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54話 起きろッ!

それは、温かで重たい泥沼の、深く深くに沈んでいっているかのような感覚だった。



……あたりは真っ暗で何も見えなかったけど、でも、それでもずっとここに居たいと思える心地よさがあった。




──……ろッ!




……? 



誰かが何かを沼の上──地上から叫んでいる。くぐもった声だ。よく聞こえない。でも、そんなものに耳を傾ける意味がどこにあるのだろう? こんなに安らげる場所は他にはないのだから。俺はますますその泥の中へと沈み込んでいこうと体の力を抜く。




──……きろッ!




……あれ? なんでだ?



ゆっくりと、俺を包み込んでいた温かさが俺の体から離れていった。そしてカツカツと足音を立てて、どこかへと遠ざかっていく。それはひどく寂しいものだった。



……俺を置いていかないでくれ……寒いよ。



それはまるで陽が沈むころ、繋いでいた手が離され、その手のひらに残っていた温もりが冷えた風にさらわれていくような感覚だ。そうだな、あれはとても……寂しかった。



……寂しかった? あれ……そんな経験、俺はいったいどこでしたんだ? 手を繋いだ? 誰と? 俺、付き合っている彼女なんていたっけ……? 生きるために必要最低限のバイトだけして、あとはダラダラと毎日ゲームを消化していくだけの人間……それが俺じゃなかったんだっけ?



ふいに、俺の記憶の端を、金の絹のようなきれいな髪がかすめていき──バチリ! と、脳に火花が弾けるような音がした。





──起きろッ!





……違う。そうだ……俺はいま、俺じゃない。クソゲーの世界で王城衛兵として転生したグスタフ、それが俺なんだ。



そして俺は戦っていた。なんのために? そんなの決まってる。大好きな人を守るために、だ。




──起きろッ! 俺ッ! グスタフッ!




さっきから聞こえるその声の主は、俺自身だった。地上から俺を呼び起こそうとやっきになっている。そうだ、起きなければならない。俺は重たい泥を上へ上へとかき分けて、全力で浮上していく。



……ここが真っ暗なのは、俺が目をつむっているからだ。声がくぐもってしか聞こえなかったのは、俺が意識を失いかけていたからだ。そして、これまで俺を包み込んでくれていたその温かさが何者だったのか……ぜんぶぜんぶ理解した。



泥沼から這い出して、俺は大きく手を伸ばす。地上で俺を引っ張り上げようと手を差し出している俺自身に向かって。



……俺は、起きるぞ! 起きろぉぉぉおッ!




──『アクティブスキルを解放・獲得。『自力回復』→毒・眠り・痺れ・失血•魅惑などの状態異常からの回復を早める。さらに状態異常から自力で回復した場合、一時的にその耐性を得ることができ、また、すべてのステータスが"1"上昇する』




「──ぉぉぉおッ!」




意識が戻った瞬間、俺は目を見開く。そして震える足に力を込めた。



……動く。ちゃんと動く。



俺は立ち上がり、駆け出した。魔王の出ていった玉座の間の大穴めがけて。

そして──。



「キャっ⁉」



今まさにそこから飛び降りようと身を投げ出していた、レイア姫のその手首を掴んだ。




────冥界の門が開くまで、あと45秒。




「グ、グスタフ様っ⁉ そんな、気を失っていたはずじゃっ……?」


「なにしてるんですか……姫」


「っ!」



姫は悲しげな表情で、俺から顔を逸らすと、



「分かってください、グスタフ様……もう道は他にないのです」



重たそうに口を開き、絞りだすような声を出す。



「もう、時間が無いのです。この状況を打開するにはもう、私が死ぬしか──」



俺はレイア姫の手をグイっと引っ張って、その体を抱きしめた。



「グ、グスタフ様……⁉」


「どうしても飛び降りるというならば、このまま飛び降りてください。俺といっしょに」


「な、なにを言ってっ⁉」


「姫が死ぬと言うなら俺も死ぬ。それだけのことです」


「そんな……何をバカなことをっ‼」


「バカで良い!」



俺は叫ぶ。



「それがイヤなら……イヤだと言ってくれるなら、死なないでくれ。生きてくれよ……ずっと、俺といっしょに!」


「っ⁉」


「自己中でごめん。でも、俺はこの世界がどうなろうとも、目の前で姫だけを死なせることだけは、できない……!」



姫は、いろんな感情がごちゃ混ぜになったような表情で下を向いた。



……俺、王城衛兵としても親衛隊としても、失格だな。いや、それどころか今や俺こそが王国を滅びの危機にさらすこの国1番の敵と言ってもいいだろう。



……分かってる。俺は、自分がいま王国を救うための代替案を何も持たず、ただただ自分勝手な都合だけを押し付けているクソ野郎だってことくらい……分かっているのだ。



でも、理屈じゃなかった。これが正しくないと分かっていようがそんなの関係なかった。どれだけ大勢の人々を危険にさらすことになったとしても、俺は姫を諦めることなんてできやしなかった。



「私も、グスタフ様とずっといっしょに……でも、でも……!」


「姫……!」



その体を抱きしめた。決して離すものかと。しかし、俺の腕の中の姫はとても辛そうにその表情を歪めるばかりだった。俺にはそれを、どうしてあげることもできない。


息の詰まるような、苦しい静寂が玉座の間を支配する──そんな時だった。




「──オイオイ、ようやく戦場へたどり着いたと思ったら魔王は逃げた後かよ」




突然聞こえたその声に、俺も姫もピタリといっさいの動きを止めた。そして声の聞こえた方、玉座の間の入口へと顔を向けて……俺はこんなことがあるのかと、開いた口が塞がらなかった。



「まあ、俺様のオーラに怯えて逃げたのだろうなぁ、魔王め! この勇者アーク・ヴィルヘルム・ミラージュに恐れをなすとはなかなかの慧眼けいがんじゃないかっ!」



そこで誰が聞いても丸わかりな虚勢に胸を張っていたのは、中庭で見たきりだった勇者アーク、その男だった。




──冥界の門が開くまで、あと19秒。

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