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第86話 トラブル続き


「なんか、達也さん、遅くないっスか?」


 池田の言葉を聞いて、凪は、ハッとした。確かに、遅い。あちこちから呼ばれて仕事が忙しくて、失念していたが、達也が戻ってきていない。


 現在、凪や興水たちは、イベント会場設営日用の、佐倉企画詰め所と呼ばれる場所にいる。


 詰め所と言っても、床に真っ赤な絶縁ビニールテープで区切っただけの場所だったが、用事が終わったら、一旦ここに戻るというのをルールにしていた。


「瀬守さん、なんか、女の人に呼ばれて行ったっきりですよね」

 朝比奈が思い出しながら言う。


「どれくらい前だった?」

 興水の顔に、緊張が走っていく。


「えっ? たしか……一時間以上は前だったと思います。広報の、IDカードを下げていたと思います」

 広報のIDカード。


 ORTUS社は、今回のイベントで、所属部署と氏名、そしてチェックイン用のQRコードが入ったIDを下げている。出入り業者のものは、色無し。ORTUS社の人たちはIDケースの縁がバイカラーになっていて、上が、コーポレートカラーの真紅。そして、下が広報部の部署カラーである紫になっている。それで一目で解る仕組みになっていた。


「広報の女の人だな」

 興水が駆け出す。凪も「俺も探します」と、興水とは反対方向に走り出した。


 朝から設営して、今はすでに18時を回っているが、まだ、あちこちが人でごった返している。


 広報のID……広報のID……。

 あちこちを探してみるが、意外な事に、広報のIDカードを下げている人が見当たらない。


「済みません、このあたりで、広報の方、見かけませんでした?」

 その辺を歩いていた出入り業者を捕まえて確認しても、


「え? ……うちらは、ORTUS本社側の人とは関わらない業種だから、ちょっと解らないですね」とか、

「あー、午前中はよくお見かけしたんですけど、夕方は全然見かけてないですね」

 などと言われてしまい、途方に暮れる。


 会場内をあちこち走り回っているとき、凪のスマートフォンに着信があった。


 もしかして、達也かと思って発信者を見ると、遠田だったので落胆しつつ、一旦、通話に出た。


「もしもし、凪だけど」

『うん、……あのさ、ちょっと気になる事があるんだけど』


「えっ? 気になる事? 今、たて込んでて……」

 遠田が気になるということならば、なにか、重大な事なのだろうが、今の凪には、それに構っている余裕がない。


(なんで―――単独で行かせたんだろう)


 ついうっかり、個人名を呼ばれたから、油断した。呼んだのが、女性だったから油断した。今日、神崎がここに来る予定にはなっていないことを、ORTUS社の友人から聞き出していたから、安心していた―――。


『まあ、お前にも、関係あることだよ。瀬守さんの件だから』


「えっ?」

 凪は、立ち止まった。「達也さんの事って……どういうこと?」


『この間、入れたアプリあるだろ。あれ、僕も、監視してるんだけど……今、ものすごい勢いで、会場から離れて、羽田近くにいるみたいだよ』


「羽田近く……?」


『そ。会場から、高速で木更津方面。そこから、海ほたる経由で、今、羽田近く』

 ここから羽田なら、普通に首都高速の湾岸線で行った方が早いのでは? と思った凪だったが、こうして、位置情報をトレースでもしていなければ、目撃情報は『木更津方面に行った』という証言になると言うことだろう。


「羽田……」

『まさかとは思うけど、イギリスに連れて行くつもり、とか』


「パスポートとか、必要だろ。あとは、イギリスでも電子認証……就労するなら、労働ビザも……」


『そういうのを全部無視して、やれる方法があるのかも知れないよね……よく解らないけど。でも、助けに行かないとマズいんじゃない?』

「ありがとう……」


 けれど、どうやって、羽田まで行けば良い。焦った凪だったが、そういえば、明日、イベントのメインステージで神崎の講演がある。テレビで宣伝までしていたのだから、キャンセルはしないだろう。だとすると。


「……神崎さんの、宿泊先……」

『あー、なるほど。とりあえず、そこから、タクで飛ばすか、羽田空港まで高速バスを捕まえるか、だと思うよ。羽田に向かってるなら、神崎さんのホテルもこのあたりに確保してるんだろうし。……そこの会場からなら、最寄り駅から高速バスが出てるはず。運が良ければ捕まえられる』


「背に腹は代えられない。タク捕まえる」

『オッケー。なにか解ったら、連絡する』


「助かる」

 凪はタクシーの配車アプリを使って、タクシーを呼び出す。丁度、会場の西側、歩いて二三分の所に、タクシーが来ていると通知が来たので、それを捕まえて、取るものも取りあえず、タクシーに乗り込む。


「羽田方面ですね。ターミナルは、どちらでしょう」

 運転士に言われて、凪は思案する。羽田はターミナルが三つ。T1が国内。T2が国内国際共用。T3が国際線だ。国際線。神崎のような立場の人ならば、大手航空会社を使うだろう。英国ならば、ブリティッシュエアラインか。それならば、T3。第三ターミナルだ。


「第三ターミナルでお願いします。もしかしたら、行き先を変更して貰うかも知れません、済みません」

 と先に謝っておく。


 運転手は「到着便が、解らないんですか?」と聞いてきた。スマホ一つの軽装で乗り込んだ凪は、どう考えても旅行者には見えないだろう。


「ああ……そうなんです。お客様がいらっしゃるんですけど、お見送りで……、国際線の方になるか、それとも、ホテルの方にお見送りか、調整が取れていないらしくって」


「ああ、そう言うこともありますよねぇ。秘書の方なんか、ノートパソコンと電話で鬼のようにあちこちと連絡し合いながら、乗ってらしたこともありますよ」


 ははは、と運転手は笑う。凪も、アプリを立ち上げる。達也に、モバイルバッテリーを渡せて良かった。スマホが生きていれば―――場所は解る。場所が解れば、そこまで行くことは出来る。


(達也さん、無事でいて……)

 祈る凪の意識を現実に引き戻したのは、興水からのLINEだった。



『おまえまでどこに行ったんだよ』


『済みません。多分、達也さん、神崎さんに拉致られました。なので、俺、現場に向かいます』


『場所は?』


『羽田方面。今、場所は探って貰ってます。……方法は聞かないでください。あとで、達也さんには謝ります』


『状況が解ったら、電話くれ』


『解りました』


 トラブル続きだ―――。


 凪は、天井を仰ぐ。


 タクシーの天井を、対向車のヘッドライトが鮮やかな光で照らしている。

 まだ、諦めてはいけない。と。凪は、腹に力を入れた。





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