関東近海に浮かぶ人工島カグヤは、先週から続く
この巨大な人工島は、元々、島サイズほどの巨大な隕石を基にして作られた。この隕石が関東近海に落下した際、大地震のような揺れや衝撃波、そしてそれに伴う津波などが発生して、関東を中心とした太平洋側の地域に大きな被害を及ぼした。特に関東南部の被害は酷く、この隕石の落下によって、首都機能は完全に麻痺してしまう。
その後、政府は隕石落下の被害の影響を受けず、経済成長率の高い政令指定都市のある福岡に首都を移し、世界中から送られてくる支援金や物資を基に、関東復興を進めていく。世界中から専門家や人材派遣なども含めた惜しみない支援によって、関東復興は十年足らずで完了。それに伴い首都を再び東京に戻す。それと並行して、この巨大な隕石の調査、そしてこの巨大隕石を基に人工島建設のプロジェクトが立ち上がった。このプロジェクトに対して、大変貴重で研究対象にすべき巨大隕石を日本の独占にして良いのかという批判が各国から出たが、時の日本政府はその批判に目もくれずプロジェクトを進行させる。そして、関東復興とほぼ同時期に人工島が完成してカグヤと命名された。
この隕石による落下の被害や範囲はあまりに大きかったものの、これだけ巨大な隕石が落下すれば、下手すると日本は無くなっていたかもしれないとも言われていたので、それも含めてここまでの道のりを考えれば、奇跡と呼べるかもしれない。
なんとか人工島カグヤが完成したのは良かったものの、当初の予定とは異なることも起こっていた。元々、これからの未来の課題に対応すべく、スマートシティとしてこのカグヤを運用していく予定だったのだが、完成間近のところで、経済低迷や政治不安が一気に高まり、若者を中心に許可なくカグヤへと押し寄せてきた。厳しい審査を経てカグヤへの移住を許可する予定であったため、この事態に本土から警察が介入するなど問題もあった。だが、これ以上問題を長引かせないために、カグヤへの受け入れ緩和を徐々に認めていく。その結果、日本人だけではなく、移民や難民を含めた大勢の外国人も、このカグヤに移り住んでいった。当初の計画から変更はあったものの、一国の島国のようであり、外国人が多く在住する非常にカオスな都市のような存在として、カグヤは今現在の姿へと発展していく。
このカグヤは当初の目的と同じく、一国二制度を取っているため、通貨は同じだが本土と法律が異なる。つまり、この島全体が、ひとつの実験体として機能していることになる。
といった経緯で作られたこの巨大な人工島、そのカグヤの五番街のアパートの一室から、
事務所はアパートから歩いて三十分ほど、同じ五番街にある。事務所から距離があるのは、一応仕事を考慮してのことだ。朝の七時半、毎朝この時間帯に家を出る。
志貴の事務所は元々探偵事務所として開業していたのだが、探偵業だけでは食っていけそうになかったので、格安でなんでも引き受ける便利屋としての仕事がメインになっている。公園のトイレ掃除から老人介護など、出来ることならなんでも引き受ける。
事務所に行く途中、志貴は先週の仕事の内容を思い出していた。稼業が稼業なだけに、収入も休みも少ないせいで趣味が持てない彼にとって、数少ない趣味のひとつのようなものであり、日課となっていた。
先週も便利屋として、建設現場と介護施設の欠員補充という形で働いていた。探偵のような仕事は、このところ全くと言っていいほどない。
しかし、志貴自身はこのことについて、マイナスと捉えず、ある意味良いことだという風に思っている。基本的に探偵のような仕事は、浮気調査や弁護士の依頼で事件の調査にあたるなど、その過程で嫌なことに遭遇することが多い。サイコパスや余程タフな一部の人間でなければ、メンタルを病んでしまう。建設現場や介護施設なども大変な仕事であるが、人の生活に必要不可欠な仕事ではあるので、感謝されることが多い。便利屋のような形でいろんなところに引っ張られ、それはそれで大変だが、いろんな人と仕事を通じて会えるこの日常を、志貴は大切にしている。
先週の仕事の内容を思い出しながら歩いていると、突然後ろから名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「志貴ちゃん、おはよ〜!」
振り返ると大きな人影が確認出来た。
「おはようございます、スミレさん」
このセーラー服の上から同じ紺色のコートを羽織っているこの男性はゲイバーのママで、以前ある依頼を引き受けたときからの知り合いだ。元自衛官で身長は二メートル近くもあり、一八二センチの志貴とはだいぶ差がある。自称永遠の女子高生で、スカートの下のもじゃもじゃした
「志貴ちゃん、この頃全く顔を見せないじゃない。ホント、冷たいんだから!」
スミレはそう言うと、むっと顔を膨らませた。このときの顔といったら、まるでエサを頬張るゴリラのようだ。いや、三つ編みした黒い髪と塗りたくった厚化粧を見れば、どこかの先住民族というべきなのか。とにかくアクが強い。志貴は引きつった笑みを浮かべながら、スミレと出会った頃のことを思い出していた。
出会うきっかけとなったある依頼というのは、病欠のコンパニオンの穴を埋めるというものだった。女装した黒ドレス姿の志貴は、この日、店一番の華となっていた。志貴はむさい男たちに身体を擦り寄せられたことを思い出し、
「いや、最近忙しいもので……」
「ふん! どうせまた、おじいちゃんおばあちゃんのお世話でもしてたんでしょ。あたしに目もくれずに。でも、そういうところが、またグッとくるのよね」
「いえ、仕事ですから」
「もう、謙遜しちゃって! あっそうそう、あのコ、どうしてる? あんたんとこの可愛い事務の」
「
「見くびらないで欲しいわね。あたしだって、他のコのこと可愛いだの綺麗だの言ったりするわよ。あたしが言いたいのは、上っ面だけ磨いている今時の若いムスメどもに、調子に乗るなと言いたいだけなのよ!」
「ははははっ、スミレさんこそ、どうなんです? 自分のこと棚に上げてません?」
「そんなことないわよ。腹の奥底、どこまでもピュアなの、あたしは」
どこがピュアなものか。そもそもスミレという名前だって、あんたは決して可憐じゃないだろ! と、志貴は表向き笑顔を貫きながら、言葉を出さずツッコミを入れた。
「そろそろ行かないと。では、この辺で失礼します」
スミレは志貴が別れの話を切り出したせいか、寂しそうな表情をする。
「ホントつれないわね。どうしてなのかしらね。いい男はなぜあたしの前からいなくなってしまうのかしら」
「褒めて頂いて光栄です」
「まあ、いいわ。それじゃ、またね」
スミレの後ろ姿を確認すると、志貴はホッとしたのか、穏やかに微笑んだ。だからといって嫌いというわけではなく、決して悪い人物でもない。時々事務所に作り過ぎたお惣菜を持ってきてくれたりなど、なかなか親切なところもある。自称女子高生ということもあり、仕事に出かけることを登校すると言っている。だが、この時間帯に会うのは珍しい。
そろそろ行かないとまずいと思い、志貴は歩くスピードを速める。
しばらく歩いて下町のような区域に入ってくると、三階建てで廃ビル風な建物が目に入る。この建物の最上階に、志貴は事務所を構えている。他の階は空きになっていて、事務所の関係者と依頼人以外でこの建物を訪れるとしたら、郵便、配達、カラス、野良猫、後は外国人ぐらいだ。
事務所の前に着くとスマホを取り出し、現在の時間を確認する。午前八時一〇分、いつもより一〇分の遅刻だ。
建物の中に入ろうとしたとき、足首あたりに何かが触れた感覚がした。足許を見ると、以前からこの建物付近に居座るようになった黒白のハチワレの猫が、ニャーニャー泣きながら志貴の足に身体を擦り寄せてきた。模様の感じからとても可愛らしい印象だが、よく見るとスタイルが良く、鼻が高くてキリッとした顔立ちから、どこか上品な感じのようにも見える。志貴はしゃがんで喉を撫でてやると、バイクの音のように喉をゴロゴロ鳴らした。その様子に志貴は微笑むと、建物の中に入っていった。
廃ビル内の薄暗い階段には、今日もお客さんがいる。アジア系外国人の男二人組が、ホームレス同然のような格好で寝転がっていた。寒いはずなのに、清々しい感じで寝ている。踏まないように気をつけながら、小声で「おはようございます」と挨拶すると、二人も寝言のような感じで挨拶を返した。志貴はその様子に微笑むと、一番上の階まで上がっていき事務所の目の前まで辿り着いた。目の前のドアに設置されたネームプレートには、
ドアを開けて中に入ると、コーヒーを入れる事務員の沙代の姿が目に入る。沙代は志貴と同じ二十五歳で、黒のショートカットの質素な女の子だ。
志貴がコートと背広をハンガーにかけて椅子に座ると、沙代はマグカップを志貴のデスクに置いた。白いシャツと黒のベスト姿の志貴に、沙代は見惚れている。ネクタイを締め直す姿に心をときめかせていたが、志貴と目が合った途端、どこか不機嫌そうにツンとした表情になる。
「遅刻ですよ」
志貴は沙代の本日第一声に、懇願を求めるような微笑みを見せる。
「少しぐらいの遅刻は大目に見てよ。事務所に来る途中、スミレさんに捕まってさ、いろいろ大変だったの」
「スミレさん? あっ、あの永遠の女子高生で有名なあの……良かったじゃない。あんなに可愛いひとに気に入られて」
「今日がエイプリルフールだからといって、そんな冗談を言うのはやめて。あの悪夢をどうしても思い出してしまうから。沙代ちゃんにだって、あのときのことは話したでしょ」
沙代は天井を見上げて、志貴の言うあのときのことを思い出そうとしていた。数秒後、沙代はなんのことを言ってるのかがわかると、志貴に意地悪な視線を送った。
「悪夢? あっ、もしかして、最初に会ったときの依頼のこと? 良かったじゃない。スミレさんからいろいろ聞いたけど、女の子から凄くモテモテだったんでしょ?」
「いや、女の子にモテモテだったとか決して……」
「あっそうか、ダンディーなお姉様たちにモテモテだったって言ったっけ? ああ、いいなあ。わたしも羨ましい」
「あのときほど、自分のことを悲しいと思ったことはないんだけれど……」
「後、志貴くんのドレス姿、写真に撮っておけば良かった」
「嫌なことを思い出させないで」
「贅沢な悩みだよね。わたしだって、言い寄ってくるかっこいいおじ様のひとりやふたり欲しいのに」
沙代があまりに意地悪な口調を続けるので、志貴も少し意地悪な口調になる。
「だったら、お見合いの席でも設けようか? 誰かいい人を紹介するよ。沙代ちゃんに似合いそうな、特別アクの強い人をね」
「ありがと。でも、まだ結婚したいと思ってないし、そういうのはマッチングアプリがあるから、志貴くんがおせっかいしなくていいの」
「ああ、そう。それは良かった」
「ええ、わたしだってまだ若いんだし、結婚はまだ全然後で、いろんな人とお付き合いしてみたいな」
志貴はこの言葉に声をあげて笑う。
「ははははっ、まるで不倫という病にかかったおばさんのセリフだな。沙代ちゃんもそのうち不倫か何かして、うちに依頼が来てもおかしくなさそう」
「下衆の勘繰りみたいなこと言うのはやめて。そんなことにはならないから」
「今はそうかもしれないけど、そのうちどうなるかわからないよ。年月が経つと人は変わるって言うからね。そう、時は実に残酷なものさ」
「何カッコつけたこと言ってんの。今時そんなセリフ言ってたら、みんな引くよ。そもそも、不倫とか嗅ぎ回る人間の神経がわからない。ホント、クズだと思う」
「でも、うちにそういう依頼の仕事来たでしょ。だったら、おれたちもれっきとしたクズだよ」
「それは志貴くんだけね。実際、浮気調査を調べてたのは志貴くんなわけだし」
「そんな、ねえ、おれのこと、邪険にしないでくれる。もう、ホント子供なんだから。ねえ、沙代ちゃん」
「そんなこと言って、本当はわたしのことバカにしてるでしょ? ああ、もうホントむかつく。何さ! 顔がいいからって、あんまり調子に乗らないでね」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。顔が良いのは自覚しておりました」
志貴はいかにも紳士的にお辞儀して見せた。
「志貴くん、そういう嫌味な感じ、相変わらずだよね。皮肉めいた感じとかさあ。確かこの事務所の名前もそんな感じでつけたんだよね。え〜と、なんて言ってたんだっけ。ああ、もういいや。なんで、新都租界なんて変な名前つけたの? 普通に◯◯事務所みたいなのにすればいいのに。こんな、なんというか、そう、怪しい感じの名前だったら、誰も依頼とかして来なさそうなのに」
「まあ、少ないとはいえ、こうやってなんとか依頼が来てそれをこなしてるわけなんだから。最初は危ないところって思われたかもしれないけど、ちゃんと頼まれた依頼をやり遂げて実績を積めば、次第にみんなこの名前に慣れてくるもんだよ。それになんたら事務所とかって名前ありふれてるから、いっそ変わった名前にしたほうが目に留まる確率も上がるかもなって思ったのもあったからね」
「それはわかったけど、結局なんでこの名前にしようと思ったの? どんな思いでこの名前をつけたのか。そこ聞きたい」
「これは多分前にも話したと思うけど、このカグヤの成り立ちを端的に表した俺が作った言葉なの。リアルタイムでは知らないけど、カグヤが人工島として完成間近ってときに、若者を中心とした大人数がここに押し寄せてきたって話は知ってるじゃない。本土で職にあぶれた多くの人間が、おれたちの新しい都だって、このカグヤにやって来る。やっとおれたちの新しい国が出来上がったって喜んでる。だけど実際は、このカグヤも一国二制度とはいえ日本の一部であり、みんなが逃げてきた本土の一応の管理下にあるのは変わらない。だから、その成り立ちや状況を端的に表せないかと思い、新都租界って名前を作ったの。新しい都という意味で
「ホント皮肉屋だね。ここまで意地が悪いと、ホント救いようがないんじゃない?」
「まあ、皮肉屋って言われても仕方ないかもしれないけど、少なくとも、依頼者の期待には応えているから、その人たちのことは救ってるつもりだよ」
志貴はこのように言い終わると、意地悪な表情を変え、優しく微笑む。沙代は表情が切り替わるところを見ると、急に不機嫌そうに黙り込む。
志貴は沙代がなぜここまで不機嫌そうに突っかかったりしてくるのか、よくわからなかった。いろいろ理由を頭の中で考えるが、注意されることはあるにしても、ここまで意地悪な態度を取られるほどかと、首を傾げてしまう。沙代は不機嫌になることが時々ある。多分生理中かなんかなのだろうと、志貴はこういうときはそう思い込むようにしていた。
志貴はやれやれといった表情で立ち上がると、ポケットから飴玉を取り出す。そして、沙代の顔の前に近づけた。
「少し疲れてるんでしょ。ほら、飴ちゃんでも食べたら」
「子供扱いしないで。そんな飴玉ひとつで、機嫌直すと思ってるの? ホント、デリカシーないよね、志貴くんは。わたし、そんなに安くないの。それに、わたしが普段、飴なんか舐めてると思ってるの? ここ数年、飴なんて一度も舐めたことないから。やっぱ、わたしのことバカにしてるでしょ? わたしのことナメてるって意思表示なんでしょ、これって。冗談じゃない! 誰が喜ぶかってんだ」
「ははははっ、手厳しいね。はあ〜、じゃあ、仕方ないな」
志貴はそう言うと、飴玉を持ってる手を閉じた。
「ほら、見てて」
志貴は沙代に再び優しい笑みを見せると、飴玉を握ってる手に力を込める。沙代は馬鹿にしやがってという顔つきで、志貴を睨んでいた。
だが、志貴は真剣な表情だ。堅く握り締めた拳に意識を集中させている。そして、沙代に目を向けると、ゆっくりと手を開いた。
しかし、志貴のピアニストのような綺麗な手には、飴玉の姿が見当たらない。だがその代わり、沙代が以前から食べたがっていた、人気お菓子店のクッキーが姿を現した。白く小さな満月のような姿を目の当たりにすると、沙代は思わず舌舐めずりをしてしまう。その様子を見て、志貴は半透明なフィルムにラッピングされたクッキーを取り出すと、ゆっくりと沙代の口元に近づけた。
サクッと気持ち良く音を立てながら、満足そうな笑みを浮かべる。このときの沙代は、まだ許したわけじゃないんだから的ないわゆるツンデレな感じで、ツンデレ好きには思わずキュンとしてしまいそうな表情になっていた。
「お気に召しましたか?」
「これで許したと思ってるの?」
「本当に素直じゃないんだから。鏡で自分の顔見てみたら。凄く嬉しそうな顔をしているよ」
「こんなんじゃ嬉しくもなんともないよ」
「では、これだったらどう?」
志貴はデスクの引き出しを開けると、何やら大きな包みを取り出す。デスクの上に置いて表面の白い紙を破ると、某人気お菓子店お手製のクッキーセットが姿を現す。その瞬間、沙代の瞳孔が拡張した。
「これ沙代ちゃんが食べたいって言ってたから、前もって買っておいてたんだけど、食べたい? ねえ、食べたいんでしょ? それとも食べたくないの? だったら、おれひとりで食べちゃうけど、それでもいい?」
沙代は誘惑に逆らえず、手を伸ばしてしまう。それを見て志貴はニヤリと笑った。
「そうそう、素直でなくちゃ」
沙代はクッキーをつまみながら、志貴に背を向ける。
「まあ、これは不可抗力ってやつよ。別に許したわけじゃないんだから」
「そんなさあ、おれ、そもそも沙代ちゃんが怒るようなことしたっけ? それとは真逆に、沙代ちゃんのために、こうやってクッキー売り切れになる前に、なんとか買ってきたんだから。感謝を言われるならわかるけど、ここまで邪険にされる覚えはないよ」
「その恩着せがましいところが、そもそも嫌いなの。なんだか上から目線で物言われてる感じするから。それと、わたしそもそも、志貴くんに感謝を言う必要がないからさあ。そもそも、志貴くんが謝罪でクッキー買ってきてくれたものかと思ってたけど、どうも違うみたいだから」
「え、どういうこと?」
「今日冷蔵庫開けたらね、わたしが昨日買っておいてたケーキが無くなってたの。あれ、志貴くん食べたでしょ?」
「……え〜と、あっ!」
そう言えば、沙代がこれまた別の人気洋菓子店でケーキを買ってきていて、それを二人で何個か分けて食べたのだ。沙代は最後の一個を明日用に取っておいたのを志貴にも伝えていたのだが、志貴はそのことをすっかり忘れてしまい、沙代が仕事を終えて事務所をあとにした後、ひとりで食べてしまっていたのだ。
「あっ、ごめんごめん。じゃあさあ、これ買ってきてあげてたんだから、どうか許しておくれよ」
「わたしだって、志貴くんのためにケーキ買ってあげてたんだから、お互い様でしょ。それにそんな軽い謝罪する人のことなんて、許してあげません。許して欲しいなら、ちゃんと誠意を見せて」
「……ふぅ〜、わかった。じゃあ、もうこうするしかないな」
そう言うと志貴は突然沙代に近づき、驚いた沙代は壁際に追いやられる。しかし、志貴は逃がさないとばかりに、沙代と身体を密着させて、その結果、沙代は志貴と壁との間の板挟みとなってしまった。沙代はなんとか離れようとするが、志貴が沙代の腕を掴み動きを止める。
「お願い、やめて」
「うん? 何が?」
「だから、やめててってば! 誰かに見られでもしたら、どうするの⁉︎」
「見られることはないさ。だって今は、おれと沙代ちゃんのふたりっきりなんだから」
今二人がこうしてる姿は、傍から見れば、まさに男女の逢い引きそのもの。沙代のいかにも事務員らしい服装を見ていると、社内で情事を楽しんでる若い男女の姿に見える。志貴は優しく微笑むと、沙代に甘く囁く。
「乱暴なことはしない」
「……」
「沙代ちゃん、おれの顔よく見て」
「……」
「おれがそんなサイテーな奴に見える?」
沙代は志貴の言葉に、逸らしていた顔を真っ直ぐ志貴のほうに向けた。
「……悪かったよ。少しムキになってた。どうしても沙代ちゃんがきつくあたってくるからさあ、なんでこんなにも嫌な態度で接してくるんだって、正直ムカついてた」
「……」
「でも、おれも悪かったなって思ってる。ちょっとからかい過ぎたり、嫌味なこと言ったりしたと思ってる。謝るよ」
志貴の言葉に、沙代も自分にも非があるといった感じで、申し訳なさそうな表情へと変わる。
「それとね、本当は、こうやって沙代ちゃんと触れ合いたかったんだ」
志貴は真剣な表情を崩さず、再び沙代に身体を近づけた。沙代は困った顔をして、少し抵抗する。
「……おれじゃ、ダメなの? おれのことが、本当に嫌い?」
「……」
「……沙代ちゃん、おれもう、我慢出来ないよ」
「ちょっと志貴くん! 今はダメだって!」
沙代は顔が赤くなり、しどろもどろな様子になる。そんな状態の沙代に、トドメを刺すような甘い言葉を囁く。
「今は駄目って、じゃあその気はあるんだね? じゃあ、いつだったらいいの?」
この言葉に沙代は完全に逃げ場を失ってしまった。もう自分の素直な気持ちに従うしか道はなく、恥じらいながらも、もう全てを受け入れるかのような表情をちらつかせる。
「ねえ……」
「……」
「……何か言いたいんでしょ? ほら、早く言ってよ」
「……好きにして……」
「何? 聞こえない?」
「志貴くんの好きにして……もう、好きにしていいから」
お互いの背中や腰に腕を回し、そして徐々に顔を近づけていく。沙代は最初視線を逸らしていたが、お互いの顔が近づくにつれて、志貴のほうに目を合わせていく。沙代は恋焦がれる乙女の表情へと変わっていた。
「……いいんだね?」
「うん……」
見つめ合うと、ふたりは同時に唇を近づけていく。その様子は、まるでおセンチな観客を焦らすかのように、ゆっくりと互いの肌の温もりを感じ取り、確実に距離を縮めていく。そして、触れるか触れないかのちょうどそのタイミングで、志貴が目を閉じて沙代も目を閉じた。志貴の温もりを感じながら、沙代は心ときめかせながらその瞬間を待った。
しかし、唇に仄かな柔らかい感触が伝わるかと思いきや、沙代は自分のおでこにピタッと何かを貼り付けられたように感じた。沙代は目を開けると、志貴の笑いを堪えている様子が目に入る。額にくっついている小さなメモ用紙を手に取ると、そこにはエイプリルフールと書かれていた。
「‼︎」
「ははははっ! 沙代ちゃん、ごめん。今日エイプリルフールだからさあ、ちょっと担がせてもらったよ」
「志貴てめえ〜!」
「本当に悪いとは思ってるんだよ。ちょっと意地悪なことは言ったからさあ。でも、沙代ちゃんも沙代ちゃんだよ。沙代ちゃんも何か忘れてることあるんじゃない?」
「はい? なんのこと?」
「これってさあ、今度の依頼で頼まれた劇の練習じゃん。エイプリルフールネタでこんなシチュエーションのシーンあるんだからさあ、忘れてたの? だから、その練習のためにおれがわざわざやってみせたんだから」
「あっ! そうだった。すっかり忘れてたって、わたしだけじゃなくて、志貴くんも一緒に出るんだよ!」
「あっそうか。そういう依頼だったよな。劇団員の二人が事故で入院して、その代わりに出て欲しいって依頼。なんで引き受けたんだろう?」
「依頼が少なくて金に困ってるからだろ!」
「まあ、そうだけどさあ、沙代ちゃんが直接依頼の現場に行くのは珍しいなって思ってね。本当は結構乗り気なんじゃない? さっきもそんな感じだったし」
「そんなことないもん! わたしはただ、お金に困ってるこの事務所のために、仕方なく人数合わせに付き合ってるだけなんだから。それに途中から、志貴くんが劇の練習に入ったんだなって、気づいてたんだからね」
「さっき、すっかり忘れてたって言ってなかったっけ? まあ、いいや。でも、勘違いしないでよね。おれはこんなクサいセリフ言わないからさあ。こんなことでホントに惚れないでよね」
「誰が!」
「さあさあ、仕事しようか」
「あっ、またバカにしてるでしょ?」
こうして少女マンガ風な
この痴話喧嘩のようなエイプリルフール劇が落ち着くと、志貴はゆっくりとコーヒーを飲んでいた。沙代はクッキーをバクバク食べながら、デスクトップの画面を睨んでいる。
「今日は何か依頼とか入ってたっけ?」
「え〜と、待って。今日も特に何も入ってないかな」
「そうか……ちょっと待て。今日、は、じゃなくて?」
「今日、も、だよ。あっごめん、嘘嘘。今日の午前中、トイレ掃除の手伝いが入ってた」
「え〜と、それなんだったっけ?」
「知的障害者の人たちと一緒に、公園のトイレ掃除やるの。ほら、そういう方たちを専門に雇ってる清掃業者あるでしょ。人が辞めちゃって、指導する人が足りないからって」
「ああ、そういえば言ってたね」
「後一時間後だから、ちゃんと行ってきてね」
「あんまり気乗りしないなあ」
「何言ってるの。これだって立派なちゃんとしたお仕事なんだから、志貴くん、ちゃんと行ってきてよ」
「そんなこと言うなら、沙代ちゃんが行ってくればいいじゃない。おればっか、こんな仕事なんだからさあ」
「わたしはほら、事務所にひとりは残ってたほうがいいじゃない。だから、ここでお留守番」
「また自分に都合のいいこと言って」
「わたしだって、ちゃんと仕事してるんだよ。ほら、こうやって依頼のメールやスケジュール管理だって、わたしが全部やってるわけなんだし。それにこうやって依頼のメールか迷惑メールかチェックするのだって、大変なんだからさあ」
「じゃあ、おれが代わろうか?」
「だ〜め!」
沙代はそう言った数秒後、ため息をつく。そして、さらに数秒後、また怒った顔になる。
「ああ、もう! SNSからの依頼DMと迷惑DM、自動で分けるように設定しておいたのに、依頼のDMが迷惑DMのほうに入ってるみたい。チャットボットのほうも不具合みたいだし、AI任せにするのはダメね。あっもう、逆に仕事が増えて困っちゃう」
「やっぱりおれが代わろうか?」
「いい。自分でやるから。あっ、そうそう! 思い出した。そういえば、志貴くんが来る少し前に依頼の電話があった」
「で、依頼ってのは?」
「なんか人探しの依頼なんだって」
「なんだか久しぶりに探偵らしい仕事が出来そうじゃない」
「えっ? ここって探偵事務所じゃないでしょ」
「そんなことはいいから、それで、仕事の内容は?」
「電話だからあまり詳しいことは聞いてないんだけど、今日の午後四時に
「覚えてるよ。ああ、楊さんかあ。あれから元気にやってるかな?依頼のついでに楊さんにも挨拶してこよう。ところで、依頼人ってなんて人?」
「
「陳って人と四時に待ち合わせと」
「あっそうそう、楊さんの店で焼き餃子買ってきてよ!」
「あれって正式なメニューじゃないでしょ?」
「でも、お願い。買ってきたら、ちゃんと許してあげるから」
「人に頼む言い方かな、それ。わかったわかった。帰りに買ってくるよ」
「やったね!」
「そうこうしているうちにもう時間だ。じゃあ、そろそろ行くから」
「餃子忘れないでね」
志貴は立ち上がると、ロッカーから作業着を取り出して鞄に詰める。そして、デスクトップと睨み合っている沙代の様子を見てにっこり笑うと、事務所を後にした。