興水が気を引いているうちに。部屋の後ろ側にある襖から逃げていけば良い。
凪の姿も、おそらく、神崎の角度からは見えない。
座布団を外して、ゆっくりと、少しずつ部屋の後方に移動する。まだ、気付いて居ない。立ち上がり、駆けだそうとしたときだった。
「達也っ……っ!!」
神崎の激しい声が響く。興水が、神崎の腕を掴もうとしたが、振り払われてしまう。
神崎は、食事の載ったテーブルを、食事ごと踏みつけて、達也に飛びかかってくる。踏みつけられて、器が派手な音を立てて割れる。陶器の破片と、食べ物が、テーブルや畳の上に、散らかった。
「っ!!!」
逃げようと思ったが、とっさに動くことは出来なかった。
「どこに逃げるつもりだ、達也っ!!」
神崎の目は、血走っている。神崎が、スーツの内側に手を入れた。取りだしたのは、サバイバル用のツールのようなものだった。十徳ナイフというのか。様々なツールが一緒になったガジェットだが……今は、小ぶりのバタフライナイフのような形状になっている。
「神崎様……っ!!」
女将の悲鳴が、部屋に響き渡る。その声が合図だったように、料亭の男衆が部屋になだれ込んでくる。
「……チッ」
神崎が、舌打ちした。あたりを見回す。だが、手に凶器を持っている神崎に、うかつに近付く事は出来ないようで、じりじりと距離を詰めてくるものの、それだけだ。
逃げられることはないだろう―――。
だが、刃の切っ先は、達也に向けられている。
達也は、背中に、冷や汗が伝っていくのを感じていた。
神崎は、多分、本気だ、と思った。息をするのも、忘れるほどの、緊張の中、神崎が口を開く。
「達也。これはどういうことだい?
くすくす、と、笑っている。それを聞きながら、達也は、(この人は、本当に、自分本位にしか、考えないんだ)とだけ、思って、腹に力を入れた。
「……俺は、神崎さんと一緒に行くつもりはありませんよ」
「さっきまで、行く気だったのに……ああ、そこの子ネズミが、ちょろちょろしているのが悪いのかな?」
子ネズミ、というのは多分、凪のことだろう。
「俺は―――神崎さんと、行くつもりはないですよ。あなたと恋人になったつもりも、愛人関係になったつもりもないですし。迷惑なんですよ」
神崎は、一瞬、鳩のように目を丸くしたが、すぐに「ハハハハ」と笑い出した。
「なるほど。……じゃあ、そっちの子ネズミが恋人だとでも言うのかな? ……達也。お前は、いつも、そういうその場限りの、すぐバレるような嘘を吐いて、俺を困らせようとするんだ……。そんな風に、俺の気を引かなくても、ずっと一緒にいて上げるから、大丈夫だよ。安心しなさい」
身勝手な言葉に、寒気と吐き気がしてきたが、達也は、怯まなかった。少なくとも、今、ここには、味方が沢山いる。
「あなたの気を引いた覚えなんかありませんよ」
「また……そう言うことを言って……。店の人たちにも、迷惑でしょう? そろそろ、皆に謝りなさい」
神崎は「困った子だ」と言いながら、達也に言う。けれど、ナイフの切っ先は、達也に向いたままだった。
「……さっきから聞いてれば」
立ち上がったのは『子ネズミ』といわれた、凪だった。
神崎の顔が、不愉快そうに歪む。だが、すぐに、笑顔に変わった。
「おや、どうしたんだい? 君のことは、招いた覚えはないよ?」
「……黙って聞いてれば、ベラベラベラベラ……。アンタの妄想に付き合うほど、俺たちは暇じゃないんですよ。それに、達也さんは、俺の恋人です。……あんたが触って良いような相手じゃ無い」
達也は、凪を見た。興水も、神崎も―――皆の視線が凪に集中する。
「……はっ? お前が……?」
「そうですよ。……俺は、大学生の頃に達也さんに会って、達也さんと一緒に働きたくて、この会社に就職しました。あっ……実は、俺、神崎さんの会社、内定とスカウト来てたんですよ。蹴りましたけど」
ははは、と凪が笑いながら言う。
「うちを蹴って、弱小企業に……?」
「そうですよ。俺は、あなたと違って、達也さんと一緒に居るためだったら、ちょっとした企業の内定くらい、蹴りますよ。……それくらい、本気なんですよ。あなたには、そんなことは出来ないでしょう?」
「……達也が、俺の秘書になれば良いだけだ」
「あなたの為に奉仕させても、達也さんの為に、あなたが骨を折ると言うことはないでしょ? あなたが好きなのは、ご自分だけなんですよ。俺は違う」
毅然と言い放った凪に、神崎の顔が、茹でた蛸のように、顔か真っ赤になっていく。
「く……っ!」
「図星じゃないですか。……所詮は、あなたなんて、ナルシストの、モラハラ男ですよ」
凪の言葉に、神崎のこめかみがピクッと動いた。
「ナ、ナルシストだって……!?」
「ナルじゃなければ、自分だけ大好きってヤツですよ。あ、それもナルシストでしたね。……ダサッ」
嘲笑うように言う凪の言葉を聞いた神崎が、
「言わせておけば……っ!」
とナイフを繰り出してきた。
ターゲットは、達也だった。
「達也さんっ!!!」
凪が叫んで、達也の腕を思い切り引く。急に手を引かれてバランスを崩した達也は、畳に転がった。背中から転んでしまい、したたかに背を打ってしまって、咳き込む。
「っ……!」
「貴様ぁっ!!」
三下のような言葉を吐きながら、神崎が凪に向かう。興水が、パッと走り出した。男衆もそれに続く。
大きく手を振りかぶった神崎。
凪は、避けなかった。
「凪っ……っ!!」
達也の悲鳴のような声を聞いた神崎が、手を一閃させる。きらり、と十徳ナイフの刃がきらめいて、凪の腕を切り裂く。スーツが切れて、真紅の線が、一条、スッと凪の肌を走って行った。