員という形で雇うことにした。

 元々沙代は器用なほうではなかった。依頼の連絡があったことの伝え忘れや、何度もお茶をこぼしたりなど、ドジなところや抜けているところが多々あった。事務所内でご飯を作ってもらったりなどもしたが、焦がしたりなどミスが多く、本当のところ、自分が作ったほうが良かったなと志貴が思うほどであった。

 しかし、沙代はとても真面目だった。無遅刻無欠席を貫き、毎朝志貴よりも早く出勤してくる。依頼のメールやチャットのチェックや事務所の掃除、備品の買い出しなど、毎日絶え間なくやってくれる。その成果も出てか、徐々にミスも少なくなっていき、それどころか、志貴が依頼人と話し合いしてる最中トラブルになってたところ、沙代が間に入り、依頼人との壁を取り払い、最終的に良い形で仕事を完了したりなど、沙代に助けられる場面が増えていった。そんな沙代に心を許したのか、バイトから正式に事務員として採用する形となり、改めて事務所である新都租界を補佐してくれる仲間が出来た。

 沙代は質素な女の子だ。普段からナチュラルメイクであり、髪も染めることなく、黒のショートボブ。そんな冴えないひとりの女の子に、志貴は心惹かれた。年齢問わず中高生以上の女であれば、流行りの服や化粧でけばけばしく着飾ったり、人によっては整形したりなど、多様性と言われるようになって長い年月が経った世の中だが、みんな似たような存在に見えてしまう。そんな今の時代だからこそ、沙代のような存在がとても貴重に見えてくる。

 沙代は母子家庭で育った。幼い頃に病で父を亡くし、母親から大切に育てられる。元々沙代は進学希望ではなかったものの、母親の勧めもあって勉強を頑張り奨学金を得て、今は数も少なくなってしまった大学へと進学することとなり、その中の某国立女子大を卒業した。

 志貴は以前、沙代の母親と会ったことがある。正式に事務員として採用したタイミングで、向こうのほうから事務所まで挨拶に来たのだ。ちょうどこのタイミングで沙代は買い出しに出かけていたので、志貴とふたりきりの状態だ。彼女は沙代と同様質素で優しそうな女性で、彼女の話によると、沙代は女子大卒業後、外資系の企業に勤めていたようだが、そこでのノルマがかなり厳しく、その他、他の社員とのコミュニケーションが上手く取れないことに酷く悩まされていたとのこと。それで会社を辞めてすぐ探偵事務所で働くと聞いて、最初は心配していたが、最近娘との電話で楽しそうな様子なのが伝わり、諫山さんともこうして話せてなんだか安心したと言われる。最後「沙代をよろしくお願いします」と言われると、志貴は心の底から笑顔になった。

 競争社会と無縁のところでなんとか暮らす志貴と沙代。沙代はこの事務所での暮らしに慣れてきて、同い年だったこともあってか、次第に志貴とは友達以上恋人未満のような、そんな距離感でお互い接するようになっていき、そして今現在へと至る。

 あの頃から現在に至るまでいろいろ思い出すと、志貴は申し訳なさで心苦しかった。本当に申し訳ない。不甲斐ない。心の中で自分に怒鳴りながら、街を歩いていく。

「必ず助けに来てね」

 沙代の声が頭の中で反響する。沙代の声が一声一声、心の奥深くで響いてくる。

「志貴くん、遅い! 減点1」

「志貴くん、寝癖立ってるよ。ははははっ!」

「志貴くん、義理チョコのお返しまだなの? 後数分もしたら過ぎちゃうんだけど」

「志貴くん、待ってるから」

「志貴くん、志貴くん……」

 志貴はショーウィンドウに映る、鞄を肩に掛けた黒のコート姿の男が目に入る。すると、瞬した途端に、その隣に沙代が現れた。眠そうだったり、恥ずかしそうだったり、怒ってたり、笑ってたり、いろんな沙代の表情を鏡に映る男に向かって見せていた。しかし、また急に場面が変わり、今度は事務所の中。いつも通りデスクトップで沙代が仕事をしてるところ、突然ドアが開いて中からたくさんの男が押し寄せてくる。いかにも反社会組織の人間と言わんばかりの男たちが、沙代を捕まえて無理やり事務所から連れ出す。ナイフを首筋に突きつけられ、恐怖に震えて涙を流しながら、何やら手を差し伸べるような仕草をしていた。そう、それはまるで誰かに助けを求めるかのように。

 しばらくすると、ショーウィンドウから映像が消えて、元の黒コートの男が一人立ってる姿が目に入る。そして、志貴は思い出したかのように、こう思った。「そうだ。早く探さないと。そのためにも、取り敢えずまずは事務所に戻ろう。くよくよしても何も始まらない」そして、志貴は決心したかのように頷くと、街を全速力で駆け抜ける。通行人にぶつかれば必ず謝る彼であったが、このときばかりは、完全に無視をして、自身の事務所である新都租界に向けて、息を切らすのを忘れるかのように走っていくのだった。

 突然の出来事に混乱して、あてもなく無駄に街を歩いていたせいもあってか、事務所に着いたときは午後八時を回っていた。鍵がかかっていない事務所の扉を開けると、いつもならいるはずの沙代の姿はなかった。ドアや鍵穴を見たときと同様、特に荒らされた形跡はなく、人の気配も全くない。沙代がいないことを除けば、いつも通りの事務所だ。

 沙代のいない空虚な室内を取り敢えず歩き回ると、ソファーに腰掛けた。そして、自分が普段使ってるスマホを取り出すと、時刻を確認すると同時に、これまたあてもなくメモやフォルダー内のファイルをランダムに開いていった。すると、沙代と二人で写ってる写真に目が留まる。いつだっただろうか。何かの記念に一枚写真を撮ったことを、志貴は今まですっかり忘れていた。ほとんどスマホ片手に自撮りみたいな感じで、自分が撮ったものであることはこの写真からわかる。付き合ってるわけでもないのに、いかにも彼氏彼女のような雰囲気で、二人笑顔で写真に写っている。その写真を見ていて、最初は胸が温まる感覚がしたのだが、それはほんの一瞬で、急に冷めてしまったかと思うと、途端にどんよりとした感触へと変わっていった。

 写真を見ながら、再び部屋を見渡す。格好だけで、ほとんど使うことのない法律関係の書籍などが並ぶ本棚を見ていると、それを背に立っている沙代の姿が蘇ってくる。本棚から本を取り出し掃除をする沙代。デスクトップ内のファイルを整理する沙代。チャットや電話での内容を志貴に伝える沙代。今日のようにクッキーを頬張りながら、志貴に愚痴をこぼす沙代。依頼のお礼にと、お菓子やお惣菜をもらって喜ぶ沙代。志貴をからかう沙代。笑顔になる沙代。志貴を見つめる沙代。沙代、沙代……いろんな沙代の映像が、この部屋全体を駆け巡っていた。

 志貴はスマホをポケットに入れると、力を込めて拳を握り締めた。そして、志貴は心の中で独り言を呟く。

「今まで何をやっていたのだろう。あの後すぐ、沙代を助け出すために行動すべきだったはずなのに、当てもなくただ街をぶらぶらしてしまって、無駄な時間を過ごしてしまった。おれはなんて、情けない男なんだろう。頼りない男なんだろう。いや、こんなこと思ってても仕方ない。タイムリミットは刻々と迫っているんだ。そのためにも早く沙代を助け出さなければ。でも、警察は頼りに出来ない。バレた時点で殺されてしまう。だからまずは、女を探すしかない。あの愛玲とかいう恐らく中国人の女を」

 志貴は愛玲がどんな女だったか思い出そうとしていた。そしてふと、陳に連絡用として渡されたスマホの存在を思い出して、ポケットから取り出すと、写真アプリやフォルダーの中を見ていく。すると、フォルダーアプリの中に、唯一存在するファイルの存在を確認する。開くと、それは陳に見せられた愛玲の写真だった。青のチャイナドレスを着た若く美しい中国人女性。そして、陳たちが探している以外、謎の多き人物。

 取り敢えずこの女のことを探さないことには、何も始まらない。だからといって、あの女を見つけ出したとしても、沙代を無事に解放する保証なんてのも存在しない。人質を取って命令するぐらいのことを平然とやる連中なのだから、自分を含めて関係者全員を殺すことも充分考えられる。いや、そのほうが自然だろう。その不安が頭を過ぎり、志貴の次行動に移すべき優先順位の判断を悩ませる。

 ここが島だということを考えると、カグヤを出ていることはまずないだろう。そう簡単に本土まで移動は出来ないはずだから、恐らくまだこのカグヤのどこかにいるはずだ。志貴は呼吸を整えながら、沙代の監禁場所がどこなのか考えていく。

 そうやって考えてくうちに、期限までに一人で見つけ出すのには、どうしても無理があるなという結論に達した。自分一人で探したり行動するには、どうしても限界がある。だからこそ、誰か助っ人が必要になってくる。かといって、警察を頼ることは出来ない。この場合、自然に答えが出てくるのは情報屋だ。マフィアなど反社会勢力に属していない、プロとして信用出来る情報屋を、志貴はなんとか接触出来ないものかと考えた。

 しかし、志貴はこのカグヤで暮らすようになってから、これまで情報屋との接点が全くなかった。それはそれなりの金を払って情報を得るよりも、自分で調べたほうが安上がりだということと、今の稼業の最初の頃は探偵のような仕事があったものの、沙代を雇うようになってからは、もっぱら便利屋のような仕事がメインとなってしまって、情報屋も含めたアングラな存在との接点が全く無くなってしまったことなどが主な理由である。

 愛玲を探し出すよう脅迫されている以上、自分が愛玲を探したほうがいいだろう。恐らく陳たちも愛玲を探しているだろうし、沙代の捜索に専念してしまうと、陳たちに勘づかれる恐れがある。相手方に気づかれず沙代の監禁場所を見つけ出すためには、自分と接点のない人物を使うのが一番無難だ。多分、陳たちはこのカグヤで暮らす反社会組織の者ではない。そう考えると、ますますこのカグヤに詳しい情報屋と接触する必要性を感じる。まず先に情報屋を探さなくては。そう考えて、まずどうやって情報屋を見つけようかと、志貴は頭の中で考える。

 そうやって考えれば考えるうちに、早く行動に移さなければと焦りが出てしまい、不安からか汗が出てきて震えが止まらなくなった。正直なところ、自分が死ぬことになるのは構わない。しかし、沙代が……沙代が死ぬようになることには……最悪のシナリオが頭に浮かび上がり、震えがさらに酷くなる。

 志貴は次第に喉が渇いてきたのか、蛇口から水道水を出してコップに入れる。すると、ごくごくと音を立てながら、一気に飲み干した。そういえば、花籠に出てから何も口にしていない。喉が渇くのは当然のことだろうが、それでも今の志貴に、何か食べ物や飲料水を口に入れたところで、何も味を感じないだろう。志貴は飲み干すと、再びソファーに座った。

 疲れてきたのだろうか、部屋の中の空間が捻れて、めまいにも似た吐き気を伴わない奇妙な感覚を味わう。自分を責める声、自分を嘲笑う声、怒声や悲鳴、断末魔など、いろんな叫び声が混ざったような耳鳴りが聞こえてきた。眠ってしまっては時間が無くなるだろうし、だからといって、この奇妙な幻覚が治らないと、次の行動に集中出来ない。「やめてくれ」と呟きながら、ソファーの上に寝転がり、天井を見ていた。

 しかし、このめまいにも似た幻覚が、突如途切れる。途切れたと思った瞬間、大きな足音のような音が、外のほうから聞こえてきたからだ。普段なら外の雑音など気にもならなかっただろうし、気づかなかっただろうが、このときばかりは鋭敏なほど微かな物音に反応して、志貴は直ぐ様ソファーから起き上がった。

 そして突如、大きな音を立てながらドアが開くと、パーカー、ジャージ、ジャケットスーツなど服装は異なるものの、どれも黒色がメインでいかにも半グレ風な男たち五人が、どさどさ中へと入ってきた。片腕が義手の者や、二メートルを優に超える大男など、人相の悪い男たちが志貴を囲んだ。

「なんのようだ?」

 志貴は機嫌が悪かった。不安が急に吹き飛んだかのように、いつものきれいな顔がまるで鬼のような顔つきへと変わって、男たちを睨みつけた。すると、ショートヘアーの金髪に刈り込みを入れている、鼻にピアスを付けた、黒に金色の模様の入ったジャケットスーツを着ている男が話しかけてきた。

「アンタがイサヤマさんか? オモッタよりヤサオトコだな」

 そう言うと、鼻ピアスの男はニヤッと笑う。服装と雰囲気から見て、どうやらこの男たちの中では、この鼻ピアスがリーダー格的存在のようだ。その他、発音からしても、明らかに外国人というのもわかる。同じアジア系の外見から考えると、中華系か韓国系といったところだ。

「キョウ、チュウゴクジンの、オンナをサガセとイうイライがキタハズだ」

 志貴は男の質問に黙ったままだ。相手の次の言葉を待ちながら、他の男たちの動きにも気をつける。

「イライがキタとイッタハズだが、ドウナンだ?」

 このまま黙ったままだとらちが明かないだろうと即座に考え、志貴は口を開く。

「なんでそんなことをおまえたちに教えなければいけないんだ? 客として依頼に来たわけでもなさそうだし、そもそもドアを乱暴に開けるような奴らに答える義理はないね」

「イヤあ、ムリヤリでもアンタからイライのハナシをハイテモラう。スクナクとも、アンタにオンナをサガせとイうイライがアッタコトはワカッてる。デモ、クワシいナイヨウマデはシラナイ。ダカラ、ムリヤリでもハイテモラう」

「嫌だと言ったら?」

「ムリヤリでもハカセルまで」

「拷問で吐かせられないと思うよ。おれはこう見えても案外タフだし、それに性格が悪いんでね。それと今、むちゃくちゃ機嫌が悪いんだ。早く片付けたい仕事もあることだし、おまえらの邪魔に付き合ってる暇はないんだよ」

「ソレはコマる。アンタにサガサレるとコマる」

 志貴は最初、陳と同じ組織の連中かと思ったが、会話の流れからどうやら違うということがわかった。違うとなると、またややこしくなる。志貴はそう思いながら、男たちをぐるっと見る。

「もう一度言うが、早く片付けたい仕事がある。だから、おまえらと付き合ってる時間はないんだ。ドアの修理代とか請求すべきなんだろうけど、そんなことはいいからさあ、さっさと出ていってくれ」

「ソレはイヤだとイウことカ?」

「何度も言ってるだろ。そうだよ」

「ハカセラレナいのナラ、シカタない。ドチラニせよ、セイシをトワズとイワレテる」

「最初からそのつもりなんだろ。最後にもう一度言うが、おれは機嫌が悪いんだ。だから、おまえらも覚悟しろよ」

「ソレハコチラのセリフだ」

 鼻ピアスはそう言ってニヤリと笑うと、左右に顔を向けながら、早口で何やら中国語らしい発音の言葉を言った。それを聞いた仲間も同じような発音の言葉を大声で叫び、一斉に志貴に襲いかかる。

 鼻ピアスの男が懐から短刀を取り出すと、志貴目掛けて突き刺そうとする。しかし、志貴は両手で攻撃をさばくと、相手の手を捻りながら短刀をはたき落とす。そして直ぐ様、截拳道ジークンドーでいうところのビルジーのやり方で、相手の目を突いた。

 鼻ピアスは叫び声を上げると、志貴の目突きに押される形で床に倒れた。志貴はそのまま素早く、次は右側にいる義手の男の後頭部に、後ろ回し蹴りを決めた。そして、ちょうどそのタイミングで左側にいる坊主頭の男がナイフを手に襲いかかってきたので、横蹴りで後ろにいるもう一人もろとも突き飛ばした。男たちは本棚にぶつかると、本棚が倒れてきて下敷きとなる。

 だがここで油断したのか、志貴は振り返ると、背後から襲いかかってきた二メートルを超えるスキンヘッドの男に右手首を掴まれて、腕を折られそうになる。志貴は苦痛で顔を歪ませており、それを見た大男はニヤリとサディスティックに笑っていたが、数秒経つと逆に大男のほうが苦痛で顔を歪ませていた。志貴は男に腕を掴まれた際、自身の身体の外側に腕を素早く回す形で大男の手から自身の腕を離すことに成功すると、直ぐ様相手の手首を掴み、何やら合気道のような技で、大男を追い込んでいく。苦痛で顔を歪ませながら大男が膝をついたタイミングで、思いっきり顔に蹴りを入れて相手を気絶させた。

 これで片付いたと志貴が思ったそのとき、鼻ピアスの男が懐から拳銃を取り出し、後ろから銃を向けた。

「ズイブン、ウデタツな。デモ、ホンモノのジュウムケラレたら、サスガのアンタでもカナワンだろ」

 志貴が振り返ると鼻ピアスは近づき、志貴の胸元に銃を突きつけた。すると、勝ち誇ったかのような、下品な笑みを浮かべた。だが直ぐ様、短刀をはたき落としたのと同じテクニックで、志貴は相手から拳銃を奪い取ると、相手に銃を向けた。

妈的クソ笨蛋バカが、オマエ、コンナコトしてイイとオモッテルのか? オレをコロシテもスグオッテがクルぞ。ソシキがソノキニナレば、オマエヒトりナンかスグにコロサレる」

 赤く充血した目でニヤニヤ笑いながら、それと同時に、身体を少し震わせながら、男は志貴に向かってそう言った。

「これでも優しくしたつもりなんだが、まあいい。それで単刀直入に訊くが、なんでその女を探してる? それとおれのとこに依頼が来たとか言ってたけど、それはどこからの情報だ? おまえたちの目的、組織もろともいろいろ吐いてもらう」

「ハハハハッ、オシエルとオモウか? ゴウモンサレてもハカナイぞ」

「そうかい? じゃあ、仕方ないな」

 志貴はそう言って微笑んで見せると、少し後ろに下がったと思ったら、渾身の後ろ回し蹴りを側頭部に決めて、相手を気絶させた。

 志貴は見下ろすと、鼻ピアスの男が白目の状態で、口を大きく開けながら馬鹿面を見せた状態で、大の字で気絶しているのが目に入った。そして、部屋全体を見渡すと、本棚や椅子が倒れ、鼻ピアス同様、志貴に襲いかかった男たちが倒れているのが確認出来る。

 志貴は倒れている男たちが全員気を失っているのを確かめると、男たちの所持品を確認する。銃、刃物、鍵、スマホ以外、他に所持品は見当たらない。男たちの身元を調べるためスマホのロックを解除しようとしたが、顔認証が注視設定されているためか、無理やり目を開けて顔を向けさせたものの上手くいかず、結局どのスマホも開けなかった。他の所持品である拳銃や刃物類が問題なく使えるものだと確かめると、それをコートの裏ポケットに仕舞い込んだ。鍵は床に捨てて、男たちのスマホを残らず床に叩きつけ踏み潰して壊すと、すぐこの場を離れようと、なるべく音を立てないように注意しながら、急いでドアを開けて事務所を後にした。

 事務所を出てしばらく歩いていると、混沌とした街の様子が目に入ってきた。ちょうど歓楽街のようなエリアに差し掛かったせいか、歩き煙草をする人の数があまりに多く、その煙で霧がかかったかのように先が見えにくくなっている。それはまさに、今の志貴の心境とも重なっていた。

 恐らくチャイニーズマフィアであろう男たちが突然事務所に押しかけてきて、それを撃退したはいいものの、別の場所に移動しなければいけない状況となってしまった。陳とは別の組織であることを考えると、愛玲と沙代の捜索に充分支障をきたす。そして、二人の捜索のために協力してもらう情報屋とのコンタクトがまだ取れていないなど、解決出来ていない問題が山積みだ。さっきの男たちの仲間に見つからないように、なるべく目立たないよう気をつけつつ、それと同時にわからないことだらけで焦りながら、志貴は夜の街を歩いている。

 ネオンが光り、煙草を蒸した立ちんぼたちが、サラリーマンなど通行人の男たちに声をかける。日々の疲れや性欲を満たしたいのか、誘われるがまま女の手を繋ぐ者、または自分から声をかけて、まさに両手に花という言葉通りに、夜の街に消えていく者まで様々だ。

 志貴も声をかけられるが、返事するどころか振り向きもしない。すると突然、明るめの茶髪で革ジャンを着た女にコートの袖を掴まれた。

「ちょっとちょっと、お兄さん! 声かけてるのになんで無視すんの? ねえ、ワタシ今暇なんだけど、お兄さんも暇? だったら、ワタシと遊んでかない? お兄さんよく見たらカッコイイから、安くしとく。だからさあ……」

 この街娼は最後まで言い終わらないうちに、途中で話すのをやめて硬直した。売春用の作り笑いが一切消えて、怯えた顔つきに変わった。この立ちんぼの視線の先には、自分を睨んでいる志貴の顔があった。それはとても殺気だっていて、きれいな顔つきではあるが、まさに鬼のような表情だ。

「離せよ」

 志貴にそう言われて、女は直ぐ様手を離した。そして、怖いものから逃れるように、急いで他の立ちんぼが集まる場所まで消えていった。

 志貴は街娼に掴まれたせいで、余計に機嫌が悪かった。ただでさえ時間が足りないのかもしれないのに、こんなくだらないことで足止めを食らうわけにはいかない。そして、その焦りのせいで、普段よりも正常な判断が出来ずにいる自分に、さらに苛立ってしまう。こんなときだからこそ、ちゃんと知恵を絞って、ひとつひとつ解決策を見出し、沙代を救い出さなければならないのに。

 帰宅途中のスーツを着ているサラリーマンらしき男たちが馬鹿笑いしているのを見ると、さらに腹が立ってきた。怒鳴りそうになる衝動が出てきたが、それをなんとか抑え込む。だって、これは単なる言い訳なのだから。本当は自分の不注意不甲斐なさが原因で腹が立っているのに、先程の街娼も含めて、怒りを向けるのは間違っている。志貴はなんとか自分にそう言い聞かせ、なんとか感情を落ち着けようとする。

 すると、視線の先に、制服を着た警官二人組がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。コートの裏ポケットに拳銃やナイフを隠し持っている今の状態で職質されることは非常にまずい状態ではあったが、かといって今この瞬間視線を逸らしたり、この場から急いで離れようとすると、逆に怪しまれる可能性が高まる。なので、志貴は逆にこちらのほうから、警官二人のいるほうへと真っ直ぐ歩いていく。目線は真っ直ぐペースを崩さず、急いでる様子を見せずに、自然な形で歩くことを心がけた。警官二人との距離が五メートル、二メートル、一メートルと距離を縮めていき、そしてやっとすれ違い、無事この場をやり過ごしたと安堵したその瞬間、後ろから声をかけられる。

「ちょっと、すみません」

 志貴は振り返ると、先程の警官二人が志貴を呼び止めた。間が悪いことに、職質に引っかかってしまった。怪しまれないように、挙動不審を感じさせない落ち着いた表情を作っていたものの、心臓はバクバクと大きく鼓動を立てており、内心、非常に焦っていた。今の状態で持ち物、そして服の中まで検査されたら、間違いなく警察署へと連れて行かれる。早く沙代を助け出さなければならないのに、拘束されてしまったら、大幅に時間をロスしてしまうし、最悪タイムリミットが過ぎて手遅れということになりかねない。警官二人が再び近づいてくる様子を見て、志貴はどうこの場を切り抜けようか、焦りながら必死に考えていた。

 だがしかし、突然、また後ろから志貴を呼ぶ声が聞こえてきた。

「お〜い、おまえ、志貴じゃねえか?」

 振り返るとそこには、志貴の高校の同級生であり現在刑事課に所属している、米塚亨の姿がそこにあった。

「亨……」

 亨は志貴の目の前に来ると、警官二人に警察手帳を見せた。

「あっ、お疲れ様です。あの、こいつ知り合いなので、大丈夫ですよ。見回り本当にお疲れ様です」

「あっそうですか。こちらこそお疲れ様です。わかりました。何か揉め事あったらすぐ駆けつけますので。では、失礼します」

 すると、警官二人が帽子を取ってお辞儀をすると、喧騒としている夜の街へと消えていった。その様子を志貴が見ていると、横で志貴の顔を見ながら享がフッと笑う。

「感謝しろよ。職質されそうになってるの助けてやったんだから。今度なんか奢れよな」

「いやいや、おまえ刑事だろ。公務員のおまえが誰かに奢ってもらったら、それ賄賂わいろになるだろ」

「別に気づかれなきゃいいんだよ」

「いやいや、それダメだろ。そういう油断で、失職した検察庁の幹部とかさあ、本土でニュースになってたでしょ」

「確かにそうだろうけど、あっでも今日、おまえがケーキいらないからって、結局おれがそれを食ったわけだけど、あれもさあ、よくよく考えれば賄賂にあたるんじゃないのか?」

「まあ確かに、そう言われればそうだな」

「まあでも、気づかれてないだろうから、いいんだけどな。多分……」

「結局気づかれなきゃ、いいことになるのか」

「まあ実際、無許可営業に目を瞑って、タダで飲食やサービスしてもらってる警官も多いだろ。前に上司からそんな打ち明け話聞かされたこともあったしな」

「警官の言うセリフじゃねえな、おい」

「ところでさあ、志貴。なんでおまえこの辺りうろついてんの?」

「別にうろついてて悪いのかよ。いやあ、あの、ちょっとこの辺りに仕事に来ててな、それでちょうど今帰るとこ」

「本当にそうかあ? 実はやましいことしてんたじゃないの」

「いや、それ、おまえに言いたいよ」

「ははははっ、そっか、お疲れのとこ悪いな。あっそうそう、ここ最近この辺りも物騒になってきたから、志貴、おまえも気をつけろよ。今度また一緒に飯でも食いに行こう。それじゃあ」

 亨はそう言うと、志貴に背向けて歩き出そうとする。

「あっ、あの、亨。あのさあ……」

「うん、何?」

「……いやあ、あの、亨、亨も気をつけて。それじゃあ……」

「ああ、またな」

 亨はそう言って微笑むと、再び背を向けて人混みの中へと消えていく。そして、亨の後ろ姿を見送っていた志貴はというと、どこか寂しそうな表情であった。しばらくの間、亨が消えていった方角を眺めていたものの、ふと何か思いついたのか、さっと振り返ると、再び人混みと喧騒が入り混じる夜の街を歩き出した。



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