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一章

 私はあの夢を見てから、とても気分が良くなった。鬱屈うっくつした毎日とは別れを告げ、新しい自分として今日目覚めた。

 今朝の口付けもあって朋枝から距離を置かれたが、そんなことは気にもしない。今なら、なんだって出来そうな気がする。

 さあ、今日から、本当の私の物語が始まるのだ。誰にも操られないためにも、書くのは私だ。

 さて、何から始めようか。考えるまでもない。物語を書くのが好きなら作家になればいい。そのために夜中に書いていたのだから。

 しかし、作家になるためには、どうすればいいのだろうか。もちろん、出版社に持ち込むのが一番だろうが、以前何度か持ち込んだときに、ろくに読まれず突き返されてしまった。この頃から、私は物書きになろうという勇気が持てなくなってしまっていた。

 だが今なら、何度突き返されようが、へこたれないだろう。もちろん、良いものを書いた前提での話だが、それでも女学生という理由でろくに読まれないのは避けなければならない。ちゃんと読んでもらうには、どうすればいいだろうか。

 そんなこんな、学校の帰り道ひとりで歩きながらいろいろ考えていると、ふと私の前を歩く二人の男女に目が留まる。一人は背の高い髭を生やした軍人、そしてその腕を掴んで身体を引き寄せるドレスを着た若い女性。髭を生やしているところから見ても、なかなかの地位であると見える。

 私はこれを見て、思わずにやりとしてしまう。そうだった。男とは、こんなにも単純であったことに、なぜ気づかなかったのであろう。女を武器に男を惑わしてしまえばよいのだ。出版社の働いている大半は男たちだ。だからこそ、女を武器として上手く交渉すれば、私の小説が文芸誌に掲載されるかもしれない。

 だが果たして、私は男を手玉に取れるほど、魅力のある女であるのだろうか。こんな風に言うと自惚れだと言われかねないが、私自身、同じ学校の女生徒の中では、顔立ちが整っているほうだと思う。まあ、言い寄ってくる歳の近い男子もそれなりにはいるので、それは間違いないと思うのだが、それにしても、女好きの男なら誰もが魅了する、そんな女としての魅力を、私は備えているのだろうか。

 いや、悩んでも仕方がない。取り敢えずは試してみて、駄目なら他の方法で考えるまでだ。早速始めたいところだが、まずは女として、最低限度の振る舞いというものを身につける必要がある。だがそれは、学校で学ぶ女としての教育ではなく、男を手玉に取る女としての教養を。

 私はそれからというもの、学校が終わると街を歩き、女を連れ歩いている男を観察した。特に地位の高そうな男を的に絞り、どういった会話をしているだとか、怪しまれないように気をつけながら、あとをつけて観察するのだ。

 そして、家に帰れば、以前働いて貯めていた少ない金を使って貸本屋から本を借り、色恋ものの小説を読んで、学校帰りの観察と照らし合わせながら、男と女双方の心理や弱点を徹底的に研究していく。

 これをひと月ほど続けてみた私の結論を述べると、男の大半は私が想像した通り、単純だということである。つまりは、馬鹿だということだ。少しでも猫撫で声で甘えたり褒めたりすれば、男たちは途端に満足そうな笑みを浮かべ調子づく。それを本能的にやっているのか、意識的にやっているのかわからないが、女たちは顔に出さず上手く男に取り入っているように思える。

 しかし、男の中にも、なかなか手強い人物も少なからずいた。そういう者は身なりや振る舞いから、特に地位の高い者のように感じられる。軍人や巡査じゅんさなどがまさにそうだ。こういう力を持った立場にいる者は、女は意見をするなと言わんばかりな荒くれ者も少なくない。街中で皆が見ている前で女を引っ叩くところを見ると、決して気持ちの良いものではない。

 そう、女には権利がないのだ。結局のところ、女という生き物は男の奴隷みたいなものだ。いや、西洋でいうところの奴隷よりもタチが悪い。あるじが守ってくれないばかりか、酷ければ乱暴に扱い、身籠れば厄介者として最悪捨てられてしまう。

 男と女。このひとつの違いで、こんなにも生き方に違いが出る。そうだ。私はこんな世の中が嫌いなのだ。私は今まで自分の気持ちに正直ではなかった。今までの私は女としての生き方に、本当は嫌だが従ってた節があった。だがそれもお終いだ。こんな世の中のことなんか真っ向から否定して、男とか女とかそんな鳥籠から抜け出し、自由な生き方がしたい。

 しかし、私は女の身体を持って生を受けた。心持ちとしては男でも女でもなく、あくまで私なのだが、女として生まれたことは変えようがない。皆も私のことを女として見ているだろう。だからこそ、完全な自由な生き方が出来ないこともわかっている。でも少なくとも、ある程度自分の好きな生き方がしたい。女である以上、正攻法では駄目だ。そのためにも男を手玉に取る方法を学び、そして這い上がらなければ。

 そんなことをいろいろ考えながら、借りてきた小説を読みながらノートを取っていると、私の部屋に母が入ってきた。

「いすゞ、ちょっといいかい?」

「何?」

「あんた、卒業したら、この先どうするの?」

「どうするって……う〜ん、まだ決めてないけど」

「いすゞ、あんた、そんなんで本当に大丈夫なの? お友達とかみんな、今頃、働き場所見つけたり、お嫁に行くことが決まってたりしてるんじゃないの? あんた、そんなんで大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。学校での成績は一番だし、言い寄ってくる男もいるから、そんなに心配ないんじゃない」

「いすゞ、そんな甘いこと言ってたら駄目よ。女なんて、聞き分けが良くて価値あるものなんだから。少しは母さんの言うことも聞いて……」

 ああ、もう本当にめんどくさい。卒業まで半年もないこの時期、母は心配してか、時々こうやって私に話しかけてくる。お母さん、あなたの言うことはわかるよ。だからこそ、私は今まで勉強も頑張ってきた。でも、そんな私とはもうおさらば。あなたの願う理想の娘はもういないのよ。

「わかったよ、お母さん。そのためにも、ほら、こうやってお勉強してるのだから、邪魔しないでもらえる」

 こう言ったものの、母は立ち去る気配が無い。

「もう一度言うよ。ほら、邪魔だから、向こう行って! これじゃ、勉強出来ないんだから」

「あんた、進学する気なの? でも……」

「進学するしないにしても、学校の成績は重要でしょ? だから、ほら、向こう行って!」

 邪険な扱いをしたものの、母は相変わらず心配そうな表情をしている。だが母も、諦めたのか不服そうに部屋を出る。

 母が部屋を出た後、私はため息が出た。こうも心配されてしまえば、集中出来ない。いや、時間も残されていないのだろう。この先の身の振り方を決めなければ、恐らく先生にも近いうちに何か言われる。もうそろそろ、実行に移すしかないのだろう。

 私はノートに何やら書く素振りを見せ、顎に手を置いた。

 いや、いきなり実行に移すのは、いくらなんでも難しいものだろう。知識から得たものを理解するのと、実際に出来るかどうかは、また別の話だ。少なくとも、いくつか練習が必要だ。さあ、どうしたものか。

 その翌日、昨日の夜からずっと同じことを考えていた学校の帰り道、前を見ると朋枝の後ろ姿が見えた。私が玄関先で口付けをしてからというものの、私のことを避けて、全く話しかけてもこない。だからといって、私のことを周りにも言っていないようだ。

 朋枝の後ろ姿をじっと見ていると、私は何を思ったのか、朋枝の腕を引っ張り、人気ひとけのない神社へと連れて行く。

 朋枝は驚きながらも、私に抵抗することなく、ここまで来た。

「やあ、朋枝。久しぶり」

「なんのつもり? 久しぶりって、いつも学校で会ってるじゃない」

「学校では顔を合わせるけど、一緒に学校行ったり、話したりしなくなったからさあ」

 どことなく怯えた表情だ。恐らく警戒している。

「もしかして、あのとき、わたしが口付けしたことを気にしてる?」

 朋枝は黙ったまま、こちらを見ている。なんとなく、さっきよりも頬が赤く染まったように感じる。

「……どうしちゃったの?」

「うん?」

「どうしちゃったの⁉︎ いすゞ!」

「どうしたって……」

「だって、おかしいよ! どうしちゃったのいったい? 女同士で口付けするなんて。もしこんなことがバレたら、わたし、わたし、もうまともな暮らし送れないわ」

 朋枝は取り乱した様子で涙目になる。今の言葉の最後のほうから察するに、私のことを心配してるようで、実際のところ自分のことしか心配していないのだろう。わたし、わたし、と最後言ったところだ。そう思うと、なんだか腹も立ってくる。ここなら本来、彼女を落ち着かせるのが最善だが、私はなんだか悪戯したくなってきた。

 私は視線を逸らしている朋枝のそばに近寄ると、いきなり朋枝の頬に両手を当てて口付けをした。朋枝は最初とろけたような表情を見せるが、数秒後、私を後ろに突き飛ばす。

 私は倒れないように踏ん張ると、朋枝の顔を見る。恥ずかしさと恐怖で顔が完全に赤くなっていた。

 朋枝が私に背を向けて逃げようとしたが、私は急いで捕まえ背後から羽交い締めにした。抵抗されそうになったが、私は直ぐ様朋枝の耳許に息を吹きかける。すると、朋枝は身体を小刻みに震わせながらも、金縛りのような状態となり身動きが取れなくなった。私はそれをいいことに、服の上から胸など朋枝の身体の至るところを触っていく。私は優しく触りながらも、どこをどう触れば朋枝がどんな反応をするのか、じっくりと確かめていくのだ。

 朋枝の息がだんだんと荒くなっていく。もしかして、感じているのか。私はさらに追い討ちをかけるように、首筋を舌で舐めていく。舐めた瞬間、一瞬声を出して大きく身体を揺らした。ふふふ、可愛い反応だ。朋枝の身体が火照っていくのを肌で感じる。

 こうなってしまえば、もう私の意のままだ。ほうけた顔をしている朋枝の頬に両手をおいて、私は再び口付けをする。舌を絡ませて朋枝の温もりを感じ取っていく。

 ああ、いい香りだ。男と違って臭くない。男を知る前の処女として、程良い香りだ。

 口付けを終えて顔を離すと、朋枝はすっかりうっとりとした表情を見せた。この様子を見ると、実はかなりの好き者なのかもしれない。

「どうしたの、朋枝? そんなにうっとりした顔をして」

 朋枝は感じ過ぎたせいで、まだ息が荒く私の問いに上手く答えられないようだ。

「本当はこういうことするの、好きなのじゃなくて?」

 私はいかにも声色を変えて、台詞じみた喋り方をする。

「そんなことない……そんなことないわよ!」

「あらそう。じゃあ、なぜ途中から抵抗しなくなったの?」

「……」

「本当は好きなんじゃない? こういう、濡れ事みたいなの……」

 朋枝は顔を赤らめながら、顔を背けた。否定しないところを見ると、嫌いではないようだ。恐らくだが、多少は女同士の艶事というものにも興味があるのかもしれない。

 私はふと、いいことを思いつくと、思わずにやりと笑ってしまう。

「ねえ、朋枝……」

 私は朋枝の背後に立つと、両手をそっと肩の上においた。

「ねえ、朋枝。あなたさあ、確か、近いうちにお見合いするとかなんとか言ってなかったっけ?」

 私はそう問いかけたのだが、朋枝はまだだんまりを決め込む。私はそんな朋枝に再び耳許に息を吹きかける。すると、一瞬身体を大きく揺らした。

「ねえ、どうなの?」

 私の質問に、朋枝は声を震わせながらも、なんとか声を出そうとする。

「……もう、二回会ったわ……っで、明後日、また会うわ……正式にお付き合いするかどうかは、そのとき決める……」

「二回も会ったってことね。じゃ〜あ、もうこんなことや、あんなこと、したのかしら?」

「……こんなことや、あんなことって?」

「うふふふっ、わかってるくせに。さっきまでわたしたちがやってたことよ」

「えっ⁉︎ そんなこと、やってないわよ!」

「あらそう。じゃ〜あ、今度お相手と会うとき、わたしも一緒に行くから」

「えっ⁉︎」

「安心して、あなたのお相手と直接会うわけではないから」

「……」

「……ただね、あなたが今度お相手の殿方とお会いするときに、わたしの指示通り動いて欲しいのよ。わたしは隠れてその様子を見ててあげるからさ」

「えっ⁉︎ 指示通りって、あなた、何させる気なの?」

「安心して、悪いようにはしないわ。わたしはただ、女がどのように振る舞えば殿方を喜ばせることが出来るのか、それが知りたいだけなの」

「なんであなたの言うこと聞かなきゃなんないの! そんなの絶対いやよ!」

「別に断るなら断ってもいいけど、じゃあ、あなたとのこと、わたし他の人にも喋っちゃうけど、それでもいい?」

「えっ、それって⁉︎」

 私は再び朋枝の胸を服の上から弄る。耳許に息を吹きかけ、さらには、首筋を舐めて、私は朋枝の身体で嬌音きょうおんを奏でる。

「いすゞ、あなた正気じゃないわ! そんなことみんなに知られたら、もうまともな生活送れなくなるわよ。わかってるの?」

「うふふっ、わたしは至って正気よ。別にこんなことばれたって怖くはないわ。ね〜え、朋枝。そんなに色っぽいこと命令しないからさあ、少しはわたしの言うことも聞いてあげてよ。ほら、わたくしたち、お友達でしょ」

「お友達って……」

「えっ、ばらされたいの? ここにいる朋枝という娘は、お友達の少女と濡れ事を楽しんでいると」

「別に楽しんでなんか……」

「えっ? じゃあ、なんで、あんなにとろけたような顔してたのかしら? 朋枝にいきなり口付けされたって、みんなに言っちゃうけど」

「それはあなたが……」

「おだまり。もうそれ以上反抗的な態度を取ってたら、本当にみんなに言いふらしちゃうよ。あなたの性癖とか、嘘も交えながら大袈裟にいろいろとね……だからもう、あなたはわたしの言うことを聞くしか道はないのよ」

「そんなあ……」

 朋枝の絶望的な表情を横から見ると、私は思わず口許が緩んでしまった。なんて可愛いのだろう。友達をこうやって脅迫するのは傍から見れば最低だと思うが、使えるものだったらなんだって使う。それがたとえ私の学友であろうとも。

「じゃあいいわね。どういうことしてもらうか、後でまた声かけるから。それじゃ、また後で」

 私はそう言うと朋枝を残し、神社を後にした。

 それから当日、朋枝がお相手の男性と会っているところを、大勢の人影に隠れながらこっそりと見ていた。お相手は坊主頭で眼鏡をかけた若い男である。痩せていて紺色の着物を羽織っており、どことなく冴えない感じだ。小さい着物屋の二代目ということだ。

 街中歩く二人の後を、お相手に気づかれないようにつけていく。朋枝には決して悟られないように念を押したが、笑顔で誤魔化してる感じだが、私から言わせればなんとなく不安そうな顔だ。

 このときの朋枝はいつもの服装とは違い、質は悪いもののそれなりに見栄えのする着物を着ていて、いくらか華やいでいる。まあ、私と比べれば、だいぶ劣るであろうが。

 二人で連れ立って街を歩き、洋食屋や甘味処で食事したり、服屋に立ち寄ったりなど、私が観察してきた男女の行動と、今のところ然程変わっていない。ただ、違うところがあるとすれば、それはやはり、自信があるかないかということであろう。

 男にはわからないかもしれないが、女は表立って自信があることを見せることはない。特に男の前では。しかし、ひとつひとつの言動をよく見ていれば、次第に観察対象の本性というのが見えてくるものだ。それがわかるのも、私が女だからである。

 朋枝は他の女と比べて、どう考えても不安気な感じに映ってしまう。時々きょろきょろしたりするので、もうあからさまといった感じだ。私がどこにいるのか探しているのだろうか。この様子で、果たして彼女は私のいうとおりの行動が出来るのだろうか、見ものである。

 そうこうするうちに日が暮れてきて、二人はとある大きな公園の長椅子に腰掛けていた。私は茂みの中から、こっそり二人の様子を観察する。さあ、ここから本番だ。

「あの、朋枝さん。もしかして、今日楽しくなかった?」

「えっ?」

 朋枝は驚きと不安が入り混じった様子でお相手の男を見た。まあ、当然といえば当然だろう。あれだけ不安そうにきょろきょろした様子なら、そう思われても仕方あるまい。

「……えっ……今日、とても楽しかったです、よ」

「そんな風には見えないけど」

 お相手の男の真摯な表情に、朋枝は思わず顔を背けてしまう。

「本当は僕と、一緒になるの、嫌なのではないですか?」

 男の言葉に朋枝は動揺して、再びきょろきょろしてしまう。その際、茂みに隠れていた私と目が合ってしまう。もし、私の言うとおりに行動しなければ、良からぬことを言いふらされてしまうという不安が頭によぎったのか、このときの朋枝はもうどうしようもないといった顔をしていた。

「そうですか……そんなに僕と一緒になるのは、嫌ですか」

「いえ、そんなこと……」

「もういいんです。朋枝さんの気持ち、今日見て、よくわかりましたから。お家までは送りますから、もう早く帰りましょ」

 男は立ち上がり歩こうとする。もう朋枝のほうに顔を向ける素振りさえ見せない。

 この様子を見ていて、私は本当に男というものは馬鹿であるなと心底思った。まるで乙女心をわかっていない。なぜそう言えるのか。それは朋枝がお相手の男と夫婦めおとになりたい、その気があることをよく知ってるからだ。彼女の言動や彼女自身から直接想いを聞いたので、そうだということはよくわかる。だが、男のほうは完全に嫌われたと誤解したようである。

「……待って!」

 朋枝が急いで立ち上がったその瞬間、朋枝は体勢が崩れて転びそうになる。そして、自分に背を向ける男に倒れかかり、ふたりして長椅子のところへ倒れ込む。

 朋枝と男、ふたり、お互い顔が近い状態で目が合う。朋枝の顔は恥ずかしさと泣きそうな感じで、顔が真っ赤だ。そして、先に口を開いたのは朋枝だった。

「……ねえ、喜助きすけさん……わたし……こんなにも、喜助さんのこと、おしたいしてたのですよ……」

「……」

「……わたし、臆病なんです。だからその……わたし、本当の気持ち、なかなか言い出せなくて……」

「朋枝さん……」

 朋枝は振り返ると、私のほうへと一瞬視線を向ける。そして、着物をわざとはだけさせると、顔を赤くし涙目ながらも、徐々に男の顔の許へと顔を近づけていく。

 少しやけくそな感じはするものの、朋枝は男と口付けを交わす。男の方も朋枝を求めるかのように、身体を強く抱きしめた。

 私が思い描いた筋書きとは多少違うとはいえ、結果的に私はもちろん、朋枝にとっても良い方向へと物語が進んだようだ。

 この光景を見ていて、私と同じ年頃の女子であるなら、誰もが羨ましく思い、それと同時に、嫉妬する光景でもあったであろう。だが、私はそんなことを思うことは決してなく、それどころか、こういった男女の濡れ事を隠れて見るのは、思ったよりもずっと楽しいものだというように感じた。

 どうやら、朋枝と喜助のふたりは関係が上手くいったようだ。あれから私は、朋枝を脅したり指図することもなく、そっと様子を見守っていた。

 それからというもの、他の女学校の生徒の弱みを徹底的に調べ上げ、朋枝と同様、私の命令に従うような形で、お相手の男と次々と濡れ事紛いのような行為をさせていく。その中には上手く成功する者もいれば、失敗する者たちもいた。私に目をつけられ、大泣きする結果になった女生徒の数はそれなりに多いが、私はそんなこと気にすることもなく、今までの観察から、男にどうやって色仕掛けをかけていけばいいのか学んでいった。それからしばらく経ち、ようやく私が実践する日が訪れた。


 とある日、私は以前原稿を持ち込んだ出版社を訪れていた。朋枝の助けを借り、朋枝のお相手である喜助から着物を借りて、化粧で顔を整えてから、ここまで来た。

 小汚い出版社の中に入ってしばらくすると、以前私の書いたものをろくに読むことなく突き返した、その編集者である立川たちかわという男が姿を現した。

「やあ、お嬢ちゃん。どうしたんだい? そんな喪服のような格好して。誰か亡くなられたのかい?」

 喪服? 花柄が入っているだろう。相変わらず、年端としはもいかない娘だと馬鹿にしてるかのようだ。立川という男は洋装を着た痩せ型の男で、いかにも学があると言わんばかりに眼鏡が似合っている。どことなく嫌味な感じの男だ。

「いいえ。今日はわたしの書いたものを読んでもらおうと思って、ここまで来たのです」

「どれどれ、それじゃ読ませてもらおうかい」

 立川の部屋のところにふたりして行くと、私はそこで原稿を渡した。立川はそれを机の上に置くと、順番に読んでいく。

 読む速度がとても速く、まともに読んでるとはとても思えない。そして、あっという間に読み終わってしまう。

「読ませてもらったけどねえ、これじゃあ、文芸誌には載せられないよ。まるで物書き気取りの飯事ままごとだよ、これは」

 まだ娘っ子だと馬鹿にしてると言わんばかりの態度。まあ、予想していた通り、今回もまともに読んでもらえなかった。

「うちは人気な作家さん何人か抱えてるからさあ、それなりに良いもの書かないと載せられないわけよ。お嬢ちゃん、これじゃ載せられないから、また別の書いて出直してきなさい。でも、良いのが書けたらの話だけど。まあ、お嬢ちゃんなかなか綺麗だからさあ、お茶飲みに行くぐらいなら付き合ってもいいけど、ははははっ!」

 女子供だからと、まともに読んでもらえず軽くあしらわれていたことに、以前の私は酷く落ち込み、そして激怒していたことだろう。しかし、私がなんの準備もせずに、ここまで来たわけではない。

「ね〜え、立川さん、ちょっとこちらも見てくださいよ」

 そういって私は一枚の写真を机の上に置いた。そこには、料亭で愛人と淫らな行為をしている立川の姿が写っていた。

「こ、これは⁉︎」

「立川さん、立川さんのことはいろいろと調べてきましたのよ。随分とこの愛人に入れ込んでいるようですね。隠し撮りされてるのも気づかないなんて」

 私はそう言いながら、思わず口許が緩んでしまう。実はここに来る前に、写真館の主を色仕掛けで口説き、事前に調べていた立川がよく愛人と訪れる料亭で隠し撮りをさせたのだ。

 立川はそれを手に取ると、紙屑になるまで徹底的に破っていった。

「無駄ですよ。他にも写真は撮ってますので」

 立川はそれを聞くと、ぴたっと動きが止まった。

「そういえば立川さんのところって、恐妻家きょうさいかでしたよね。とてもとても怖いんですってねえ。いいんですか、他の写真、奥様に見せますけど」

 私はにやりと笑いながらそう言った。立川はその言葉を聞いて、こめかみから汗がどんどん流れていく。

「……おれを、おれを脅す気か。何をさせたいんだ?」

「ですから、わたしの書いたものをちゃんと読んで欲しいのです。さっきのように、適当に読むのではなくてね。そして、わたしの書いた物語を、あなたのところでちゃんと載せて欲しいのです」

「いや、ちゃんとおれは読んだ。その上で、これだと載せられないって判断した。うちにも載せるだけの基準ってのがある。それなりに良くないと載せらんないよ」

「嘘おっしゃい。そう言って、本当は適当に読んでるくせに。それじゃあ、わたしがさっき見せた物語の内容を、一から話してみなさいよ」

 立川は私にそう言われると、言葉が出ないようだ。どうやら図星だ。

「どうやら図星のようね。わたしや愛人に対してもそうだけど、そうやって女子供だって弄んで馬鹿にしてるんでしょ? 家では妻に尻に敷かれてるくせして、本当に駄目な男ね、あなたは。恥を知りなさい」

 女学生に弱みを握られここまで言われると、この男も随分まいったようだ。

「いいわ。あなたが言うこと聞かないなら、それでも構わない。その代わり、残りの写真の数々、全部あなたの奥さんに見せるから」

 私はそう言うと、部屋を出ようとした。しかし、立川から腕を掴まれる。

「離してもらえませんか。痛いので」

 私は冷たく言った。

「まっ、待ってくれ。ちゃんと……ちゃんと読むから……そして、うちで載せられるよう、上手く計らうから。原稿で駄目なところがあれば、ちゃんといいものになるよう、こちらでちゃんと言うから。だから……」

 振り返ると立川は酷く焦っているようだ。今まで私を馬鹿にしてきたこの男のこんな姿を見るのは、なんとも気分が良い。

「……ふぅ〜、はい、わかりました。あなたがそこまで言うなら、奥様に写真を見せるのはやめますよ」

 この言葉を聞いて立川は安心したようにため息をついた。

「ただし! 今後、わたしのことを裏切ることがあれば、そのときは、わかってますね」

 私がそう言って微笑むと、立川のこめかみから再び汗が流れる。立川はあわてて頭を縦に振ると、私は立川の許に近づき、頭を撫でる。

「そうそう、いい子ね。よく出来ました」

 立川の汗の匂いが鼻につんと来る。朋枝や他の女子とは違い、何とも臭い嫌な匂いだ。

「そうやって、わたしの前で、常にいい子にいるのよ。そしたら、わたしはあなたの嫌なことはしないから。それに……」

 私はそう言った後、立川の頬に両手を添えて顔を近づけていく。口付けをすると舌を絡ませ、立川を転がせていく。唇を離すと、他の者と同様、とろけた表情を見せた。

「こういうのも、悪くないでしょ? あなたが良い子にしてたら、あなたの愛人とやってたように、こんなことやあんなこと、させてあげるわ」

 立川の目は大きく開き、ごくりと唾を飲み込む様子が目に入る。これで完全に堕ちたな。

「はっ、はい、あな、あなたに、従います」

 この様子を見て、私は思わず笑みがこぼれた。

「……お嬢、いや、そういえば、あなたのお名前、わたくし知らないのですが、お伺いしてもよろしいですか?」

 私は立川の問いに、本名ではなく、夢に出てきたあの名を口にする。

「夜羽……夜羽真紅よ」

 私はそう言うと再び微笑んだ。

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