神崎の車の中―――達也は、今、ここがどこなのか、解らずにいた。
外の景色は見えない。
最初、神崎の足許に転がされたが、彼によって座席に引き上げられ、現在、目隠しをされているからだ。
(笑えない状況だよなあ……)
第一、先ほどの、神崎の手下たちはなんだったのか。あれは手下と言って良いのか、良くわからなかったが、少なくとも、カタギの方々ではないというのは、なんとなく解る。
「……達也」
神崎の甘い声が聞こえてきた。「明日の講演が終わったら、イギリスに、一緒に帰ろうね」
ぞっ、とした。
(パスポートもないし、他の申請もしてないから……)
まず無理だと思ったが、なんとなく嫌な予感がする。
「君のパスポート、申請しておいたし、ETA(電子渡航認証)も申請しておいたからね。住む場所も決めてあるし」
そんなことが出来るはずがない。第一、パスポートは、本人以外が取得出来なかったはずだ。
達也の疑問が、神崎には手に取るように解るらしい。
「……いろいろと便宜を計ってくれる場所はあるモノだよ。それに、少しくらい不備があったとしても、プライベートジェットなら、君を密入国させるのも難しくはないからね。保安検査が甘いんだよ」
ははは、と神崎は笑う。
ここまでするとは思っていなかった。
(せっかく取って置いたパスポート、勝手に紛失扱いにされたって事か……)
そして、パスポートを再取得。パスポートというのは、性質上、再発行ではなく、再取得という形になる。紛失扱いにしたパスポートは、もう、無効になって使うことは出来ない。つまり、おそらく代理人を立てるなどして、神崎が勝手に再取得したパスポートの方が有効で、それを、神崎に握られているのだ。
達也は、思案していた。
絶対に、神崎の愛人として過ごすのは、イヤだ。しかし、今、どうすれば、神崎から逃げられるか解らない。現在、どこにいて、どこに向かって走っているのか解らないからだ。ただ一つ分かっていることは、明日、神崎は、イベントのメインステージで、講演を行う。それが終わるまでは、日本にいると言うことだ。
(今は……二十時くらいか?)
だとすると、明日の、神崎の出番は、十時二十五分。そこから三十分が講演の時間だ。そして、羽田まで移動するのに二時間弱。まるまる十二時間は、猶予がある。
(十二時間で……俺が逃げ出すか、神崎さんが改心するか……)
圧倒的に、後者はあり得ないだろう。ならば、達也が逃げ出すしかない。
達也は、あまり車には乗らないが、現在、かなりスピードが出ていることだけは、感じている。高速道路かどこかだろう。
今日、神崎は空港には行かないだろう。日本にある自宅か、或いは宿泊先に泊まるはずだ。それならば、車から宿泊先に移動する間に、隙がある。そこ以外に、外に出られる機会はないような気がした。
「神崎さん」
「なんだい、達也」
神崎の手が、達也の腰を撫でる。嫌悪感に、肌が粟立つ。この手に触れられても、感じるのは快楽でなく、嫌悪感だったことに、達也はいくらかホッとしていた。
「……神崎さんは、どこに宿取ってるんですか?」
「おや、気になるかい?」
「そりゃ気になりますよ……明日の講演は、ちゃんと時間通りに初めて貰わないと、あとの予定がガタガタになるんです。そう言うところは、秘書の方と、連携は取れてるんですか?」
欲しい情報は、今、どこへ向かっているか、だ。
そして、いつまで、どこに滞在するのか。その課程で、どこに隙があるのか。
(神崎さんが寝てる間にでも……)
「ああ、それは問題ないよ。秘書の方が、手配してくれている。会場には、講演予定時間の一時間は前に入る予定だよ」
「それなら、安心しました」
「仕事熱心だね。……あんな小さな会社のことなんか、そろそろ忘れた方が良いよ」
神崎が見下したように笑ったのが、癪に障った。
確かに、佐倉企画は、小さな企業だ。けれど、毎日、真摯な気持ちで仕事をしてきたのだ。そういう意味では、神崎のORTUSに負けないと思っている。
「小さい仕事を蔑ろにすると、足許を掬われますんで」
大企業には大企業の言い分があるのかも知れないが―――少なくとも、ORTUSのような大企業でも、全て自分の会社だけでイベント一つ回すことは出来ない。専門の会社などから人材をを借りた方が、絶対にうまく行くというのが分かっているのだ。
神崎の、見下すような言葉は、今回、イベントで尽力した全ての会社に対する、暴言だ。
(ああ、会話、録音出来てたら良かったのに)
ため息が漏れる。
「……君は真面目だね。そういう、生真面目なところを、気に入っているんだけどね……今日は、楽しみだな。君と、久しぶりに、二人きりでゆっくり過ごせる」
それは、ベッドの上で、ということだろう。そう確信した達也の、背筋が震えた。背筋が震えたのと同時に、腹の虫が、空気を読まずに「ぐぅ」と盛大に鳴く。
「おや、大分、腹ぺこなんだね」
「……そういえば、ランチも取らずに頑張ってたんですよ」
「そうだったのか」
「ええ……」
達也は、一か八か、言葉を続けた。悪い方向に転ぶ可能性もあったが、まずは逃げることが最優先だ。今は、油断を誘って置いた方が良い。
「頑張りましたよ。神崎さんが、来るから」
あなたの為に頑張った―――と聞けば、悪い気はしないだろう。
「なんだ、やっと、可愛いことを言うようになったじゃないか。……可哀想に、あの人達から、洗脳されていたのかな」
なおも、腹がぐうぐう言っていて、恥ずかしい。朝はたんまり食べてきたが、さすがに、エネルギー切れのようだった。
「先に何か食べよう。何が良い?」
「……神崎さんの泊まっているホテルって……、何があるんですか?」
この間、呼び出された有楽町のホテルであれば……。鉄板焼き、フレンチ、和食、中華、それにダイニングバーだ。
「ああ、ちょっと待ってて……イタリアンと、ダイニングとバー……それに、簡単な和食と、ルームサービスくらいだね。ああ、君と一緒なのだから、食事はもう少しちゃんとしたものを食べられるところにすれば良かった。……何か食べたいものがあれば、今からでもねじ込めると思うよ」
それは、どこかのレストランに入ると言うことだろうか。ならば、拘束も解かれるはずだろう。
そしてできるだけ時間を稼ぎたい。運良く、スマートフォンだけは持ってきている。どこかで、助けを呼ぶ隙があるかも知れない。
「本当は、フレンチとか言いたいところなんですけど……、フレンチとかイタリアンだと、もっとちゃんとした格好じゃないと、恥ずかしいと思うんです」
「……ジャケットを着ているから大丈夫だろう?」
「安っぽい量産スーツですよ。神崎さんに恥を掻かせてしまいます。それに……人の目が気になるので……」
服装を気にするのも神崎のため、としたら、途端に機嫌が良くなる。
「そうかそうか……そうだなあ。でも、せっかく、二人だから、ゆっくりしたいね。しばらく、日本には帰らないつもりだし……よし、新橋の料亭にしよう。いつも無理を聞いて貰っているんだ。和食の食べ納めもいいよね。あそこは、食事も美味しいし、ゆっくり出来る」
新橋と聞いて、達也は、頭の中で自分の持っている情報を整理する。東京には、地の利はない。だが、主要駅の路線くらいは、それなりに知っている。新橋のどのあたりに料亭があるのか解らないが……、逃げ出せば、なんとかなりそうな場所だろうとは、推測した。
「ご無理をきいてもらうのは心苦しいですけど……、料亭って行ったことがないので、ちょっと楽しみです。それに、神崎さんとゆっくり過ごせるなら、嬉しいです。この間は、体調が悪くなってしまって帰ってしまいましたけど、やっと、ゆっくり過ごせますね」
「そうそう。……なんだか、泣いていたって聞いたから、心配してたよ、達也」
ぎゅっ、と神崎に抱きしめられる。懐かしい、神崎の薫りがした。