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第25話 H生の存在 前編

 腕を掴まれている。

 掴まれて、引っ張られて走っていた。

 掴まれている腕から、モヤモヤムカムカした気分が広がる。

 腕の先を見てみると掴んでいたのは零士だった。

『なに掴んでるのよ⁉ 離しなさいよ!』

 怒りに任せてそう叫ぶと、零士はアッサリ手を離した。

 そして無表情のまま口を開く。

『ああ、離してやるよ。元々守るつもりなんかないからな』

『え?』

 どういうことか。

 何のことを言っているのか聞き出そうとした。

 けれど、離された腕が別の誰かにまた掴まれる。

『っ誰⁉』

 反射的に相手を見て、私は硬直した。

『あんたを守る奴はいないんだな? 好都合。俺のにしてやるよ』

 肉食獣の眼光を宿した岸が、そう言って動けない私をその腕に閉じ込める。

 怖い。

 金縛りにでもあったかのように指一本動かせない。

 さっきまで近くにいたはずの零士はいつの間にかいなくなっていて。

 私は妖しく笑う岸と二人きりになっていた。

 ニヤリと笑う口元。

 でも相反するほどに強く真っ直ぐに向けられた岸の眼差しに射抜かれる。

 その強さに喉が引きつって拒絶の言葉を発したいのに出来なくなる。

 このまま、私は岸の手の中に落ちていくんだろうか。

 気が遠くなるような感覚にそう思ったところで、薄っすらと私の瞼が上がった。

「……夢……?」

 慣れ親しんだ実家の自室の天井ではないけれど、ここ数日で見慣れてきた寮の天井が見える。

 声を出して見慣れてきた天井を見たことでやっと夢だったと実感出来た。

 うなされていたようで、ちゃんと寝ていたはずなのに疲れている。

 汗もかいてたみたいでパジャマが張り付いてて気持ち悪い。

「……シャワー、浴びに行こうかな……」

 スマホの時計を見ると、今は午前五時十分。

 シャワールームは五時から使えたはずだから、行っても大丈夫だろう。

 私は重い体を動かし準備をする。

 部屋を出て廊下を進むと、朝方の静けさ独特の怖さのようなものを感じた。

 まるで起きているのが自分だけのような不思議な気分。

 でも誰かが起きていて、あんな目で見られるよりはいいのかもね……。

 昨日、保健室を出て寮に帰ってきたときのことを思い出した。

 時間的に外を歩いている人が少なかったこともあり、寮に入るまではそれほど気になるようなことはなかった。

 でも寮に入った途端、一部の生徒――V生の視線が私と愛良に集中する。

 ヒュッと息を吸いそのまま止まってしまうかと思った。

 食べられる。

 そう思ってしまうような視線。

 V生なら、男女関係なくその視線を向けられた。

 若干男の方が強いかもしれない。

 これが、吸血鬼が私と愛良に向ける感情だと嫌でも理解する。

 危険度が増したという高峰先生の言葉が実感出来てしまった。

 その時はすぐに嘉輪が私達の前に出て、周囲をひと睨みしてくれたから視線は逸れて行ったけれど……。

 護衛が絶対に必要だと言う田神先生の言葉を無視するわけにはいかないんだなって思った。

 今までは半信半疑だった狙われているという言葉。

 それが、こんなに突然思い知ることになるなんて……。

 そんな状態だから昨日は温泉にも入りに行けなかった。

 こんな日こそゆっくり温まりたかったのに。

 まあ、無理なことは思い知ったから文句も言わず了承したけれど。

 そんなことを思い返しながらシャワーを浴び終える。

 シャワーを止めると、備え付けられた鏡に裸の上半身が映った。

「……早く、消さなきゃ」

 首筋に二つ並んだ赤い痣。

 ただの咬まれた痕だと分かってはいるけれど……。

『でも忘れんなよ? お前の血を初めて飲んだのは俺だってことをな』

 耳に残るあの声が、これは所有印だとでも言っているかのようだった。

 昨日シャワーを浴びた後、痣がすぐに消える方法を検索しては試していった。

 でも流石に一晩では消えるわけがない。

 私は深くため息を吐いてシャワー室を出た。

 部屋に戻ると私は制服を着てみる。

 今日から冬服だから初めて袖を通すことになる。

 夏服と同じくラインが赤の、少し変わったデザインの冬の制服。

 もらった時からちょっと着てみるのを楽しみにしていたんだ。

 シャワーを浴びたからか、頭の中も少しスッキリしたみたい。

 新しい制服に少し気分が上昇した。

 それで少しの間姿見で自分をチェックしていたけれど、そのあとは何もすることが無くて困った。

 昨日嘉輪に迎えに行くまで部屋からは出ない様にと言われたんだ。

 だから迎えを待たないとならない。

「……あれ? もしかしてシャワーもダメだった……?」

 嘉輪の話をちゃんと思い出して、そこに思い至る。

 ヤバイ、嘉輪に怒られる⁉

 いや、でも何もなかったし。

 それに寝ぼけてたし嫌な夢見てて気分を変えたかったし……。

 そうして悶々と言い訳を考えているうちに迎えの時間になったようだ。

 コンコン、というノックの音に思わずビクリと肩を揺らす。

「聖良、準備出来てる? そろそろ行きましょう?」

 嘉輪の声が聞こえて、私は「今行く」と声を上げてカバンを持った。

 忘れ物が無いかだけ軽く確認して、ドアを開ける。

「お待たせ」

 そう言って部屋を出ると、廊下には嘉輪だけじゃなく瑠希ちゃんもいた。

「おはよう嘉輪、瑠希ちゃん。瑠希ちゃんも来てくれ――?」

 嘉輪を見て挨拶をして、瑠希ちゃんの方を見た。

 でも、瑠希ちゃんの表情に言葉が続かない。

 なぜなら、瑠希ちゃんは私を見てこれでもかというほど目を見開き、何かを我慢している様に見えたから。

 その目に、わずかだけれど獲物を見るような光を見た気がしたから……。

 私は一瞬足を止め、身構える。

 すると瑠希ちゃんはハッとして目をつむり深呼吸をした。

 次に目を開けたときにはいつもの彼女に戻っていたのでホッとする。

「……嘉輪先輩の言った通りですね。愛良ちゃんに先に会わなくて良かった」

 瑠希ちゃん自身も安堵したようにそう言った。

「どういうこと?」

 聞くと、嘉輪が困り笑顔で説明してくれる。

「ごめんね、聖良。私達VH生も何だかんだ言って吸血鬼だからさ、V生よりは自制出来るように訓練はしているけれど、流石に血の気配を知ってしまった後の“花嫁”を前にするとグラついちゃうのよね」

「グラつく……」

 つまり他のV生と同じように、さっきみたいな目で見てくるってことかな?

 でも襲いかかるとかじゃなくてあくまでグラつく程度ってことは、やっぱりV生よりはVH生の方が安全なんだろう。

「だから鏡には先に愛良ちゃんじゃなくて聖良に会ってもらったの。……守って貰う人、しかも友達にあんな目で見られるのはキツイでしょ?」

 と、悲しそうな嘉輪。

 だから私を実験台代わりみたいにしたってことかな。

 しかもそうしたことを気に病んでいるみたいだ。

 気にしなくていいのに。

「確かにそうだね」

 私は同意し、笑顔で続ける。

「愛良のこと考えてくれてありがとう、嘉輪」

「聖良……ごめんね」

「良いんだってば」

 まだ謝ってくる嘉輪に気にするなと念を押した。

「じゃあ、愛良ちゃん呼びましょっか!」

 先にいつもの調子に戻った瑠希ちゃんが明るく言うと、嘉輪も仕方ないなという様子の笑みを浮かべる。

「そうね、待たせちゃ悪いしね」

 瑠希ちゃんの明るさに、嘉輪もいつもの彼女に戻ってくれた。

 愛良の部屋のドアをノックすると、すぐに返事が返ってきて開く。

 愛良もスタンバっていたみたいだ。

「おはよう愛良ちゃん! 待たせちゃった?」

 瑠希ちゃんが明るい太陽みたいな笑顔で挨拶している。

 うん、さっき私に向けたような目や表情は欠片もない。

 これなら私が実験台になった甲斐があるってものだ。

 こうして何ともなかったように愛良とも合流して廊下を歩く。

 今朝シャワー室に行ったことは突っ込まれなかったから、多分気付かれてなかったんだろう。

 ……良かった。

 そうしてエレベーターのところまで来ると、ここ数日顔を合わせていなかった弓月先輩がいた。

「あ、おはようございます。弓月先輩」

「ええ、おはよう」

 笑顔で対応してくれた弓月先輩に、愛良も私にならう。

 でも、弓月先輩の視線が嘉輪と瑠希ちゃんに向けられると、空気が少し張り詰めたような気がした。

「弓月先輩、おはようございます」

「おはよう、ございます」

 嘉輪は……なんて言えばいいんだろう。

 本心を隠しているような……よそよそしい笑顔を見せる。

 瑠希ちゃんは笑顔が消え、関わりたくないという感情がありありと表情に出ていた。

 え? なに? 弓月先輩と嘉輪達って仲悪いの?

 そう思わずにはいられない雰囲気だった。

「おはよう、波多さん。鏡さん」

 弓月先輩の声も淡々とした、感情が乗っていないものになる。

 私は愛良と一緒にスススっと彼女達から少し離れる。

「……仲、悪いのかな?」

「……そう、見えるよね……?」

 ヒソヒソと愛良に言ってみたけど、やっぱり愛良にもそう見えるらしかった。

 それ以外は言葉を発さず、黙って三人――というか、主に嘉輪と弓月先輩の会話を見守る。

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