初めて入った喫茶店で、美人マスターからコーヒーとチーズケーキをご馳走になったその翌日、再びこの喫茶店に訪れて履歴書を渡すと、十分もかからないうちに採用が決まった。それから1週間後、俺は正式にこの喫茶店でバイトを始めることになる。
喫茶店の名前は喫茶倶楽部。コーヒー、紅茶、軽食を専門に出す、アルコール類は一切出さない、純粋な喫茶店だ。そして、この大人びた魅力に溢れる美人なマスターは、
「今日も一緒に頑張りましょうね、高峰先生」
「先生はやめてくださいよ。今日も精一杯、頑張ります……」
紫帆さんが優しく微笑みながら、俺のことを先生と呼んでくれている。なぜ紫帆さんが俺のことを先生と呼んでいるかというと、履歴書に漫画家と書いたからだ。だがその実、二ヶ月前ほどにデビューしたばかりの新人で、新人賞で佳作を取った短編以外、その後、他の漫画は描いておらず世に出ていない、全く無名の存在である。そのことを思うと、堂々と漫画家だと名乗ってる自分自身に対してとても恥ずかしい気持ちでいっぱいだし、紫帆さんのあまりに優しく微笑んでいるあのきれいな顔を見ると、なおさら胸が痛い。
それと比べて、紫帆さんのコーヒーや紅茶を入れる姿は、惚れ惚れするぐらい様になっている。いや、様になっているは失礼か。だって、この喫茶店のマスターなのだから、当然紅茶やコーヒー入れることぐらい、当たり前に出来るだろう。だが、それにしても、傍目から見ていて、紫帆さんのカウンター越しでの仕事姿は、とても美しい。
その反面、俺はというと、当然のことながら紅茶やコーヒーの入れ方なんてわからないため、仕事内容はというと、もっぱら店内の掃除や買い出しだ。このバイトを始めて思うが、今までちゃんと家の掃除をしたことがあったのかと思うくらい、実際に仕事として掃除をすると大変だと気がつく。紫帆さんがいくら優しいからといって、掃除が行き届いていないところには、ちゃんと指摘されてやり直しをされるし、普段運動していない俺にとって、正直これはとてもきつい。また、普段の買い物でレシートをもらうことがほとんどないため、買い出しでうっかりレシートをもらい忘れないように、「レシートをもらい忘れるな!」と書かれたメモ用紙を手の甲に貼り付けもした。普段あまり外を出回らないせいか、周辺の地理にも疎いため、買い出しに行くためのスーパーや店までたどり着くのも、最初は一苦労だった。これも喫茶店での業務のほんの一部分と考えると、思った以上に喫茶店でのお仕事は大変なのだろう。
俺が買い出しを済ませたのち、店内の掃除を一通りやり終えたところ、カウンター越しの紫帆さんの仕事姿に目が映る。手作りのケーキなどは一通り焼き終えたみたいで、まだ開店前だが、ちょうど熱いコーヒーを入れているところだった。
「高峰くん、お疲れ様。今コーヒー入れたから、良かったらどうぞ。アメリカンで良かったんだよね?」
「あっはい、じゃあ、頂きます」
入れ立てのコーヒーを一口啜る。うん、いやあ、程よい苦味と濃さで、なんとも美味い。苦過ぎないから、思わずスッと飲みやすいが、味自体、まあコーヒーについては正直全く詳しくはないけれど、それでもなんというのだろう、奥の深い味だというのはなんとなくわかるので、香りを楽しみながらゆっくり飲むことを心がけていた。
「いやあ、最初に飲んだときと同じで、うん、美味しいです」
「良かった」
紫帆さんはそう言うと、優しく微笑んだ。その顔を見るたびに、ああ、生きてて良かった、そう思える自分がいることに気がつく。
「あっあと、また試作ちょっと作ってみたんだけど、良かったら食べてもらえる?」
紫帆さんはそう言うと、皿に乗せたタルトを持ってきて、小皿に一口サイズに切り分けてくれた。見た目は普通のチーズタルトと変わらない。紫帆さんは俺が買い出しや掃除をしている間に、メニューのケーキなどを焼くのと同時に、こういう試作品を作ったりなどしているみたいだ。
「あっ、じゃあ、早速頂きます」
小さなフォークで早速口へと運ぶ。うん⁉︎ これは……。チーズタルトだと思い口に運んだものの、いざ口の中に入ると、甘さはほとんど感じられるず、チーズとお肉のジューシーさしつこくない濃厚さが一気に広がった。
「こ、これは……」
「普通のタルトだとあれだし、甘いのが苦手な人もいるかと思って、鶏肉のタルトにしたの。どう?」
いや、また予想を裏切られるぐらい、率直に言って、とても美味しい。
「美味いですよ、これ。ああ、鶏肉なのか……」
「喜んでもらえて良かった。で、これメニューに出せそう?」
「いえ、全然出せますよ。普通に美味かったですから。お客さんみんな、喜んで食べるんじゃないですか。人気メニューなると思いますよ」
「良かったあ〜、じゃあ、早速メニューに追加しよう」
紫帆さんは両手で胸に触れて、ホッとした表情を見せる。そこから察するに、試作品を作ったり、客に喜んでもらえる料理を作るのは、ほんと一苦労なんだろうなというのが
「でも、もし新メニューとして出してお客さんから不評だったら、それ高峰くんのせいだからね」
「いや、それは、どうか勘弁してください。料理もそうだし、食に関しても素人なんですから」
「冗談冗談。高峰くんが喜んで食べてる姿見たら、なんだか安心した。大丈夫。必ずお客さんに喜んでもらえるから」
そう言って、紫帆さんは心の底から笑っているような顔を見せた。だが、俺のような根が臆病な性格の立場の人間から見ると、なんだか強がってるというか、自分自身に対して無理して元気づけているように見える。この若さで独り喫茶店を切り盛りするのは、とても苦労の多いことだろうし、不安に感じることも多いのだろう。見てて、なんかつらいというか、俺がなんか支えてやらなければ、そう思わせる笑顔であった。でも、こんなヘタレな俺が、紫帆さんのこと支えてやれるのかは、全くもって疑問である。それに俺の考え過ぎってこともありうるわけで、つまりは完全に誤解で、実はかなりタフな女性というのも考えられる。なんせ、俺が来るまでの間、喫茶店を独りで切り盛りしてるわけだし、いや、俺の前にバイト、確かいたよな? いや、それ以前に、何俺こんなにいろいろ考えてんだろう?
「では、もうそろそろお店開ける時間だから、今までのは予行練習。これから本番だから、今日も一緒に頑張りましょ、高峰先生」
紫帆さんは微笑みながらそう言うと、早速お店のドアを開けた。
紫帆さんのお店。この喫茶倶楽部の営業時間は午前十一時から午後七時まで。一応店名に喫茶店は入っているものの、喫茶店営業許可だけでなく、飲食店営業許可を取っているため、店内で調理した料理を出すのはもちろんのこと、アルコール類を出すことも可能なようだ。この喫茶倶楽部ではもちろんお酒は出していないが、喫茶倶楽部という店名で店内で調理した料理を出しているところから、警察だったか保健所だったか、突然立ち入り検査をされたらしく、そのときはいろいろ説明するなど大変だったようだ。だがそれは昔の話で、今は喫茶店を開業するうえで飲食店営業許可が必須となっているため、喫茶と店名に名前がついているだけで、このような誤解が生まれることも無くなったようだと、紫帆さんからそう聞かされていた。
営業時間になってから正午過ぎまでは、片手で数えられる程度しかお客さんが来なかったものな、午後になると徐々にお客さんが増え出し、店内はほとんど満席となった。
女性客や学生もいるが、明らかに中年以上の男性客が多く、この客層は明らかにカウンター席が空いていればそこに座り、空いていなければ、出来る限りカウンターに近い席へと順に座っていく。
カウンター席の客は紫帆さんが担当して、それ以外のほとんどの席は俺が接客を担当する。伝票を書いて注文を紫帆さんに知らせると、早速紫帆さんが華麗に優雅に、そして素早く、種類ごとに紅茶やコーヒーを入れていく。俺はそれをお客さんごとに、軽食なども合わせて、テーブルのところまで持っていく。
「え〜と、あっそうそう、お待たせしました。また何かご注文があれば、お呼びください。え、え〜と、ごゆっくり、どうぞ……」
俺はぎこちないながらもなんとか言ったところ、どの客もそんな俺の様子は気にしないといわんばかりか、目もくれずコーヒーやら紅茶を啜り出す。俺はその度に、カウンターのほうへと振り返る。
カウンター越しから紅茶やコーヒー、軽食をお客さんに渡す紫帆さん。どの客も紫帆さんから両手でカップや皿を受け取るばかりか、どの客も笑顔になっている。そればかりか、紫帆さんと何やら雑談しながら、お互い笑顔になってる光景が、俺の目に焼きついた。
ああ、そりゃあそうだよな。恐らくここの客の大半が、紫帆さん目的で来てるのはどう見ても明らかだ。あれだけきれいで落ち着きがあって、華麗に紅茶やコーヒーを注いでいる姿を見れば、大抵の男はまた来たくなるだろう。それだけでなく、コーヒーはもちろんのこと、料理もちゃんと美味いのだから、そりゃあまた来て当然だ。だけど、いくら客が多いからって、俺がバイトでいる必要は本当にあるのだろうか? 俺と紫帆さんとでのあまりに客の態度が違うところを見てると、どうしても自分があまりに惨めに思えて仕方ない。でも、それは本当に仕方ない。だって、俺は入ったばかりの未熟者だし、紫帆さんのような美貌なりルックスなどを持ち合わせていないのだから。
そう自分自身に対して落ち込みながらも、普通の喫茶店では珍しく、次々とメニューの注文をする客の対応にあたりながら、こぼさないよう、カップやお皿を割らないよう、内心ビクビクしながら
閉店時間の三十分ぐらい前になると、ようやく客の数も減ってきた。いや、恐らく、客自体はファミレスやファストフード店なんかと比べるとそこまで多くないんだろうが、一人の客が頼むメニューや注文の回数が多いため、どうしても仕事量が多いように感じてしまう。紫帆さんはなんともなさそうなのに仕事をこなしているが、俺はもう正直クタクタだ。いやあ、仕事は大変。
いや待て待て。これはあくまでバイトだ。俺の本業はなんといっても漫画家。つまり漫画を描かなければいけない人間。そういうお仕事を生業としている人間だ。本来は。だが、この程度のバイトでクタクタになってる程度では、ホント先が思いやられる。俺は果たして漫画家としてやっていけるのだろうか。そして、近日中にはまた担当編集の瀬川さんから連絡があるだろう。ネームは描けたかって。それ訊かれるところ想像すると、なんか余計疲れてきた。さあ、どうしよう?
疲れてるせいからか、どうしてもネガティブなことばかり考えてしまう。新人漫画家という肩書きだけの実質ニートの状態から、やっとこの紫帆さんのお店でなんとか生活費を稼ぐ手立ては出来たのだから、もっと前向きに考えてもいいものなのだが……。
とまあ、なんて俺がクタクタな状態で心の中でぶつくさ不安を言っていると、閉店五分前の時間となっていた。最後に残っていたお客さんがお勘定を払って店のドアを開ける様子を見ると、紫帆さんも肩の荷が下りたのか、俺にも聞こえる程度に大きく息を吐いた。
「今ので最後のお客さんかな。高峰くん、今日もお疲れ様。いや、まだ後片付けとか残ってるけど、お腹空いたでしょ? なんか簡単なもの作るから、そこ座ってて」
紫帆さんは微笑みながらそう言うと、シャツの袖を捲って、皿を取り出すなど、
だがしかし、紫帆さんが賄いに取り掛かるまさにそのときに、お店のドアが開く音がした。俺はその音を聞いて、直ぐ様振り返る。すると、眼鏡をかけたクールな雰囲気を醸し出すきれいな女の人が、お店のドアの前に立っていた。いや、この雰囲気、どこかで見たような。俺は目を細めて相手の顔をよく見た。
よく見ると、それは俺の知ってる顔だ。担当編集の瀬川さんだ。瀬川さん、なんでここに来てるんだ? いや来ても当然か。喫茶店に来ようと思ったら、誰でも来れるわけなのだから。でも、よりによって、なんで俺のバイト先に来るわけなの!
瀬川さんが急に目を細めてきた。眼鏡を手にかけながら、こっちをじっと見てる。睨まれてるのかな、これ。なんか、むっちゃ怖いんだけど……。
「……うん、あれ、もしかして、高峰先生?」
「あっ、はい……」
もう逃げられないよ。いや、まだ新人で食えないから、バイトしてるの当たり前なんだろうけど、あんまし俺がネーム描いてこないものだから、というより、この前の甘いもの地獄のせいで、怖い感情がドンと押し寄せてきてしまう。さあ、どうしよう?
「高峰くん、もしかしてお客さん来たの? もう営業時間過ぎたけど、もしおひとりだけなら、お出ししてあげましょ。お客さん、ご注文何されますか?」
先程まで背を向けていた紫帆さんはそう言いながら、カウンターのほうまで歩いてきた。そして、瀬川さんと顔を合わせる。
「じゃあご好意に甘えて。何か美味しいもの作ってくれない、紫帆」
「あれ?
そう言うと、紫帆さんは微笑んだ。これに応えるかのように、瀬川さんも優しく微笑む。美女二人が向かい合って微笑む光景はまさに美しい……って、待て待て。えっ⁉︎ この二人知り合いなの? ってどういう関係なの?
俺が二人の関係について、いろいろ頭の中で巡らせていたところ、気がつけば、二人の視線は俺のほうへと向いていた。