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第93話 百年の恋も秒で冷める


「気に障る……? ああ、ゴメンね、達也」


 神崎は、申し訳なさげに眉根を寄せた。「……確かに、俺が食べないと、達也も遠慮するね。……俺は、機嫌が悪いとか、何かが気に触ったとかは、全然ないんだよ」


 神崎が、微苦笑する。


「そう、なんですか?」


「……会食の時は、そんなに食べないことにしているんだよね。あちこちの会食に呼ばれるからね。せいぜい、前菜とか八寸だけ食べる感じで中座するから……まあ、東京中のそれなりの店の前菜だけは、ものすごい数を食べてるよ。一晩で、あちこちに顔を出すとなると、前菜だけで手一杯でね」


「一晩に、何回も……」

「俺が顔を出すだけで良いっていう時も多いんだよ。……顔を出して、前菜を食べて、乾杯だけして、挨拶回りをするだけで、出席の実績を作れる。あとは、うちの会社の別の人間に任せればいい」


「何回くらい、行くんですか?」

「……多いときで、一晩に五カ所くらい回るかな。十月から十二月は、毎日のように会食だったよ」


「イギリス……でも、そんな感じですか?」

「ああ、確かに、どういう仕事になるか、は気になるよね。……そうだなあ、イギリスでは、日本ほど多くはなかったかな、そういう類いの会食は。……まあ、こういうのは慣れるよ」


 さらりという神崎だが、あまり、慣れたくない類いの仕事だなとは思った。

 勿論、神崎に、付いていこうとは思わなかったが―――この男が、現実離れしているのも、こういう、仕事の環境のせいもあるのだろうとは思った。


 何から何まで、マトモではない。


「俺は……、食事は、ゆっくり、取りたいですね」

「んっ?」

 神崎が顔を上げる。


「……俺は……、食事の時間は大切にしたいし、作ってくれた方に対する、敬意というのもあると思いますので」


「なるほど。達也は、家庭を大切にするんだね。……俺も、達也なら、大切にするよ。毎日、一緒にご飯を食べるんだ。うん、いいね」

 けれど、おそらく、神崎は、妻子とも食事の時間など、マトモには取ってこなかったのだろうと思う。


 そんな神崎が、達也と一緒に過ごすようになったからと言って、いきなり、マトモな生活をするとは思えない。


(俺は、この人には無理だと思うけどな)


 八寸の、スダチをくりぬいて作った器の中に入った、料理を口に運んだ。口の中に、マグロのうまみと、ふんわりとした柑橘の香りが広がる。舌先を、軽い酸味がくすぐった。


 自慢話のように、一晩で五個も前菜だけを食べるという神崎が、こうして、一つ一つを楽しんで、味わっているとは思えない。


 こういう料亭料理というのは、味わって食べるための料理ではないのだろうが、料理自体は、おそらく東京でも一二を争うレベルの日本料理だろう。素材も、調理も、超一流のはずだった。味など、ちゃんと解っているとは思えない達也だが、ここが超一流というのだけは解る。それに、この上なく美味しい食べ物だと言うことは、十分理解している。


 けれど、神崎に必要なものは『接待のための美味しい料理』ではなく『最高峰の日本料理』という看板だけなのだ。


(こういう人たちが、沢山いるんだろうな……)


 そう思うと、この料亭で、味わって食べられているとは思いがたい扱いをされる、最高峰の料理を作り続ける人たちも、それでいいのだろうかと、疑問が湧いて出る。


(少なくとも、俺は、こういう世界には、居たくない)


 達也は、そういう思いが一瞬ごとに強くなっていくのを感じていた。

 とにかく、嫌悪感が酷い。一瞬でも早く、ここから逃げ出したい。これに、染まりたくないと、思ってしまった。


「神崎さんは……、何が好きなんですか? 俺の」

 唐突な達也の質問に、神崎が目を丸くする。


「達也の、何が好き……? そうだなあ。達也は、可愛いし、言うことを聞くし、俺のことを一番に考えてくれるよね。それに……」

 列挙している言葉を聞いて、冷笑が漏れる。


 神崎が言っているのは、従順であるいうことだけだ。神崎を気持ち良くする為に、他者が存在するということを微塵も疑っていない、傲慢さに、気分が悪くなる。


(もし、俺が本気で、まだ神崎さんが好きだったとしても……)


 こんな言葉を聞いたら、百年の恋も秒で冷める。


 まだ、ダラダラと、喋り続ける神崎にそろそろ飽きてきた達也は(さて、どうしたものか)と思う。今なら、油断しているし、お手洗いを借りに行くついでに、逃げることも可能だろうか。しかし、この店で、通りすがりの仲居を捕まえることなど出来るのだろうか……。


 それだけは疑問に思いつつ、中座を申し出ようとした、その時だった。


「……神崎様、失礼致します」

 廊下から声がした。先ほどの女将の声だろう。


「おや、どうしたんだろう。八寸はまだ終わっていないし、こういうタイミングを外すような女将じゃないのにな」

 独り言ちてから、神崎は「どうぞ」と声を掛ける。


 す、と襖が開いた。


「神崎様、お客様がお見えです」

「客?」


 神崎が眉を寄せる。


「おかしいな。ここへは、俺の秘書にも伝えてないのに」

 神崎は訝りつつ「じゃあ、お通しして」と伝える。入って来たのは、興水だった。


「あれ、達也の上司の……興水さんでしたか?」


「ええ。瀬守から、新橋の料亭にいると伺いましたもので、つい、うらやましくてご相伴にあずかりたいと思って駆け付けてしまいました。あ、こちら、手土産です」


 神崎クラスに対する『手土産』としては、あからさまにおかしな品を持っていた。コンビニのレジ袋に詰め込まれた、スナック菓子だ。


(興水……何してるんだ……)


 呆然としていた達也の膝に、つん、と突かれる感触がした。できるだけ神崎に気付かれないように、そちらを確認すると、畳を這うようにして、凪が居た。


(凪……っ!)

 驚く達也に、凪が、ピン、と指を立てた。そして、指だけで後ろに行くように示す。


(そうか……っ)

 達也は、こくん、と肯いた。神崎は、興水とやりとりをしている。興水はあくまでも、にこにこと空気の読めない様子で、神崎が苛立っているのが解る。達也のことなど、見ていなかった。


(今しかない……っ!)



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