チェスターとテトに別れを告げて、再び暗く淀んだ路地を歩いて十分ほど経過すると、ようやく工場地帯と隣接する貧民街のそばまで辿り着いた。
貧民街。このアストロメリアの貧民街は、工場地帯と同じく、住人の半分は他のコロニーから移住してきた者たちで、下層階級の者たちを中心に構成された場所である。移民街であり、貧民街。そういう場所だ。
半日ほど前、任務で犯人を捕らえたときと違い、貧民街は人が多かった。入り口である門を抜けると、市場らしきところで商売や買い物をしている人々の姿が目に入る。子供から老人、あらゆる年齢層が集まっているが、人種はモンゴロイドとネグロイドが中心で、コーカソイドや他の人種は少数派だ。
これだけ人が多いと、どこからどうやって、あのガイノイドを探し出せば良いのか、アンドロイドのオルフェでも判断に迷う。
ゆっくりと、なるだけ目立たないように歩きながら、周囲に目を配る。しかし、彼女を見つけられない。そして、再びノイズが出始める。漂う温かい香りに身を包まれながらも、周囲の映像はなぜか冷たく感じられる。貧民街は晴れ。だが、オルフェの視界からは、暗く雨が降っているように見えた。ここを探しても無駄だ。彼女はいない。そう判断すると、暗い穴の中に引きずり込まれるかのように、貧民街の奥へと入り込んでいった。
市場から離れ、貧民街の奥へと足を踏み入れると、途端に辺りが暗くなる。煤で汚れた大きな建物の間を進んでいくにつれて、この前の任務の記録が蘇る。屋根から屋根へと飛び移りながら、犯人を追い詰めていったあのときのことを。
路地がどんどんと狭くなっていき、さらに先を進んでいくと、半日前に起こった殺人事件の現場へと辿り着いた。血痕はほとんどそのままの状態で、ごみが散らばり、辺りの臭気が酷い。オルフェはその現場を、少しの間観察していた。
しばらく観察していると、突然横から光が射し込んできた。まるで長い冬が終わり、ようやく訪れた春の始まりのような、そんな暖かな光だ。そして、その光に導かれるかのように、その先を進み始めた。
先へ進み始めると、思いのほか、段々と光が薄れていく。貧民街には向かったようだが、警戒されないように貧民街に入ってからは聞き込みをしなかったので、手がかりも得られず、こんな微かな光の筋を辿るよりほかなかったかのようだ。
オルフェは任務で貧民街に来たことは何度もあるものの、全てを熟知しているわけではない。基本的にオルフェは、上層階級の人間が絡むことや、このコロニー全体の治安に関わる内容のことでしか任務についたことがなかった。貧民街で暮らす住人が同じ住人に殺されたなどの事件は、下っ端の警官が担当をして、速やかに対処される。実のところ、このアストロメリアにおいて、アンドロイドはオルフェを除けば、予備が十体もなく、そんなに数を送り込めないのが現状なのだ。なので、優先度の低い事件には、ほとんど駆り出されないため、それが貧民街の地理に疎い主な理由である。
右の角、左の角を曲がったりしていくと、気がつけば、一度も通ったことのない道を歩いていた。道は狭くなり、周囲がさらに暗くなる。しかし、そのおかげで薄れた光の輪郭がはっきりと蘇り、一本の細い道筋を示してくれた。
オルフェは判断に時間をかけることなく、自明に光の道筋の先を進んでいく。決して強い光ではないが、迷える者を誘うこの不思議な明るさ暖かさのおかげなのか、ようやく入り組んだ路地の出口へと辿り着いたみたいだ。視界から見える百メートル先には、地球でいうところの昼間の太陽のような輝きが満ちている。
しかし、この輝きを見た次の瞬間、不具合からなのか、突如別の映像が流れ込んでくる。映像が乱れノイズが混じると、途端にオルフェの目の前に草原の光景が広がっていた。辺りには緑一色の地面と青空以外、何もない。風に吹かれながら竪琴を弾いていると、何かが足りないような気がした。そう、いつも一緒に歌ってくれる誰かの存在が……。
そう思った瞬間、景色は急に暗く澱んだ。そして、光の無い闇へと連れて行かれる。どれも初めて見る光景であるのに、なぜか過去の記録として認識してしまうことに、オルフェは判断が出来ずにいる。なぜだろう。かけがえのないものを失った場所。そんな気がする。出口もない。大切なものが何一つない、そんな場所で、オルフェは迷路のような暗闇をただひたすら走っていたのだが、空間が捻じ曲がったかのように感じ、悲鳴のようなノイズと共に、意識が徐々に薄らいでいった。
オルフェはふと気がつくと、元いた場所に戻っていた。何かの不具合なのか、状況を確かめるが、今の状況と環境では原因究明は不可能だ。一旦周囲を確かめると、オルフェは再び歩き出す。
だがその瞬間、再び視界にノイズが走る。ただ、これまでとは違い、場所が急に変わるということは起こらない。ただ、薄らとした何者かが、オルフェに手を差し伸べた。顔が見えない。顔がはっきりとは思い出せない。だけど、なぜか知っているような気がするその誰かの手を、思わず掴む素振りをしてしまうのだが、実体がないためにオルフェの手をすり抜けてしまう。そして、その幽霊なのかわからない謎の存在の後を追いかけるように、どんどん先へと進んでいった。
そして、導かれるがままに先へ進んでいった結果、突然辺りに光が射し込み、大きな広場が姿を現した。その頃には、オルフェを導いた霊体らしき存在はすっかり見えなくなり、オルフェは周囲を確認する。
この広場は他の貧民街の場所とは異なり、とても清浄な雰囲気が漂っている。地面には青々した草が広がり、高山植物によく似た種の植物が、所々に花を咲かせている。まるで地球で見られる草原を見ているかのようだ。このアストロメリアで暮らす者たちにとっては、本当に珍しく貴重な場所であるだろう。人工美や退廃美が日常の者にとっては、まさに非日常。ファンタジーの世界だ。
オルフェはゆっくりと足を踏み入れる。草と地面を踏んでいる感覚が伝わりながら、周囲の警戒を怠らない。ぱっと確認したところ、人の気配は見当たらない。薄汚れた街の片隅に存在する小さな桃源郷に、オルフェは優しく迎えられた。
先を進んでいくと、薄い霧の向こう側にある大きな影が目に入る。その存在を確かめようと歩み寄ると、天まで
オルフェは一つの大きな命を見上げる。しかし、見上げてから数秒後、再び映像が乱れる不具合が生じた。辺りの景色が歪んで、いろんな透明な色と混ざり合ったサイケデリックな景色へと変わる。それから周りの空間が膨張して収縮すると同時に、オルフェの身体から心臓の鼓動のようなものが三回響き渡ると、再び元の視界へと戻っていった。
幻覚らしき光景が目の前から消えた次の瞬間、オルフェは何やら気配を感じる。大木の真下に視線を移すと、探していたガイノイドの姿がそこにあった。黒のワンピース姿と同じく黒のロングヘアーが、不思議なぐらいこの場所と上手く溶け込んでいる。だがそれとは反対に、ブルーグレーの瞳からは、この場所にそぐわないような翳りのある鋭い輝きを放っていた。
オルフェが視線を向けたときには、ガイノイドのほうも気づいたようで、真っ直ぐオルフェのほうに視線を向ける。こうして近づくことも遠ざかることもなく、お互い見つめ合う状態となっていた。
だが、オルフェは目が合ったその瞬間、自身の身体から強い鼓動が伝わるのを確かに感じた。そして、こう思ったのだ。
「知っている……なぜかはわからない。でも、確かに彼女を知っている……きみは誰だ?」