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第88話 懐かしさと。悔しさと。


 懐かしさに、胸が苦しくなる。


 神崎のことは、本気で好きだった。ただ、達也の気持ちとは、なにかが掛け違っていただけで。裏切られたと思っていたし、遊ばれていたと思っていたのに、今更、こんな執着を見せなくても良いだろうとは思う。


 ただ――あの頃、何も知らないで、ただ、恋に夢中になっていた、あの頃、達也は幸せだった。


 それが苦しい。まだ苦しい。


 興水が言ったように、まだ、今でも、神崎に、振り回されている。

 それが、悔しいし、苦しい。


「……イギリスは、素敵な場所が沢山あるよ」

「そうなんですね」


「そうそう。凄い博物館も美術館もあるし、何年いても飽きないと思うよ」

「神崎さんは、イギリスだけじゃなくて、あちこちを飛び回っているイメージですけど」


「そうだね……。ベルリンとかパリはよく行くかな。あとは、次の大きな計画の為に、アメリカに出張するのが増えるんじゃないかな。世界中あちこち飛び回って、いろんな人と会うのは楽しいよ」


 神崎は、上機嫌でぺらぺらと話をしている。


「神崎さんのご家族は……?」

「ああ、一応、家族はいるけど、妻と子供は、今は……アメリカかな。あっちの大学を出たいんだって。まあ、反対はしないよ。ただ、うちの会社には入らないって言われたよ」


「お父さんが重役っていう会社はいづらいですものね」

「そうだね……まあ、そのあたりは、こだわりはないし……達也さえいれば良いから、構わないけど」


 ははは、と神崎が笑う。妻子に相手にされず、愛人を囲う男、に見えて、少し滑稽だった。しかも、愛人は、女ではなく男だ。


「……そろそろ到着するから……、これを取ろうか」

 目隠しと、手の拘束を解かれた。あたりは、かなり人通りが多い。なにか、解る建物は無いかと思って見ていると、有名な銀座の交差点を通過した。


「銀座……?」

「そうそう。三越を越えて、歌舞伎座を越えて少し行ったところの先……、新橋の演舞場があるんだけどね、その近くだよ。このあたりは、料亭が多いんだ」


 つまり、銀座の外れの新橋エリアだ、と言うところまでは、把握出来た。銀座まで行けば、どこへでも行けるだろう。スマートフォンには交通系ICカードも連携している。スマートフォンさえ無事なら、このまま帰ることが出来る。


「銀座って……まえ、どこかの芸能人が、成功した人の街って言ってるの見たことあります。神崎さんも、そうですよね」


「いまはそうでもないだろう。銀座の価値は健在だけど……ファストファッションの店が大手を振ってテナントを構えてる。昔、ファストフードの一号店が出店してきたときとは、意味合いが違う」


 そう吐き捨てるように言う神崎には、この街は、どう見えているのだろう。


 有名ブランドの紙袋を持った人たち―――は、殆ど、外国人観光客だった。きらびやかにライトアップしている歌舞伎座を沢山の人が写真撮影している。


 いずれにしても、達也には、遠い光景だった。


「ここは、達也に取っては、非日常だろう。けれど……私と一緒に来たら、ここは、日常になる」

 昔、どこかの芸能人が言っていた『成功者』側になる、ということだ。


「……俺は、神崎さんの……愛人みたいなポジション、しか出来ないでしょう?」

「私の秘書なら、世界中にコネクションが作れるよ。普段ならば知らないような、仕事の内容を、私と同じ視座から眺められるということだよ。

 今の君の仕事が、悪いとは言わないけれど―――一生、似たような仕事をやることになる」


 神崎の言葉は、野心がある人ならば、揺れるのだろう。達也にも野心があれば、きっと、神崎の手を取っていたはずだ。


「……神崎さん」

「ん?」


「俺は……もうちょっと、責任感がないところで生きていきたいですね。ちゃんと、自分を大事にしたいと思うんです。自分を大事にしろって、言われたばかりで」

 達也が苦笑しながら言うと、神崎の顔が、歪んだ。


「まあ、いい。今日は、放さないからね……考え直すことも出来るだろう」

 車が止まる。築地塀ついじべいの真横だった。駐車場や、車寄せのようなものは存在しないらしい。


 どこかからか見ていたのかと思うような、絶妙なタイミングで、店の人が出てきた。運転手がドアを開けてくれ、車から降りる。この瞬間に逃げ出そうと思っていたのに、車のドアと店の人たちに阻まれて、そのまままっすぐ店に入ることになってしまった。


「あ、神崎さん」

「ん、なんだ?」


「そういえば、今日はうちの会社の人と一緒に来てるんですよ。……もしかしたら、探してるかも知れないので、ちょっと電話掛けても良いですか?」

「ああ……解ったよ」


 了承を貰い、スマートフォンを手にする。誰に電話するか―――。興水か、凪ならば、話が早いだろう。


 どちらに電話を掛けるか……。

 暫時、迷った達也だったが、神崎の目がある。ここは『上司』の興水に電話を掛けるべきだった。


 電話を掛けると、ずっとスマートフォンを握りしめていた、とでも言うような早さで、興水が通話に出た。


『達也か! 無事かっ! 今どこにいるっ!?』


「あー……興水部長、済みません。バックヤードで、確認に行ってたら、神崎さんに会いまして……いま、神崎さんとご一緒してるんです」


『ちょっと待て……どういうことだ。詳しいことは話せないんだな。今どの辺にいる』


「あっ、明日の仕事には、ちゃんと行きます。明日は……会場に四時集合ですよね……ええ、それは、遅刻はしないようにします。はい、今日は、はい、神崎さんとご一緒させて貰おうかと。済みません、上司を差し置いて、新橋の、料亭だなんて」


『新橋の料亭だな……解った。時間稼げ。今から行く』


 こういう時の興水は、便りになる。本当は、好意がある人を頼ってはいけないような気もするが……。


 凪を―――巻き込みたくはなかった。


 ここは、格式が高そうな料亭だった。こういう料亭が、新橋エリアに何店舗あるのか、達也は知らない。だが、この情報で、興水なら、なんとかしてくれそうだと、思っている。


「達也、そろそろ大丈夫か?」

 神崎に声をかけられて、達也は笑顔を見せた。


「すみません、上司に連絡入れてました」

「この間の興水くん?」


「はい。……新橋の料亭だって自慢したら、羨ましがられました」

「はは、そうか。じゃあ……イギリスに行って、しばらくあっちで仕事したら、今のチームの人たちを誘って、またここに来ようか」


 神崎の笑顔は、蕩けるように甘かった。

 言っていることが、ちぐはぐで、どこかおかしい。ついさっき、神崎には付いていかないと明言したのに、それは神崎の中で、なかったことになっている。


 何を言っても通じない……という感じがした。


「ようこそお越しくださいました」

 と店の人たちがにこやかに挨拶をするのに、神崎がこたえる。


「……急な連絡で済まなかったね。日本もしばらく来ないと思ったら、ここに来たくなってね。……この子が、こういう所は来たことがないと言うから」


 先導してくれる仲居に朗らかに声を掛けながら行く神崎に、付いていきながら、達也はなんとか、逃げるタイミングを伺っていた。





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