営業時間が終わった喫茶倶楽部店内のカウンター席で、紫帆さん、そして瀬川さんに挟まれた状態で、三人で紫帆さん手作りのナポリタンを食べている。
これはどういう状況だ? 二人がなんらかの知り合いであるということはわかった。かなり親しい仲なのだろう。でも、だったら、なぜお互い隣で座らない。なぜ俺を間に挟むんだ?
「でも、高峰くんが透花と知り合いだったとは知らなかった。あっ、でもそうか。透花、マンガの編集者だもんね」
「わたしのほうこそ、高峰先生が紫帆の店でバイトしてるってのは知らなかった」
「えっ、じゃあ、透花が高峰くんの担当編集なの?」
紫帆さんにそう訊かれた瀬川さんだったが、瀬川さんは黙ったままじっと俺のほうを見ていた。なんか圧が強い。
「はい、そうです……」
結局俺が言うハメになってしまった。瀬川さん、俺の担当なのか訊かれて急に黙ったままになったけど、なんか怒ってる? いや、怒ってるのかな? でもそうだろうな。俺が全然ネームを上げてこないから……。
瀬川さんの怒っている様子を想像して、独りビクビクしていると、それと打って変わって、紫帆さんが優しい微笑みを見せてくれる。
「ごめんね、高峰くん。透花が担当で大変でしょ? わたしと透花、高校大学の同級生なんだけど、昔っからホントぶっきらぼうでね、しかも文学かぶれだから理屈っぽいのよ。社会人になってから少しはマシになったと思ったんだけど」
「文学かぶれで理屈っぽく、おまけにぶっきらぼうで悪かったね。それよりさあ、なんかコーヒー出してもらえる? わたし、客なんだからさあ」
「もう営業時間は過ぎてるのですが、お客様」
「悪口言われたんだから、大目に見てよ。それにさっきまでの会話録音してるから、言うこと聞かなきゃ名誉毀損で訴えるから」
そう言いながら、瀬川さんはスマホを片手に録音アプリの画面を紫帆さんに見せる。
「わかったわかった。入れてあげるから、ちょっと待ってて」
紫帆さんはそう言うと、早速コーヒーを入れるのに取り掛かる。なんか紫帆さんは毎度のことのような感じで受け答えしてたけど、瀬川さん、録音してたんだよな? ってか、録音してたのかよ⁉︎ うわっ、むっちゃこえ〜わ。
「どうぞ」
紫帆さんが小さな白いカップに注いだコーヒーをカウンターに置くと、瀬川さんは早速コーヒーを啜り出す。
やっぱきれいだよな。瀬川さんの横顔を見ながら、俺はつくづくそう思った。瀬川さんと紫帆さん。二人は高校からの同級生で、多分とても仲がいいんだろう。こんな美女二人がいる学校だったら、俺も通ってみたかったな。でも、それにしても、二人とも美人とはいえ、対照的な二人だよな。あまりに雰囲気や性格が違うのに、なんでこの二人仲良くなったんだろう? あれ、そう思えば、俺なんで瀬川さんのことは苗字読みで、紫帆さんのことは下の名前で呼んでんだろう? 紫帆さんに対して、確か実際名前で呼んだことはなかったはず。心の声で言ってるだけだ。え〜と、俺、紫帆さんに対して、今までなんて呼んでたんだっけ?
「高峰くん、コーヒーどうぞ」
俺があれこれ頭の中で考えている間に、紫帆さんがコーヒーを作ってくれていたようだ。いやあ、まさにご聖母様。ダ・ヴィンチ、いやレオナルドと呼ぶのがホントは正しいのか。いやいや、そんなことではなく、ダ・ヴィンチなのか、レオナルドとかいった奴が描いたものより、コーヒーを出してくれる紫帆さんのまさにこの微笑みのほうが、よっぽど、いや確実に美しい。
「ナポリタンもそうですが、やっぱりこのコーヒー、食後のコーヒーって感じですごく合ってて、美味しいです。今までで一番美味しいかも」
「良かった、そう言ってもらえて。高峰くんってさあ、やっぱあんまり苦味の強いコーヒーは得意じゃなかったりする?」
「あっ、そうですね。どうだろう。まあ、確かに、ほとんどインスタントですけど、あんまり入れない……かもですね。喫茶店とかのときも、大抵アメリカン頼むことが多いですし」
「やっぱそうか。今まで何杯かコーヒー飲んでもらったけど、実はアメリカン、ヨーロピアン、ブレンドと、いろいろ試してみたの。で、高峰くんが飲んでるときの反応見たら、ヨーロピアンのときはちょっと顔をしかめてたのに対して、アメリカンのほうは随分飲みやすそうにしてたから」
「あっそうなんですか。全然気がつきませんでしたよ」
「で、今二人が飲んでるのは、この店特製のブレンドね。ここのお客さんに限ったことではないと思うけど、いや、限ったことなのかな、まあそれで、お客さんの大半があまり苦味の強いコーヒーは頼まない傾向があったから、それを考えて、この店でしか飲めないブレンドコーヒーを作ろうと思って、アメリカンのように苦味が強くなく飲みやすく、だけど深みもあるっての目指して作ってみたんだけど、正直どうなるか不安だったの。でも、お客さんも好んで注文してくれるようになったし、それに高峰くんが美味しいって言ってくれたのもあって、作って本当に良かったと思ってる」
「いえいえ、こちらこそ、ここでバイト雇ってもらったこと、そして美味しい賄いやコーヒー入れてもらえて、ぼくのほうこそ本当に良かったと思ってます。感謝してます」
「なんかそんなに言われると、照れちゃうな」
紫帆さんはそう言うと、少しはにかんだ表情を見せる……可愛い。
「あの、ところで、さっきぼく、ぼくが顔しかめてたって話してましたけど、そんなに顔に出てました?」
「別にそんなに顔には出てないと思うよ。ただ、わたしの場合、職業柄、人の表情とか細かく気にしちゃうとこあるから、そういうの人一倍敏感なの。まあ、職業病ってやつ。でも安心して、誰かさんのようなはっきりしたしかめっつらってわけじゃないんだから」
「その誰かさんってわたしのこと?」
隣に視線を移すと、瀬川さんが僕らに鋭い視線を浴びせる。怒った表情ではないものの、でもこれ完全に怒ってるよな? もう、怖すぎなんですけど!
「別に透花だって言ってないけど」
「そんなこと言って、それ完全にわたしに対してのディスでしょ」
「ちょっと自意識過剰過ぎない? 透花そんなんだからさあ、彼氏の一人や二人も出来ないんじゃないの?」
「余計なお世話。彼氏とか結婚とかなどの恋愛事の類いは、結局縁の問題だと思うから、自分でどうこう出来ることじゃないと思うの。それに、付き合ってるとか付き合ってないとか、恋愛が当たり前って価値観があまりに古過ぎ。多様性って言葉が言われてる今現在に、紫帆みたいな考え方してる人がいるから、ちっとも世の中よくならないんじゃないの?」
瀬川は決して感情的にならず、クールに反論した。えっ、もしかして、喧嘩になってる? これってマズいんじゃないの? 俺が独り心の中であたふたしてると、紫帆さんはそんな瀬川さんに優しく微笑んでこう言う。
「そうね。確かに恋愛ってのは巡り合いだものね。それに今は恋愛しない人も増えているって言うし、リアルに恋愛してる人のほうがかなりの少数派になってるのかも。だからといって、みんな恋愛に関心が全くないってわけではないだろうし、だからこそ、マンガやアニメの恋愛ジャンルが人気になってるんだろうし、みんな創りものの中だけで恋愛に満足しちゃってるのが現状なのかもしれないね」
なるほど、マンガやアニメの恋愛ジャンルが前々から人気なのはもちろん知っていたが、こういった背景があるとはあまり考えていなかった。マンガ描くうえでもとても参考になる話だな。
「透花、ごめんね。人の恋愛観押し付けちゃって。恋愛なんて個人の自由なのにね」
紫帆さんがそう言って謝ったのだが、瀬川さんの表情は変わらないまま、相変わらずクールだ。
「だったら、これ、紫帆の奢りでいいよね?」
と、紫帆さんに向かって、一瞬眼鏡から強い光を放つと、瀬川さんはクールにそう言った。
「わかった。じゃあ奢りにするから」
「奢ってくれるんだったらさあ、もう少しなんか食べさせてくれない? わたし、まだお腹空いてるんだけど」
「これ以上はお店の奢りにしないけど」
「いいじゃない。わたし昔っからここの太客なんだからさあ」
「太客って、ホストやキャバクラじゃないんだから」
「だってここに来る男たち、大抵紫帆目的でしょ? そう考えたら、喫茶店と名前はついてるけど、実質キャバクラじゃん」
「そんなことないと思うけど」
「いやあ、またそんなこと言って。ホントは自覚あるんでしょ? なんかそういうところが鼻につくんだよね」
「わかったわかった。じゃあ、他になんか作ってあげるから」
「それじゃあ後、お酒あるでしょ? お酒合うのにしてよ」
「うち喫茶店だよ」
「そうじゃなくて、営業時間終わった後用のあれよ。ほら、仕事仲間で一緒に飲むように、ボトル用意してるでしょ?」
「ホントこの娘は……わかった。じゃあ、準備するから、少し待ってて」
紫帆さんがどうやら折れたようだ。瀬川さん、アンタ、結構図々しいんだな、おい……。
俺が心の中で汗をかいた笑顔の絵文字状態の表情で、瀬川さんの横顔を数秒程度見つめていたが、突如俺の側頭部に黒い影が入り込んだことに気がつく。
「高峰くんって、お酒飲めるんだっけ? 飲めるんだったら、一緒に飲もう」
横に顔を向けると、何やらお酒のボトルを俺の側頭部付近まで近づけ、そして微笑んでいる紫帆さんの姿がそこにあった。
それからというもの、紫帆さんと瀬川さんは次々とボトルを開けていき、グラスに注いでは次々と飲み干す。俺のほうはというと、まず第一にお酒についてあまり詳しくないのもあってか、なんの酒を飲んでいるのか事態よくわからない状態だった。しかも、かなり強い酒だったみたいで、俺は最初の数杯飲むのがやっとで、後はお水を頂いてこの場をやり過ごそうとしていた。のだが……。
「ねえ、聞いて聞いて。この新人漫画家のコイツがさあ、全然ネーム描いてこないわけよ。わたし、今までいろんな漫画家の編集担当してきたけど、こんなにネーム催促しても描いてこないの、コイツが初めてなの。信じられる⁉︎ ありえないでしょ⁉︎」
コイツ?……コイツ呼ばわりかよ。
「それにさあ、なんか恋愛もの描きたいからって、わたしとデートしてくれって言ったの、コイツ。絶対下心あるよね。まあ、こんな明らかに非モテで童貞だったら、当然恋愛経験なんてないのは当たり前だろうし、でも、そこはさあ、アンタ仮にも漫画家でしょ! そこは自分のイマジネーションやら想像力でなんとか描いてみなさいよ! そんなんだから、アンタは童貞のままなの!」
とまあ、瀬川さんは酒に酔った勢いで、俺に指を差しながら口走る。
悪い予感はしてたけど、瀬川さん、まさかここまで酒癖が悪いとは思わなかった。まあ確かに、俺は非モテだし童貞ですよ。多少は下心もあったのかもしれない。でも、想像力がないから童貞のままだってのは違うでしょ。
瀬川さんが酒に酔った勢いで、俺に不満をぶつけている様を傍から見ていた紫帆さんは、堪えきれなかったのか、声を出して笑い始めた。
「ははははっ、また始まったよ。ごめんね、高峰くん。透花、ここまで酒癖悪いと思わなかったでしょ? この娘、普段はクールな感じで装ってるけど、元々凄い怒りっぽい性格なんだから。付き合ってると大変だよ」
紫帆さんの言ったことを聞いたのか、瀬川さんは一瞬眼鏡から強い光を放ち、そして鋭い視線を紫帆さんへと向ける。
「怒りっぽくて悪かったね。でもね、わたしからすれば、約束を守らないコイツのことのほうが、あまりに非常識過ぎると思うの。よくよく考えてみて。社会人になって仕事してて約束守らない人どう思う? 普通にありえないでしょ!」
それは……確かにそうかも……いやあ、そう言われると、むっちゃ胸が痛い。でも、締め切り守らない漫画家の話って、結構聞くからさあ、たとえば漫画の神様のあの方とか、そう考えると、新人なんだから少しは大目に見て欲しいって気持ちも正直ある。だけど、やっぱ胸が痛い。そして、最初に飲んだ酒と瀬川さんに文句言われてるせいで、なんか頭が痛くなってきたな。体調悪くなったから、もう帰らせてもらいますって、言いたい。でも、この感じだと、瀬川さん帰らせてくれなさそう。ああ、どうしよう?
「ねえ、紫帆からも言ってよ。漫画家の先輩としてさあ」
漫画家? 今の聞き間違い、いや言い間違いか?
「それは昔の話。今はただの喫茶店で働いてるただのおばさん」
それは昔の話って、えっ、紫帆さん漫画家だったの! 初耳だ。
「またそんな謙遜しちゃって。美麗な絵を武器に、少女マンガと青年マンガで人気を博した三島紫帆大先生のくせに、そういうところが、やっぱ鼻につくんだよね」
「美麗な絵って、わたしより絵の上手い人はたくさんいるし、それにわたし数年前からマンガどころか落書き一つでさえ描いてないんだから」
「別に完全に引退したわけじゃないでしょ?」
「……んまあ、はっきり引退したわけではないけど、一度ペンを取るのやめてしまったら、どうしても描けなくってね……」
紫帆さんはそう言うと、少し落ち込んでるような様子を見せる。表向きは微笑んだ表情を貫いているが、なんか声がトーンダウンしてるっていうか、最後のほうとか、やっぱ声に翳りを感じさせるというか、どうしても今までの紫帆さんの喋る声と比べて、元気のなさを感じてしまう。
……それにしても、紫帆さん漫画家……三島紫帆、あっ! ああ、三島紫帆。あの三島紫帆なのか⁉︎ 俺もそんな詳しくはないけど、瀬川さんが言うとおり、少女漫画青年漫画の世界で、その名前は俺もよく目にした。数年前はホントによく名前が出てくるほど人気だったもんな。確か『文学少女は◯◯』あれっ、タイトルなんだっけ? 確かそんなタイトルの少女漫画を読んだ記憶がある。文学少女の女子高生の日常や世の中のことにおける不満を打ち明ける内容だ。よくよく思えば、この主人公、瀬川さんがモデルじゃないのか? いや、絶対そうだ。
「何弱気になってんの! アンタさあ、いつもそうだよね。いつも弱腰になる。わたしと違って、アンタ才能あるんだからさあ、自分の好きなこと迷わず突っ走ればいいの。アンタこそ、昔っから変わらないじゃない」
とまあ、指を差す代わりに、フォークを使って指差す仕草をした。そのときのせいか、ナポリタンのソースが少し飛び散り、俺の顔にかかってしまう。
「才能ないのに漫画家目指そうなんて考えてるバカが山のようにいるのに、才能のあるアンタが漫画描くのやめたらダメでしょ! それはアンタの描くマンガを心待ちにしてる読者、アンタのマンガに影響受けて漫画家志したみんなにとってもそうだし、そして何より漫画家目指して漫画家になる夢叶えた自分自身に対して失礼だよ、紫帆。紫帆、アンタだってホントはまたマンガ描きたいんでしょ? そして、そんなアンタの姿を見るのを、わたしは待ってる。だって、アンタの描いたマンガの一番の読者はわたしだよ。漫画家にもなってない昔のアンタの頃から、わたしはアンタのマンガを読んできて、いいなあと思ってたの。ぶっきらぼうで感じの悪いこんなわたしがここまで言ってるんだからさあ、また描きなよ。もったいないよ」
瀬川さんはそう言うと、再びグラスに注いだ酒を一気に飲み干す。酒に酔った勢いとはいえ、瀬川さん、こんなに熱い人だったのか? いやあ、これが素の瀬川さんだとすると、ホントは熱い想いを秘めてる人だったんだな。
「そうね。また描いてもいいかもね」
紫帆さんは微笑んだ顔でそう言いながら、グラスに入った酒に口をつけた。
あれからしばらく時間が経つと、瀬川さんは両腕を下敷きにすやすや眠りについていた。そんな瀬川さんを紫帆さんは微笑んだ顔で見つめている。
「ねえ、高峰くん、どうか透花のこと嫌いにならないでくれる。この娘、口は悪いけど、根は悪い娘ではないからさあ」
そんな紫帆さんの言葉を聞きながら、俺は瀬川さんの横顔を見ている。眼鏡を外した寝顔、気持ちよさそうに寝ているその顔、やっぱきれいだ。
「この娘、ホント真面目だからさあ、だから真面目に頑張ってない人見ると、許せないんだと思う。特に才能があるのに頑張らない人見ると」
紫帆さんは一旦言葉を終えたが、俺は黙ったまま、紫帆さんの次の言葉を待った。
「この娘のおかげなの。わたしが漫画家になれたの。高峰くんはわたしのことどんな風に見えてるのか知らないけど、わたし、みんなが思ってるよりも内気な性格でね、でも、ぼっちだったわけじゃないよ。だけど、なんて言えばいいんだろう。あっそうそう、なんかこう本当の自分は出せずに、周りに合わせるような、周りから求められるような自分を演じ続けるような、そんな学生時代を過ごしてたんだと思う。わたし小さい頃からマンガ好きでさあ、よく少女マンガとか少し背伸びして青年マンガとか読んでてさあ、あっそうそう、元々祖父がマンガ好きな人で、ここに来てよくマンガ読ませてくれたの。そうして次第に中学生ぐらいの頃かな、漠然と漫画家目指すようになって、高校入る頃にはもう本格的にマンガ描き始めてかな。賞とか応募するやつようにね……」
紫帆さんは一旦一呼吸おいて、グラスに残ったお酒を一口飲んだ。このときの紫帆さんの表情は、懐かしい気持ちから来る哀愁と気恥ずかしさ、その両方が垣間見えるような表情をしていた。
「……でもね、マンガ描いてることは、誰にも言えなかったの。もちろん親も知らないし、大好きなおじいちゃんにも……あれだけ頑張って描いてたのに、賞にも掠りもしなくてね、十代で漫画家デビュー出来なかったら才能ないんだろうなって思い、わたし焦ってた……そりゃあ十代で漫画家デビューって早過ぎでしょって、傍から見れば思うかもしれないけど、少女マンガ読んでたからさあ、わたし。高峰くんももしかしたら知ってるかもしれないけど、少女漫画家のデビューって平均十代なんだよね。もちろん遅咲きの人もいるけど、だいたいみんな十代でデビューしてる。少女マンガの月刊誌って、だいたい毎月公募出してるから、才能ある人はわりと早くデビュー出来るルートではあるの。漫画界の世界においては。わたしもほぼ毎月出してたんだけどね、佳作にさえ引っかからず、編集部からの感想とか読むとダメ出しのところが目に留まってさあ、凹んだなあ。高校に入ってから毎月出してたんだけどね、成果は全く出ないし、同じ公募に出してる同世代の人が次々とデビュー、それどころか中学生とかさらに下の子たちがデビューしてるところ見てたせいなのか、まだマンガ、賞に出し始めて一年ぐらいしか経ってなかったんだけど、漫画家なるの諦めようとしてた……」
また一口お酒を飲んで、一呼吸おく。
「……で、それで一年が経とうとしてたちょうどそのとき、ってちょうど学年が上がってわたしが高校二年になったとき、ちょうどクラス替えでね、そのときに初めて透花と同じクラスになったの」
また一呼吸おいているが、今度はなんだか思い出し笑いをしているかのように微笑んでいる。
「透花のことは高校入ってからもちろん知ってたけど、それまでは同じクラスではなかったし、よくは知らなかったの。もちろん他の子からどんな娘かって話は聞かされてたけど、間近でどんな人かってのは全然知らなかった。ねえ、高峰くん。あの頃の透花って、どんな娘だったと思う?」
「えっ、え〜と、どうだろう。あの、ぼくはまず瀬川さんのイメージって、クールな印象しか受けなかったんですが、じゃあ極度な人見知りとか」
そう言うと、紫帆さんは思わず声をあげて笑った。
「ははははっ、極度な人見知り? そんな玉じゃないよ、透花は。だってさあ、もう、相手が誰でもあれ、思ったことは豪速球のストレートで言い放つあの気迫は、本当に凄かった。おまけに曲がったことは嫌いだし、だから、不真面目な同級生、サボってる同級生、ズルしてる同級生、不良な同級生、誰彼構わず正論を言い放った。口論になっても知識と論理で追い詰めていって、相手を屈服させてしまう。相手が不良で手をあげそうになったり、相手が特に怖い先生だったとしても、それでも怯まず凄い気迫で相手を論破して屈服させてたとこ傍から見てたから、まあそれは本当に凄いもんだったよ」
ははははっ、なんか、今だと想像出来ちゃうな。
「後は相手を説得したり論破する最中に、自分の読んだ本の引用とか交えたりするの。そのとき、きみたちも少し本を読めとか、おすすめの本を紹介とか力説したりとかしててさあ、もうホント決め台詞みたいに吐いてて、あまりに非現実敵だったけど、でも……」
ここで紫帆さんは、また一呼吸おく。だがその顔は、なんだかいつもの微笑みとは違って、心の底から笑ってるような、そんな顔になっていた。
「でも、カッコよかったなあ。わたしだけじゃなく、そんな透花のことどこかカッコいいと思ってた子も多かったと思うんだけど、あまりに個性の強いキャラのせいでね、みんなどうしても自分から透花のところまで近づくことは出来なかったの。わたしも含めて。そうするうちに、あるとき、たまたま書店に立ち寄ってマンガの月刊誌と一緒にマンガ描くためのプロット作りの本買おうと手を伸ばしたら、ちょうど同じタイミングで透花が手を伸ばしててね、そこから透花と話すようになったの。実は透花も元々作家志望で小説の公募出してたから、わたしに凄く興味持たれてね。あの圧だから断れなくてね、最初は嫌々ながら話してたんだけど、ジャンルは違えど同じ物語作ることに興味があるのは変わりないから、段々と意気投合するようになってね。そのせいもあってか、おじいちゃんがやってた喫茶店、つまりここね、ここに来て一緒に小説書いたりマンガ描いたりしてさあ、お互い意見やアイデア出したり、論評し合ったりしてたわけ。もうその頃には、透花のすすめでおじいちゃんにも打ち明けてたし、うちの母親にも打ち明けてた。わたし、母子家庭で育ったから、父親知らないの。そういう家庭で育ったから漫画家目指してるって言えなかったんだけど、透花に言えって言われて言ったら、意外と母さんが応援してくれて、それもあってかどんどん前向きになれたの。それと透花にこうしたらとかアドバイスとかもらいながら描いてたら、高校最後の夏に佳作に入選することが出来てね、まあそれで漫画家デビューすることが出来たの。で、透花のほうはというと、残念ながら作家デビューは叶わずだったみたいだけど、わたしにアドバイスとか応援したりしたのがきっかけでなんかやりがい感じたのか、わたしが大学卒業して漫画家として専念しようとしたちょうどそのタイミングで担当になった新人編集がまた透花だったりするわけで、この娘とはまあ、高校からの腐れ縁ってわけ。もちろんいい意味でね」
紫帆さんはグラスを片手に酒を一気に飲み干すが、飲み干した直後の顔に暗い翳が宿っていた。
「でも、ようやく漫画家として専念しようとしたそのタイミングで、わたしスランプからかマンガが描けなくなったの。そして、悪いことに、祖父が、おじいちゃんが体調を悪くしちゃってね、しばらく入院してたけど、半年もしないうちに亡くなっちゃったの。それが決定的だったのかな、大好きだったおじいちゃんが死んじゃったことで、マンガ描けないどころか、マンガ描く気力も無くなってしまった。そうしてまた半年ぐらい過ぎたあたりで、いよいよ自分の身の振り方考えないとなって思ったとき、ふと頭に浮かんだのは、大好きなおじいちゃん。おじいちゃんが作ってきたこの場所を失いたくない。そんな想いもあったし、何よりわたしマンガ描くこと以外、何も出来ないからさあ、だから、他に見てきたことあるのってここだけだったから、それもあってマンガ描く道をやめて、おじいちゃんの店を継ぐことにしたの。そして、今に至るわけ」
そう言うと、紫帆さんの瞳から薄ら流れ星のような輝きが見えたような気がした。
「透花、漫画家やめるわたし説得しに来るのかと思ってたけど、訳が訳なだけに、説得はして来なかった。それどころか、再びオープンした喫茶倶楽部の一番最初のお客さんとして来てくれてね。まあそうね、透花のいうところの太客になってくれたわけ。まあでも、時間見つけてまたマンガ描きなよってのは、ちょくちょく言ってくれるかな……うん、ホントはわたしだってマンガ描きたい。それにおじいちゃんも、亡くなる数日前、わたしに、店とか継がなくていいから、自分の好きなこと、マンガ描きなよって言ってくれたの。もうほとんど声出ないのに、無理して笑顔してさあ」
そう言うと紫帆さんは、腕で目元を擦る仕草を見せた。今まで語った内容とこの光景を見ていて、なんだか俺まで目頭が熱くなってきた。
俺まで思わず腕で目元を擦ろうとしたそのタイミングで、紫帆さんは目元を擦るのをやめると、顔を上に向けながら大きく息を吐いた。そして、何やら決心したかのように、俺のほうに顔を向けた。
「一番の読者からの要望だし、わたしもそろそろ腹を決めないといけないかな。ねえ、高峰くん」
紫帆さんはそう言うと、俺に向かって涙目になりながら微笑んでいた。その微笑みは、今まで見たどの紫帆さんよりも美しかった。心からの喜びと悲しみ、そして覚悟が伝わる、そんな顔をしていた。
俺はこのときの紫帆さんに心を奪われて見つめていたものの、その後、急に仕事が変わる事態になるとは、このときの俺はまだ想像していなかった。