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二章

 知的障害者を主に雇っている清掃業者の臨時職員として働き、五番街の某公園のトイレ掃除を終えたのは、午後二時過ぎだった。トイレ掃除だけでもかなりの体力を使うのだが、結局公園全体の清掃をすることになり、また知的障害者の社員への指導が大変だったこともあったためか、終わった頃になると志貴は幾分ふらついた状態となっていた。

 現在、志貴の目には、街がモノクロになったりカラーになったりなど、まるで蛍光灯が点滅するかのように画質が切り替わっている。それはまるで映画のワンシーンかのように、志貴は街の様子を見ていた。

 次の依頼の待ち合わせ場所の楊の店である花籠ホアランは、六番街との境にある中国人が多く住むエリアで営業している。

 楊とは一年前、とある依頼で知り合うこととなる。そのときの依頼というのは、半グレから店をただで明け渡せと言われ、明け渡さないのであればみかじめを毎月払い続けろと脅されていたことについてだった。普通に考えれば警察に相談すれば済むはずの問題であったが、そう出来ない事情があった。

 楊はわけありで困っている不法就労者を店で雇っていた。それ以外にも、他の店に紹介したりなど働き口を見つける手伝いなどもしていたのだが、それを従業員として潜入していた半グレの一味にバレてしまう。ただで明け渡すにもいかず、だからといって、みかじめ料は毎月払える額とは到底いえない。それでほとほと困っていたところ、たまたま噂で志貴の事務所の存在を聞きつけ、事情を説明して助けを求めてきたのだ。

 最初、志貴はこの依頼を引き受けるか判断を迷っていた。取り敢えず話を聞いた後依頼を引き受けるか一旦保留する形をとり、その後、楊から聞いた話を基に、楊自身と楊の店の従業員、そして店を乗っ取ろうとしている半グレの一味の情報をひとりで調べ始める。一週間期間を設けて、限られた時間の中調べた結果、楊の店で働く者たちの大半が犯罪行為に手を染めることなく、家族を養うためギリギリのラインで生活していることなどを確認すると、同時に調べていた半グレグループの麻薬取引があることを運良く掴むことが出来て、依頼を引き受けることを決意する。そして、取引日時と場所を匿名で警察に知らせたのち、半グレグループの大半が逮捕されて、半グレグループが壊滅する。その後も、元半グレメンバー全員の所在も突き止めて、気づかれないように尾行を重ねながら犯罪の証拠を入手して、再び匿名で情報提供を済ませて、半グレメンバー全員の逮捕が完了する。

 そして、楊の店の側のほうはというと、半グレグループに対する最初の匿名での情報提供をする少し前に、楊の店の従業員ひとりひとりと面談をして、それ専門の弁護士を探してきて、正式な形で働けるように役所での手続きを手伝っていった。

 このときの弁護士の依頼のも合わせると、とてもじゃないが、楊に払える依頼料ではなかった。事情ももちろんわかっていたので、そこでこのときの報酬は、半年間タダ飯を食わしてもらうことにしてもらった。毎日どんなメニューでもタダだと、流石に楊の店も厳しい状態になるが、そんな意地悪なことはせず、たまにふらっと立ち寄ってご馳走してもらう形に留めた。このときの弁護士の先生も、非常に良心的な人物で、志貴と同じくたまに立ち寄り、飯をご馳走してもらっていたようだ。

 志貴は公園内の清掃途中のお昼休みに弁当をもらって昼飯を済ませていたのだが、午後の依頼の待ち合わせ場所を思い出すと、急に腹が減ってきた。

 依頼の話が終わったら花籠で晩飯にしようと、口腔内が唾液で溢れ出てくるのを感じながら、どんな料理を食べようか考えている。花籠はこじんまりとした外観であるものの、店の中は思ったよりも広く、中国各地の料理に精通していて、客の好みに合わせた料理を出来る限り提供する。炒飯、水餃子、麻婆豆腐、小籠包など、美味しい料理を食べるところを想像しながら歩いていると、もう三時近く。視線の先には六番街との境辺りが見え始めていた。

 楊の店がある五番街と六番街との境付近は、華僑の人たちが多く暮らしているため、いわゆるチャイナタウンのような雰囲気となっている。事務所近くの建物と同じく、薄汚い建物が並んでいる。中国本土と変わらず簡体字や繁体字の看板が並んでいて、どの道を通っても煙草を吸っている人をよく見かける。薄汚れた中華な看板と紫炎とが混ざり合い、辺り一面ハードボイルドな雰囲気を醸し出す。

 志貴が時間を確認すると午後三時ちょうど。待ち合わせにはまだ時間がある。志貴は時間を潰すため、近くにある市場があるほうへと向かった。

 市場ではいろんな言葉が飛び交っていた。北京語や上海語や広東語など中国の各地の方言や、韓国語などアジアの他の言語なども同時に飛び交い、小さな子供から老人まで幅広い年代の人たちが商いをしている。また他の地域の外国人の姿も多く、志貴は二メートル近いスキンヘッドのロシア人らしい男性とすれ違いざまぶつかり、大きくよろめいてしまった。「ソーリー」と志貴は振り返って謝罪したが、相手は振り向くことなくぼそっと悪態をつくような感じの聞き取れない言葉を言い残し、そのまま人混みの中へと消えてしまった。志貴は気にせず、市場の野菜売り場に目をやった。

 このところ志貴は自炊することがなくなっていた。依頼先で今日のように弁当をもらうことが多く、朝食夕食用に余分にもらうことも多々あるため、自分で何かを作る機会が減っていた。元々料理は得意なほうで、沙代にも事務所で振る舞ったことがある。久しぶりに何か料理を作りたいと思ったのか、良い食材を探していた。トマト、カボチャ、スイカなど、季節に関係なくいろんな野菜が並んでいる。野菜の他に肉や魚、香辛料なども見ていたのだが、ぼろぼろの服を着た十歳にも満たない少年に、しつこく苺を買わないかと迫られたので、逃げるように市場から外へと抜け出した。

 この市場で商売をしている者は皆必死だ。ちゃんと商売をしている者もいるが、相手を騙して少しでも儲けようと考えている者も多い。ここで売られているブランド品やデバイスのほとんどが偽造品であるのを、志貴は仕事柄知っている。当然ある程度知識や頭があればわかることなのだが、偽物や不良品を買う人は意外にもかなり多い。カモが引っかかっていると、また引っかかってるよと心の中で呟いてしまう。ちゃんとした店で買いなよと思っても、声をかけて忠告なんてしない。だって、それがこの市場のルールであり、その人個人の責任なのだから。

 市場の喧騒とした空気から外へと出ると、また殺伐とした光景へと逆戻りだ。市場のすぐ近くなのにとても静か。たまたま通りかかったところで自販機を見つけると、ブラックの缶コーヒーを買った。そして直ぐ様、黒くて苦い液体を口の中に流し込む。コーヒーを飲んでいると、どこか心がホッとする感じがした。

 しかし、突然志貴の背中に緊張が走る。背後から何者かが近づいてくるのを感じ取っていた。

 この辺りも含めて、カグヤは場所によって治安が悪かったりする。わけありな人や多くの外国人が暮らしているせいか、空き巣やカツアゲなどがあったり、最悪死体が転がってたりなど、事件やいざこざが定期的に起こってしまう。監視カメラの数を増やして対策するものの、犯行をおこなうための予防策やイタズラにより壊されたりなどのせいで、治安の観点でどうしても後手に回ってしまう状態となっていた。なんとか警察にはしっかりとした対応をしてもらいたいと善良な市民の多くが思っていることであるが、まだ有効な対策は何もおこなっていない。だからこそ、いつ自分の身に危ないことがあるのではないかと、危機感を持っている人はそれなりに多い。

 何者かが近づいてきても、志貴は気づかないふりをする。背後から襲いかかってくる相手を油断させるには、この方法が一番だ。プロならこんなところで無駄な殺しはしない。それに相手が単なる不良程度なら、銃を所持している確率も少ないだろう。また所持していたとしても、銃の扱いに慣れているのはごく稀だ。気づいていないふりをして相手の隙を突けば、自分の身を守るのはある程度可能だと判断した。

 相手の歩み寄る速度は依然と変わらない。そのことはもちろん志貴も分かっている。そして、相手も自分との距離が一メートル未満になったその瞬間、自分の手に肩が触れた感覚が伝わった。そっと優しく肩を叩く感覚が。振り返ると、志貴の目にはよく知る顔が映っていた。

 米塚亨よねづかとおる。志貴と同い年で高校の同級生。大学在学中に国家公務員試験に合格後、研修そして別の勤務地を経て、現在カグヤの刑事課に所属している。実は楊の依頼の件にも関わっていて、匿名という形で半グレの麻薬取引日時を伝えたのは彼経由である。

 黒のミディアムヘアー、眼鏡をかけて地味なネクタイをしている姿は、いかにも公務員らしい。志貴より少し背が低く痩せている。寒い風が吹き付けるなか、久しぶりの再会にお互い笑みを浮かべる。

「おお、やっぱり志貴か。久しぶり」

「よお〜、エリートさん。こんなところで何やってんだい?」

「ちょっと仕事でこの辺り来なきゃいけなかったから。それで今は昼休み取ってる。おまえこそ、なんでここに?」

「依頼人との待ち合わせがこの近くでね。待ち合わせにはまだ時間があるんだけど、ほら、前食べに行った中華料理屋さんあったでしょ。あそこで依頼人と待ち合わせ」

「え〜と、あっ、そういえば、前に食べに行ったことあったような気がするな。ここんとこ中華食べることが多くて、あんまり覚えてないんだけど……ん、ということは、もう直接依頼の仕事に取り掛かるみたいな感じなの?」

「ん? いや、依頼人とはどんな依頼内容か、まだ詳しく話を聞いてない。依頼人の指定なんだ。それにうちの事務所を進めてくれたのが、今から行く店の店主らしくてね。この人も元依頼人」

「でも、物好きもいるもんだな。よく『ニートソカイ』だっけ?あんな変な名前の事務所によく依頼しようとするもんだなって思うよ。どう見たって怪しい店って感じにしか見えないし」

「まあ確かにそうかもしれないけど、依頼をちゃんとこなして実績を積んでいけば、次第にこの名前にも慣れてきて浸透するかなって思ってね。◯◯事務所みたいにすればいいんだろうけど、それだとありきたりだし、意味深な名前にしたほうが目に留まりやすいかなとも思ってね」

「意味深って、確かにそうかもしれないが、といっても、やってることって便利屋だろ? 結局雑用押し付けられるような仕事なんだから、便利屋ってはっきり名前名乗って事務所構えたほうがもっと仕事増えそうな気がするけど」

「雑用押し付けられるってなんだよ。おれだって食ってかなきゃいけなくて必死なの」

「そうか、悪い悪い……ところでさあ、え〜と、す、杉浦さん、元気にしてる?」

「杉浦さん? あっ、沙代ちゃんのこと? いつも冷たくキツくあたってくるよ。棘のある言葉でズキッズキッとね」

「それはおまえのほうだろ! 少しは優しく接してやれよ。いつもおまえのほうから揶揄からかってるじゃないか」

「それはお互い様さ。だってこんな仕事してたらさあ、冗談言ってないとやってらんないんだもん。今日も冗談交じりでお互い言い合ってたけどさ、なんか、あっそうそう、沙代ちゃん、誰かいい人紹介して欲しそうな感じのこと言ってたな」

「そうなんだ。へえ〜、杉浦さん、彼氏いないのか。てっきりいると思ったんだけど」

「なんか妙に食いついてきたね。沙代ちゃんのことが気になるの?」

「バカ! そんなんじゃないよ。でも、おまえ本当にバカだよな。あんなに可愛い人がそばにいるのにさ」

「だったら、おれがもらっていいの?」

「彼氏を選ぶのは杉浦さんの自由だけど、それでもやっぱりおまえは駄目だな」

「クソっ、みんなしておれに冷たくあたりやがって。でもさあ、男には興味ないかもよ」

「……確かに。そのパターンもあるな」

「それだったら、おれたちは完全に対象外だよ」

「そんなことよりここ寒いな。今日から四月だってのに、なんだこの寒さは。それより志貴、おれ今からお昼なんだけど、一緒にどう?」

「昼飯はもう食べたんだ。でも、そう言われると、なんか小腹が空いてきたな」

「おれはそんなに腹が減ってないから、そうだな、喫茶店とかどう?」

「別にいいよ」

「確かこの近くにあったよな。じゃあ、行こうか」

 亨に導かれながら、暖かい喫茶店へと向かうため、錆びついた外観の細い道を歩いていく。飲食店やその他の店が並ぶこの一帯を、黒のコート姿の男二人組が歩いている光景は、なんだかとても物騒な雰囲気を醸し出していた。はたから見れば危険な男たちに見えたかもしれない。冷たい向かい風にあたりながら、目的地へと重たい足を運んでいく。

 レンガ造りの外観の喫茶店が目に入ると、早速中へと入り、奥の窓際の席へと座った。煙草の煙が立ち込めるなか、志貴は外の様子を眺める。亨はというと、注文したチーズケーキを頬張りながら、そんな志貴の様子を見ていた。

「食べないのか?」

「いや……」

 志貴は窓の外を眺めた途端、食欲が薄れていった。不思議なものだなと、このとき志貴はそう思った。窓ガラス越しに外を眺めていたら、過去の記憶が蘇り、まるでモノクロフィルムを見ている感覚になってしまうのだから。

「でも、変わったな」

「……何が?」

「おまえのことさ。高校の頃はそんなに冗談を言ったり、人揶揄ったりするタイプじゃなかったろ。去年久しぶりに会ったときから今まで見てきたけど、なんかやけに楽しそうというか、テンション高くというか、随分変わったなと思ってね」

「なんかさあ〜、おれが高校の頃、ずっと根暗だったように聞こえるんだけど……」

「そういうつもりで言ったわけじゃない。別にボッチでも根暗な奴ってわけでもなかったし、どちらかというと、人気があったほうだと思う。でも……」

「でも?」

「う〜ん、どこかみんなと距離をおいてた、そんな気がしたんだよな。後一歩踏み込まないみたいな。気にしてたんじゃないのか? 自分が孤児だからって。だったら、気にしなくて良かったと思うぞ」

「そうか。そうみんなが思ってたら、気を使わせてしまっていたな。ああでも、どうだったんだろ? もう昔のことだしな。すっかり忘れたよ」

「そうだな。昔のことだったな」

「ああ……」

「……あんまり昔のことは語りなくないか……」

「……いや、昔のことだから、もう忘れてしまったってだけ」

 志貴がコーヒーに手をつけず、どことなく暗い表情になっていることに気づいて、亨は申し訳なさそうな表情になった。

「すまん。なんだか辛気臭い話になってしまって」

「構わないさ。お互い大人になったんだし、こういう話になって当然だろ」

「そうか。じゃあ、別の話題に変えようか」

「それじゃあ、米塚君が杉浦さんに惚れてるって話とか」

「おい! その話を蒸し返すな」

「ははははっ!」

 志貴の表情が明るくなってきたのを見て、亨もどこか安心した顔になった。ケーキを食べ終わると、小さなマグカップに入っているコーヒーを啜った。

「ケーキいらないから食っていいよ」

 志貴はそう言うと、チーズケーキの乗った皿を亨のほうに押した。

「あっ、ありがと」

 亨は志貴からチーズケーキを受け取ると、ポケットからスマホとワイヤレスイヤホンの片方を取り出して、ニュース動画を見始める。

「相変わらず不景気なニュースばかりだな」

「ニュースなんてネガティブなものばかりでしょ、基本」

「そうだな。でも仕事柄、見てなきゃいけないなって思って、仕方なく定期的に見てたりしてる。ああ、嫌だな。警察なんて仕事、こんなことならやらなきゃ良かったよ」

「おいおい、愚痴なんて言うなよ。公務員なんだから、上司に逆らったり悪いことしなきゃ、クビにされることなんてないだろ。世の中食うのに困ってる人なんてたくさんいんだから」

「確かにそうだな」

 そして志貴は、ニュースキャスターが何やら解説をしている動画を見ながら呟く。

「でもさあ、不思議だよな……」

「なんのこと?」

「あ、いや、カグヤって一国二制度とはいえ、いちおう日本の一部ってわけじゃない。日本本土ではなかなか次の政策や法案が決まらないっていうのに、このカグヤは割とすんなり通っちゃうのが、なんだか不思議だなあと思って」

「確かにそうだな」

「だろ。カグヤにも政治家がいて、反対派同士議論しあってる場面も動画で見られるけど、でもなぜか、結局すんなり決まってしまうあの感じ。何やら国民の知らないところで力学が働いてる気がするんだけど、亨、実際のところどうなの?」

「知らないよ。おれはまだそんな偉くもないし、そもそも政治家じゃないから、そんなことわかんないよ」

「へえ〜、そういうものなのか。でも、結構闇深いかもな」

「陰謀論だろ、それ。そんな力学なんて、多分ないと思うぞ。そんなことよりさ、力学っていえば、外見てみろよ。なんか凄いのいるぞ」

 亨がそう言うので外を見ると、志貴は意外な人物の顔を目撃する。

「なっ、凄いだろ?」

 通りには通行人の誰よりも大きい、セーラー服姿の人物の姿が確認出来た。スミレだ。そのせいで、志貴は思わずむせてしまう。

「おい、大丈夫か?」

「ゴホッゴホッ、ああ大丈夫。あっそうだ。待ち合わせの時間も近いし、そろそろ行くよ。それじゃ」

「おう」

 志貴はコーヒーを一気に飲み干すと、スミレに見つからないように周囲を確認しながら外に出た。

 花籠に辿り着いたのは、待ち合わせの時間のちょうど十分前だった。この辺りも先程まで亨といた場所同様に、少し寂れている。真っ白なところに赤文字で書かれた看板が目に入ると、早速店の中へと入っていった。

 夕食を食べる時間帯にはまだ早過ぎるため、お店の中は空いていた。まだ二十歳いってるかいってないかぐらいのポニーテールの女の子に、片言の日本語で「どこでもいいのですわってください」と言われたので、志貴は店長である楊を呼んでくれと頼んだ。そして、一番奥の席へと座ると、料理人らしい小太りな男がこちらに近づいてくるのが目に入る。この辺りでは珍しく、人懐っこい表情をした人物だ。志貴は微笑んで手を振った。

「お久しぶりです、楊さん! 変わらずお元気でしたか?」

「いさやまさん、おひさしぶりです。いさやまさんにはあのけんでたすけてもらってから、ずっときにかけてくださって、ほんとうにかんしゃしています……」

「何度も聞きましたよ、そのセリフ。もうだいぶ前ですし、終わったことじゃないですか。こっちも何度もタダでご馳走してもらったのですから、お互い助けられたんですよ。多分、ぼくのほうが結果的に得したんじゃないかな? ははははっ」

「ははははっ!」

「あっそうそう、依頼人との待ち合わせがここなのですが、よろしいですか? もうすぐ依頼人が来ることになってるのですが」

「ええ、かまいませんよ。ではどうぞ、ごゆっくり」

 楊はテーブルに熱い烏龍茶を注いだ茶碗を置くと、厨房のほうへと戻っていった。志貴のほうはというと、烏龍茶には手をつけず、依頼人が来るのを待ち続ける。

 待ち合わせ時間から二十分が過ぎた頃、ようやく依頼人が姿を現した。店の扉が開く音が聞こえて、黒のスーツを着た中年の男の姿が目に入る。痩せ型で白髪混じりの髪を七三気味にやや後ろに流している。男は奥の席に座っている志貴の姿に気がつくと、こちらに近づいてきた。

「あなたがニートソカイの諫山さんですか?」

「ええ、そうですが」

「遅くなってすみません。ここに来る前にちょっとトラブルがありまして。あっ、申し遅れました。陳と申します」

「話は伺ってます。どうぞお座りください」

 陳は微笑むと右手を差し出す。そして握手を交わすと、志貴は手振りでお茶を出すように店の従業員に言った。陳に熱い烏龍茶が行き渡ったのを見ると、すっかり冷えてしまった茶を一口啜った。

 志貴は「何か菓子でも注文しましょうか?」と尋ねたが、陳は結構と答えた。陳の舌をあまり使わない滑らかな日本語の発音に、あまり外国人らしくないと感じたり、日本での暮らしが長いのかといった印象を志貴は持った。

「早速ですが、依頼の件についてお伺いしたいのですが」

「わかりました」

 陳はポケットからスマホを取り出すと、テーブルの上のほうに置いて、志貴のほうへと近づけた。

 スマホの画面には、青のチャイナドレスを着た女性が写っている。歳は二十代といったところか。黒のロングヘアーでかなりの美人である。

「この女性、彼女を探して欲しいのです。名前は愛玲アイリーン

 志貴は陳の顔を見た後、再び愛玲の写真に目を向ける。大抵の男なら目を向けてしまうほどの美貌を、この女性は持ち合わせている。女に飢えた男であれば尚更だ。

「彼女について詳しく教えてもらえますか。年齢とか身体的特徴とか」

「歳は二十歳。身長は一六〇後半ぐらいでしょうか」

 志貴には愛玲が沙代より年下に見えなかった。見た目は確かに若いが、自分たちよりも少し年上のような、そんな大人っぽい雰囲気が漂っていた。

「歳は二十歳。背は沙代ちゃん一六〇だから、沙代ちゃんより少し高いぐらいか。なるほど……わかりました。あっそうそう、まず陳さん、あなたがなぜこの女性を探しているのか、理由を聞かないといけないですね。それと彼女との関係性など、その他もろもろ教えてもらう必要があります。あと、パスポートなどの身分証明書の提示や書類へのサインや記入が必要なので、え〜と……」

 志貴は黒いリュックから何やら取り出そうとしていたが、そのタイミングで、突然陳が高笑いを上げて、何やら中国語でぼそぼそ早口に呟き始める。すると、途端に悪人面へと変わり、志貴を嘲笑うかのような笑みを浮かべた。

「茶番はお終いにしましょうか、諫山さん」

「えっ? なんのことですか? 意味がわからないのですが?」

「いえね、わたしはね、あなたに依頼しに来たわけではないのですよ。あなたにこの女を探すよう、命令するためにあなたに会いに来たのです」

 陳はそのように言うと、テーブルに置いていたスマホを取って電話をかける。電話が繋がるとスマホを志貴に渡す。耳に当てると志貴の知ってる人物の声が聞こえてきた。

「……志貴くん?」

「沙代ちゃんか⁉︎ 無事か?」

「うん、なんとか。事務所に突然なんか怖い人たちがたくさん入ってきて、別の場所に連れて行かれて、今こんな状態。何が何やらさっぱりで、わたし……」

「大丈夫、落ち着いて。必ず迎えに行くから。約束の餃子も忘れないから、おれが行くまでどうか無事でいてね」

「うん、わかってる。だから、必ず助けに来てね。あと、志貴くんも、無茶しちゃダメだからね。気をつけ……キャーッ‼︎」

「沙代ちゃん⁉︎ 沙代‼︎」

 通話が途中で切れると、志貴は陳を睨んだ。店の従業員は全員厨房にいるみたいで、志貴たちの様子に気づいていないようだ。

「おい! 今日がエイプリルフールだからといって、冗談がキツすぎる。誘拐監禁、一体どういうことだ?」

「別に冗談じゃないさ。おかしな動きをすれば、あの女の命が消えるだけだ」

「おまえ!」

「そんなに声をあげて、店の連中に気づかれてもいいのか? そうなった場合、この店の関係者全員を巻き込むことになるぞ。それでもいいのか?」

「クッ……」

「そうだ。おとなしく、おれの言うことを聞け」

 陳はそう言うと立ち上がり、志貴の手からスマホを取り返す。そして、ポケットから別のスマホを取り出して画面を開いた。

「いいか。今後はこのスマホのこのアプリを使って連絡をとる」

 陳が志貴に見せたスマホは、外観はありふれているものの、多くの一般人にとっては馴染みのない諜報機関の人間や政治犯が使うような匿名性の高いOSが搭載されており、開いたメッセージアプリはこれはまた匿名性の高いことで有名なものであった。

「出来る限り早くあの女を見つけろ。あの女がカグヤにいることは我々も掴んでいたのだが、そこから足取りが追えなくなったものでね。下手に探していると、こちらに気づかれて警戒されるだろうから、このカグヤに詳しい探偵役が必要になったということ。それがおまえというわけだ。期限は今日を合わせて三日とする。これは我々の誠意だと思え。わかってると思うが、もし警察なんかにこのことを知らせたら、そのときは……もちろん三日が過ぎた、つまり日付が変わる前に見つからなければ、連絡がなければ、これもどうなるかわかってるな? 見つけたらそのスマホのさっき開いたアプリに登録されてる連絡先に連絡すること。あと、見つけたら受け渡す前に、逃げられないよう監禁することも忘れずに。おまえの大事にしてるあの女のように。では、期限までに必ず探してください。それでは、諫山さん」

 陳はこうして言い終わると、ニヤリと笑い店を出て行った。店内は静まり返り、志貴は打ちひしがれた様子になる。そして、ちょうどそのタイミングで、楊が厨房から出てきて志貴のところまでやって来る。

「あれ、もうかえられたのですか? もういらいのはなしおわったのですか? いさやまさん?」

「……あ、ああ」

「でしたら、なにかたべていきますか?」

「あ、いや、いい。あ、あの、じゃあそろそろ行かないと……会計を」

「なにもちゅうもんされてないじゃないですか。おだいはとりませんよ。またいつでもいらしてください。そのとき、おいしいりょうりふるまいますから」

「……あ、ああ、ありがとう。それじゃあ」

 志貴は瞳の輝きを失ったまま、静かに店を出ていく。楊はそんな志貴の後ろ姿を心配そうに見ていた。



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