「綺麗な料理ですね、食べるのが勿体ないです」
運ばれてきた八寸を見ながら、達也は言う。
最初の酒と一緒に先付けが出てきたのが、数十分前だった。
それから、八寸が出てきた。懐石料理では、前菜にあたる品で、山のものと海のものを合わせて出すことが多い。今回は、籠盛りの中に、小さな器に入った、趣向を凝らした料理がぎっしりと入っている。
器についても、達也はまったく知識はなかったが、高価そうな陶器の器が用いられている。料理に合わせて、様々な器が使われているので、目にも華やかだった。そして、達也としては、いかにも高価そうな器なので、うっかり傷を付けたり、壊したりしたらどうしようかと、冷や汗が出る。
「八寸というのは、料理を作っている間のつなぎのようなものでね、時間を掛けてあらかじめ作っておいたもので作られていることが多いから、華やかだよね。コレを食べながら、ゆっくり会話をして、酒を楽しむんだよ」
神崎の言葉を笑顔で聞きながら、女将が「その通りでございます。特に、こちらの烏賊と雲丹を合わせたものや、こちらの夏野菜を煮こごりにしたものなどは、特に日本酒に合いますね」とにこやかに言う。
「日本酒ですか」
達也は小さく問い返す。「神崎さん、前にニュースで外国でも日本酒が人気と聞きましたけど、そうなんですか?」
知っている限りの知識を総動員して、少しでも神崎とここにいる時間を稼ぐ算段だ。なんとなく、女将や料理長は、時間を引き延ばすようなそぶりをしているので、きっと達也に味方してくれているのだろうと、思う。店の名前は分からないから仕方がないが、新橋の料亭、で興水が何かをしてくれたのだと思う。
「ああ、そうだね。フォーマルな場所でも登場するようになったと思うよ」
「フォーマルな場所、ですか?」
「そうだね。例えば、ノーベル賞の受賞パーティ。ここでは、神戸の酒蔵の日本酒が提供されたし、グラミー賞でも宮城県の酒蔵の日本酒が提供されているね」
「そうなんですね……知らなかったです。そういうお酒も飲んでみたいですね」
「女将、あるかい?」
神崎が上機嫌に女将に問う。
「あら、申し訳ありません。これから、神崎様の為に仕入れておくように致します」
「残念だったね。じゃあ、代わりに、このあたりのお酒を持ってきて貰えるかな」
酒のリストを指さして、神崎が言う。
「神崎さんって、お酒とか、どうやって覚えたんですか? スマートに、注文出来るのって、憧れるんですけど」
「場数だよ」と神崎は笑う。「大学時代から、あちこちのパーティだとか、人脈を広げるための会合だとかに参加して、とにかく、身体で覚えたからね。ワインなんかでもそうだけど、知識だけ入れて、実際に飲んでみたことが無いのは、つまらないだろう」
「そうなんですか?」
お酒のうんちくを語りたがる人というのは、割と一杯いるような気もするが……と思っていると、神崎は、ふっと笑った。
「例えばだよ。ソムリエの資格を持っているけど、五大シャトーのワインを飲んだこともない人間というのは、たまにいる。ワインというのは、数が限られているからね。
けれど、ソムリエの資格なんか持たなくても、五大シャトーのワインの楽しみ方を知っている人間というのも、確かにいる。どうせなら、後者になりたいだろう? 外側だけ整えても、中身が伴わなかったら、何の意味もないだろうから」
いつの間にか女将は一旦下がって、日本酒を持ってきた。
神崎と達也の酒器に注いで、そして、去って行く。
「薫りと味を楽しんで、しっかり記憶していくと良い。……食事との相性を確かめたり……けれど、そう言うことは、もっと、あとになってからすれば良い。機会は作っておく。まずは、今日は……、恋人と過ごす時間を、ゆっくりと楽しむ方が良い」
神崎の言葉に、達也は「こ、恋人って……」と、わかりやすく動揺した。神崎が、思い違いをしているのは理解していたが、改めて、恋人、と言われると、寒気がする。
「女将は口が固いから大丈夫だよ」
神崎の中では、達也と神崎は恋人同士ということになっているのだろう。だから、こういう、ピントのズレた答えを返す。
聞く耳を持たない神崎は、どこか、おかしいのではないか、と達也は思ってしまう。病的というか、狂気を感じるというか、少なくとも、正気ではない。
(……これだけ酒を飲ませてれば……、お手洗いに行くとか、あるよな……)
神崎が席を立っても良いし、達也が席を立っても良い。
達也は、いざとなったときに酔いが回って動けなくなったら困るので、酒の合間に水を飲んだり、料理に手を伸ばしたりしている。神崎の方は、というと、料理にはそれほど手を付けなかったが、日本酒はよく飲んでいた。
美しい八寸が、殆ど手つかずのままに残っているというのが、なんとも勿体ない気分になる。
(だいたい、この料理、俺の月の食費くらいするんじゃないか……?)
そう思うと、余計に勿体ない気がしてくる。
「……あの」
「なに? 達也」
「神崎さん、……あんまり召し上がっていないみたいですけど……俺、なにか、気に障るようなことしましたか……?」
時間稼ぎもかねて、達也は、そんなことを切り出してみた。もし、これで、神崎が八寸を食べるようならば、少し、時間稼ぎになるからだ。
神崎は、一瞬驚いた顔になったが、すぐに相好を崩した。