「んじゃあ、行ってくるわ。イザベル、後は任せたぜ?」
私の顔を見て、いつものように軽く笑みを浮かべたアベルが言う。その顔には、余計な緊張も恐怖も浮かんでいないように見えた。いつも通りの表情。そのことに安心するべきなのか、それとも不安を抱くべきなのか、私には結局判断が付かなかった。
「余計なお世話でしょうけど、無駄死にだけはしないでね」
「おう」
私の言葉に軽く後ろ手に手を上げて応え、アベルがボス部屋へと入っていった。その足取りもいつも通り、平静のものだった。とても、これから色違いボスに挑む狂人の姿には見えなかった。
「だい、じょうぶ……?」
リディが私のスカートを二度引っ張って尋ねてくる。
「大丈夫よ。きっと……」
私は、リディの白銀の頭を撫でて、自分にも言い聞かせるように言う。
アベルはあれでも認定レベル8の冒険者。レベル5ダンジョンのボス相当のモンスターだって、見飽きるほど見てきたでしょう。アベルはそれじゃなくても慎重派だ。そんな彼が言うのだから、相応の勝率はあるはず……。
「………」
私は、いつもよりも固い気がする唾を飲み込んで、無言でアベルの後姿を見つめることしかできなかった。
アベルからは、なにかあった時のために、一時的にリーダー権限を譲渡されている。よっぽどじゃない限りするつもりは無いけれど、いざという時は、アベルを見捨てて逃げる選択肢も取らなければいけない立場だ。
そのことが、余計に私の身体を固くする。
私の判断に五人もの命が懸かっているかと思うと、緊張で吐きそうだった。
「しくじらないでよ……」
私だって、そんな後味の悪い選択なんて取りたくはない。たまに口を滑らせる時は閉口するけれど、アベルは根は善人なのだと思う。少し口が悪いのと、デリカシーが足りないだけ。
私だって、今の環境が恵まれていることには気が付いている。いくらお金持ちだからって、かわいい姪の友だちだからって、普通は装備一式を買い与えたりなんてしない。
この一事をもってしても、アベルが底抜けの善人だと分かる。
私がアベルに、つい憎まれ口を吐いてしまうのは、こんな善人が存在していることが信じられなくて、本当にアベルが善人なのか、確認するためにやっていたのかもしれない。
でも、アベルは私がいくら生意気な口をきいても、真摯に向き合ってくれた。その口調は、お世辞にも綺麗とは言えないぶっきらぼうなものだけど、根は真面目なのかもしれない。
アベルなら、多少の信頼を置いてもいいかもしれない。少なくとも、女と見れば値段を訊いてくる獣たちよりよっぽどマシだ。
たまに胸元に視線を感じるけど、直接手を伸ばしてこないだけアベルは紳士と言ってもいいだろう。
今まで、ロクな男たちを知らなかった私が、初めて信頼してもいいと思える男性。
そんなアベルの言葉だから信じてみたい。だけど、今回は相手が悪すぎる。
レベル3ダンジョン『白狼の森林』。そのボスである白狼の色違い。
アベルの言葉を信じるのなら、レベル5ダンジョンのボスほどの強さらしい。悔しいけれど、今の私たちには手も足も出ない相手でしょう。そんなボス相手に単身で挑むなんて正気の沙汰じゃない。
少し前までは、自分には戦闘能力は無いと自分を卑下していたのに、今のアベルはまるでそんなことが嘘のように強気だ。
自信というものを一切無くしていたアベルが、自信を取り戻したのなら嬉しい。でも、まさか彼にはないと思うけど、彼の新たに得たスキル“ショット”の力に溺れている可能性もある。
十分に注視しないといけない。
アベルが、背中に自信を漲らせて緑の絨毯を闊歩する。
アベルはもう既にボス部屋へと侵入している。ボスである黒狼と、その取り巻きの五体の白銀のオオカミが、ゆったりと体を起こした。
「GRRRRRRRRRRRRRRRRRRR!」
「AHOOOOOOOOOOOOOOOOOON!」
もう完全にアベルは黒狼たちに補足されていた。もう後戻りはできない。
威嚇するように唸るオオカミたち。その姿は、アベルにも視認できているだろう。だというのに、アベルは歩みを止めない。緊張した様子も見せず、相変わらず風を切るように緑の絨毯を闊歩していく。
「AHOOOOOOOOOOOOOOOON!」
「WHANWHAN!」
ついに、黒狼の取り巻きのオオカミたちが、弾かれたようにアベルに向かって駆け出す。
『白狼の森林』に潜り続けて今日で五日。私たちは、オオカミたちが一筋縄ではいかないことをよく知っている。
オオカミたちは、『ゴブリンの巣穴』に居たゴブリンたちのようにバカではない。オオカミという獣の性がそうさせるのか、『白狼の森林』に現れるオオカミは、高度な戦術を使う森の狩人だ。
とはいえ――――。
ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダッ!!!
森林に満ちた深い静寂を切り裂いて、まるでなにかが爆発したかのような音が連続で響き渡る。アベルの新たなスキル“ショット”だ。
激しい連続音が鳴りやんだ時、五体も居たオオカミの姿はどこにも居なかった。ただ、白煙が舞うのみ。
ここまでは予想通り。でも、ここからが本番だ。
「GRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR!!!」
アベルの背中の向こうには、黒狼が忌々し気に低く唸っていた。