通されたのは、広々とした和室だった。
達也には解らないが、床の間に掛け軸が掛けてあって、美しい花も活けてある。
座布団はふんわりしていて、そこに正座して座ったら、神崎が「あぐらでも構わないよ」と声を掛けてくれたので、それは、少し安堵した。正座を続ける自信はない。
歴史がある建物なのだろう。銀座から離れてすこしの場所に、こんな純然たる日本家屋があるとは思えなかった。屋根は瓦が葺いてあった。
達也は、神崎の出方を探りつつ、あちこちに視線をやった。どこかに、逃げる場所は無いか、そして、なにか、突破口は無いか、探していたのだった。
しかし、座敷には、そう言うものは見当たらない。
「どうしたの、達也。きょろきょろして」
「……場違いな気がして、さすがに、こういう場所に、来たことがなかったので……」
そう告げると、神崎が、ふふっと笑う。
「じきに慣れるよ。こういう所に来るのが当たり前の生活。その方が楽しいだろう」
神崎の言葉が終わるのを見計らったようなタイミングで襖が開いて、料理長らしき人が入ってきた。
「神崎様、ご無沙汰しております」
「ああ、料理長。……久しく顔を出さずに済まないね。その代わり、うちのものが何度か使っていると思うけど」
「はい、神崎様のご紹介のお客様も、良くして頂いております」
こういう所は『一見お断り』。
会計などは大抵『あと会計』になる。たしかに、重要な賓客を招いての会食の時、料亭を去るタイミングというのは、同時に、賓客の見送りや、次の店、宿泊先へ同伴するタイミングでもある。その時に、会計でモタモタしているのは、スマートではない。なので、お互い信用の上で、『あと会計』。
一見お断りというのは、こういう事情があるからだ。
そして、紹介して店が使えるようになるまでには、何度か店へ客としてきて、ここで振る舞いを見られると言うことでもある。
他の人に紹介出来る神崎は、それだけ、ここでの振る舞いに問題が無い人物ということでもあった。
そういう話を聞いたことのある達也は、なんとなく、妙な気分になりながら、ため息を吐く。その時、不意に料理長と目が合ったような気がした。
「お連れ様は……、初めてお見かけする方かと思いますが」
「ああ、今度、私の秘書になってくれるんだよ。これから、来る機会も多いと思うから、ぜひ、覚えて欲しいね」
神崎が、笑顔で言う。
「そうでございましたか。……ご挨拶が遅れました。私、ここで料理長をしております、梅原と申します」
料理長が丁寧に挨拶してくれる。そうなると、返さないわけにも行かなかったので、居住まいを正してから、達也も挨拶した。
「瀬守達也です」
「瀬守様。今後、よろしくお願い致します。秘書の方となると、当方と打ち合わせをすることも多くなりましょうから……」
「そうですね」
「ああ、そうだ。達也、料理長は、私の好みを完全に把握しているから。君も、私の好みは良く知っていると思うけど、より、詳しいからね。よく聞いておくように」
「神崎様、また、英国に戻られると思いますが……ご帰国の予定は?」
「そうだね、明日の夜には帰るかな」
「それでは、今後のやりとりは電話がメインになりそうですね」
神崎は、すっかり、達也は『秘書』として使うことを決めている。料理長は、神崎が素晴らしい人間だと思っているのだろうし、ここは、まず、穏便に話を進めなければならない。
(……会場から、ここまで、どれくらい時間が掛かるんだろう)
たしか、会場から東京駅まで四十分くらいだった。東京駅から、たしか、東銀座―――歌舞伎座の前までは徒歩でも行けるくらいに近いはずだった。地下街を歩通れば、雨に濡れることなく歌舞伎座に行くことが出来る、と誰かから聞いたことがある。
だとすると、ここまで三十分位あれば到着するだろうか。
二時間。ココにいることが出来れば、興水たちが来てくれる可能性が高くなる。
(じゃあ……二時間、時間を稼ごう)
それが、今、達也に出来る、最良の手段だった。そして―――達也は、祈る気持ちで、胸ポケットに入れたスマートフォンのことを思った。今、そこにあるスマートフォンは、興水に電話をしたタイミングから、ずっと、オンラインミーティングソフトを起動して、録画モードにしてある。業務効率化のため、オンライン会議は即時文字興しされて、議事録として送付出来る状態でクラウドに保存されるのだった。
どの程度録音出来ているか解らないが、何かの役に立つことはあるかも知れない。
(とにかく、二時間……いや、三時間くらい……)
「あの、神崎さん」
「どうしたの、達也?」
「俺、殆ど、和食って食べたことないんです。神崎さんの好みも知りたいですし………、海外で働くことになるなら、日本料理もちゃんと知ってないと、神崎さんが恥をかくと思うので……、今日は、沢山、教えて頂けますか?」
「ああ、そうだね。じゃあ、今日は、ゆっくり食事を楽しむことにしよう」
上機嫌な神崎はともかく、料理長ともう一度目があって「心得ておりますから」と彼は静かに言って退室した。
なんとなく、変な感じがすると、達也は思いつつ、神崎のうんちくに耳を傾けていた。