オルフェとエレンはまだ暗い路地の中を彷徨っている。オルフェはエレンから何が目的でこのアストロメリアに来たのか、これからどうするつもりなのか、火星のアンドロイドたちが中心となる某秘密結社についてなど、訊きたいことがたくさんあった。オルフェは先立って前を歩きつつ、エレンから話を訊くため口を開こうとしたそのタイミング、それと同時に次の角を曲がろうとしたその瞬間、オルフェはピタッと動きを止めた。目をいつもより大きく広げて、瞳はまるで獲物を狙う山猫のように鋭い光を放っている。
「気をつけて。誰かにつけられてる」
オルフェは振り返らず小声で伝えると、再び歩き出す。エレンもオルフェの動作から察して、頷くなどの動作は一切せず、黙ったまま引き続きオルフェの少し後ろを歩いていく。そのエレンの瞳からは、銃を下げている腰の辺りに右手を近づけるオルフェの姿が映っていた。
空気が肌に纏わり付いてくるように感じられる。気温は十五℃程度だが、この辺りの湿度が異常に高いせいなのか、周囲が深い霧で覆われている。しばらく見通しのきかない異質な空間を進んでいくと、突然急に視界が開けていった。
オルフェとエレンの瞳に映ったのは、今までの路地とは異なる、地球でいうところの華僑が多く暮らしている地域でよく見かける安アパートや賭場、そして飲食店が並んでるようなエリアであった。どの店も寂れていて人の気配はなく、赤色の上に緑の漢字で書かれた看板以外は、どれもとても汚れて華やかさを完全に失っていた。それはまさに、サイバーパンクで描かれている光景そのものだ。
オルフェは頻りに周囲を気にする。顔の向きはまっすぐでも、絶えず眼球を上下左右に動かしている。灰色のダイヤの輝きは、暗がりの中獲物を狙う黒豹そのもの。僅かに動くものがあれば殺すといわんばかりだ。
二人の頭上にあるピンクやメロンソーダ色のネオンが、十秒間隔で点滅しては大きな火花を散らしている。足元には煙草や酒瓶などのごみが散らばっており、より一層探偵小説らしい世界観を醸し出している。
風の音、切れかけの電線の音、ごみを漁るドブネズミの音、小さな掠れた音が微かに聞こえるたびに、眼球を動かして自分たちに迫ってきている暗い影の存在を探していた。思わずゾッとするほど生暖かい風に身を包まれながらも、オルフェは表情を一切変えない。しかし、突然上のほうで大きな物音が聞こえたが、その後辺りは急に静まり返る。そしてその数秒後、辺り一帯の明かりが消えて、再び暗い世界へと迷い込んでしまった。
オルフェとエレンは虹彩に微かに漂う微力な光を集めると、自分たちが進める道があるかどうか確かめる。このとき、そろそろ相手が仕掛けてくると、二人とも同じ考えに至っていた。オルフェもエレンも微かに集めた光が銀色に輝いて、夜の森を彷徨う番いの狼、もしくは番いの山猫そのもののような存在となっていた。
辺りが沈黙し始めてから風も止んだ。だが、周囲の空気はさらに淀んだ雰囲気を漂わせ、怪奇小説のような世界観を連想させる。このアストロメリアでは現在昼間の時刻であるというのに、異常なほどとても暗く感じられる。人間であればとても耐えられないであろうと思えるほどとても暗く、逃げ切ることは出来ないのではないか、そう思えるほど周囲を完璧に近い闇が包み込んでいた。
暗くなり静かになってから、十分ほど経過した。はっきりとは見えないが、チャイナタウンからまた別の場所へと来たみたいだ。そう……なんというか、コナン・ドイルが描いたシャーロック・ホームズの世界。紳士的なブラックユーモアを秘めた殺戮の街が、徐々に影を見せ始めていた。このとき、切り裂きジャックに狙われる若い女性たちと、今の二人は貴重なぐらい重なっているように見えた。
エレンが街の様子に気づいたとき、暗い空から丸い卵菓子のような形をした、白く暖かな光を放つものが、姿を徐々に見せ始めた。そう、地球で見える月そのものだ。誰も存在を知らない一人のアーティストによって作られたこのサイバーアートが、未来から取り残された暗い街全体へと展開している。
人工で作られた月がはっきりと姿を見せた頃には、視力の良い者なら問題なく歩ける明るさになっていた。辺りの光景がますます英文学の世界に近づいていったが、それでも虚構であることに変わりはない。紛い物のロンドン郊外の街を進んでいくと、前方に橋の影のようなものが見えてきた。オルフェはまだ姿を見せない敵に警戒しながら、エレンを連れて橋らしき影のあるほうへと向かっていった。
近くまで行くと、石材で作られた古い橋が、二人の目の前に姿を現す。ヴルタヴァ川に架かるカレル橋のような外観だ。オルフェとエレンは一度互いに顔を見合わせると、同時に石橋に足を踏み入れた。ためらいはなく、だが慎重な足取りで。
そして、オルフェとエレン、二人は橋を渡り始めるのだが、渡り始めたその瞬間、どこからか何やら微かに音が聞こえてくる。最初は野兎でしか聞こえない程度のとても小さな音であったが、二人が月明かりに照らされながら進むごとに、少しずつ大きくなっていく。どこから聞こえてくるのか二人にはわからないが、ベートーヴェンの名曲『月光』の調べが、凛としたピアノの音色を通して響き渡る。最初はゆっくりとした演奏が、二人が橋の中心に近づいていくのに従って、テンポが早まりさらに音が大きくなっていく。
ちょうど橋の中心まで来ると、オルフェは何やら突然強い殺気を感じて上を見上げる。すると、大きな時計台のようなシルエットをした建物の上に立っている、黒い人影の姿が確認出来た。そして、オルフェが黒い人影をとらえたその瞬間、その黒い人影がオルフェとエレンのいるほうに向かって飛び降りてきた。目の前に人影が着地すると、直ぐ様オルフェに後ろ回転横蹴りを入れてきたが、オルフェは間一髪、顔の近くで両腕をクロスさせて、顔面への直撃を避けることに成功した。しかし、蹴りの威力があまりに強くて、後ろに下がっていたエレンのところまで突き飛ばされてしまう。これにエレンは素早く対応して、オルフェの背中をしっかりと受け止めた。オルフェは振り返ってエレンの顔を見る。それに対してエレンが頷くと、二人は今まで姿を見せなかった敵に真っ直ぐ視線を向けた。
オルフェとエレン、二人の瞳には黒の戦闘服を着た男の姿が映っていた。背丈や体型はオルフェと同じぐらいで、髪の毛も同じく黒。そして目元を白いドミノマスクで覆っている。薄い月光の下でおぼろげに浮かぶその姿は、なんとも不気味だ。
「何者だ?」
男はオルフェの質問に、唇を一切動かさず沈黙で答える。
「……そしてその動き、おまえ、アンドロイドだな。国家警察の手の者か?」
「……」
「いや、違うな。もしそうであるなら、監視役であるあの男と共に行動しているはずだ」
「……」
「どこの組織の者だ? どうしてぼくたちを付け狙う?」
オルフェの言葉の後、また少しの沈黙。もう既に音楽は止み、辺りは完全な沈黙に包まれる。言葉にしてみればほんの少しの間のことのように感じられるかもしれないが、ただ薄暗いこの橋の上で、この不気味な男の姿を見ていると、普通の人間であれば、この男を中心としたブラックホールに吸い込まれて永遠に彷徨い続けなければならないのかと錯覚してしまうほど、異様な雰囲気が辺りを覆い尽くしていた。だが時は経ち、沈黙は破られる。後ろにいるエレンが口を開き言葉を発した。
「彼よ……」
「彼?」
オルフェは後ろを振り返らず、真っ直ぐ男に視線を向けたまま、エレンの次の言葉に耳を傾けた。
「彼がやったの。ねえオルフェ、今日貧民街で殺人事件があったのは知ってるでしょ? 恐らく、彼が殺したの。潜入捜査官の男を殺して、同じ組織の人間を犯人に仕立て上げた。つまり、ハメたの。やはり、彼は人間のことを信用してないようね」
「そうなのか……でも、なぜ詳しく知ってる? きみは一体……」
「わたしと彼は元々同じ組織の一員。話したことはほとんどないけれど、彼のことは……知ってる……」
エレンの言葉が一旦途切れて、また少しの沈黙。しかし、突如冷たい風が吹き抜け、再び彼女の言葉が動き出す。
「彼は組織のリーダーであり一番の殺し屋。組織の邪魔となる存在を、あの世へと送り込む暗殺者。彼に一度狙われた獲物は、決して逃れることは出来ない。そう、今まで一度も。どこまでも追いかけてきて、獲物の喉を掻き切る機会が訪れるその瞬間まで、決して姿を見せることはない。獲物は殺されてしまうそのときまで、まるで何かに取り憑かれたような狂気の表情を見せて、最後を遂げていく。彼は人間を信用していない。自分たちの、いや自分の理想の世界を作るため、人間を利用して最後は根絶やしにしようとしている。わたしは、そんな彼の蛮行を止めるため、ここまで来たの……」
エレンの言葉がまた途切れた後、再び冷たい風が吹き抜けていく。そしてエレンは、僅かに声を震わせながらこう言った。
「彼はそう……死へと誘う冥府の神。そう、死神よ」
エレンが言い終わったその瞬間、死神が物凄いスピードでオルフェに向かって走ってくる。オルフェは直ぐ様、腰に下げているマイナデスを手に取った。しかし、射とうしたその瞬間、マイナデスを左手で抑えられ、横腹に蹴りを入れられそうになる。オルフェは左腕を盾代わりにして蹴りを防ぐと、死神は一歩ほど後ろに下がって、今度は後ろ回し蹴りでオルフェの側頭部を狙う。オルフェはスウェーで攻撃を避けると、ハンドスプリングで後ろに下がった。そして、再びマイナデスを死神に向けると、相手の胸を狙って撃った。しかし、死神は無駄のない動きで銃弾を躱すと、跳び横蹴りでオルフェに向かってきた。オルフェは膝をついて体勢を低くし、死神の蹴りを避ける。二人の身体がちょうどクロスに交わったその瞬間、二人ともやや振り返った状態で互いの顔を見た。オルフェの瞳が死神の視線を捉えた瞬間、暗闇から銃声が鳴り響き木霊する。そしてすぐ、再び音の無い世界が広がった。
「オルフェ……」
オルフェと死神が対峙している間、エレンは少し離れたところから様子を伺う。彼女はなんとかオルフェの援護に回ろうと思っていたが、武器を持っていなかったため、足手纏いにならないだろうか、判断に迷っているようだった。だがこうしている間も、相手が素手であるのにもかかわらず、オルフェは劣勢に立たされてるような状況だったので、なりふり構わず助けに行こうと走り出そうとした。
しかし、エレンが二人が戦ってるそばへ走り出そうとしたそのタイミングで、突然無音が破られた。暗闇からたくさんの足音が聞こえてくる。エレンは振り返ると、暗い霧の中大勢の警官たちが、ライトを照らしてこちらに向かってきているのが確認出来た。死神は一旦ここは引くべきと判断したのか、直ぐ様後ろへと下がり暗い闇に吸い込まれるように消えていった。
「いたぞ‼︎ あそこだ!」
オルフェたちのところへライトが向けられ、オルフェとエレンは照らされる。ついに見つけられてしまい、何人もの警官たちがこちらまでやって来るのを見ると、オルフェは直ぐ様エレンのところまで走って、エレンの手を掴むと警官たちのいる反対方向へと全速力で駆け抜ける。警官の一人がマイナデスを抜いて発砲しようとしたときには、警官たちの視界には二人の姿はなく、川に何かが落ちた音だけが響き渡っていた。