「なんか、達也さん、遅くないっスか?」
池田の言葉を聞いて、凪は、ハッとした。確かに、遅い。あちこちから呼ばれて仕事が忙しくて、失念していたが、達也が戻ってきていない。
現在、凪や興水たちは、イベント会場設営日用の、佐倉企画詰め所と呼ばれる場所にいる。
詰め所と言っても、床に真っ赤な絶縁ビニールテープで区切っただけの場所だったが、用事が終わったら、一旦ここに戻るというのをルールにしていた。
「瀬守さん、なんか、女の人に呼ばれて行ったっきりですよね」
朝比奈が思い出しながら言う。
「どれくらい前だった?」
興水の顔に、緊張が走っていく。
「えっ? たしか……一時間以上は前だったと思います。広報の、IDカードを下げていたと思います」
広報のIDカード。
ORTUS社は、今回のイベントで、所属部署と氏名、そしてチェックイン用のQRコードが入ったIDを下げている。出入り業者のものは、色無し。ORTUS社の人たちはIDケースの縁がバイカラーになっていて、上が、コーポレートカラーの真紅。そして、下が広報部の部署カラーである紫になっている。それで一目で解る仕組みになっていた。
「広報の女の人だな」
興水が駆け出す。凪も「俺も探します」と、興水とは反対方向に走り出した。
朝から設営して、今はすでに18時を回っているが、まだ、あちこちが人でごった返している。
広報のID……広報のID……。
あちこちを探してみるが、意外な事に、広報のIDカードを下げている人が見当たらない。
「済みません、このあたりで、広報の方、見かけませんでした?」
その辺を歩いていた出入り業者を捕まえて確認しても、
「え? ……うちらは、ORTUS本社側の人とは関わらない業種だから、ちょっと解らないですね」とか、
「あー、午前中はよくお見かけしたんですけど、夕方は全然見かけてないですね」
などと言われてしまい、途方に暮れる。
会場内をあちこち走り回っているとき、凪のスマートフォンに着信があった。
もしかして、達也かと思って発信者を見ると、遠田だったので落胆しつつ、一旦、通話に出た。
「もしもし、凪だけど」
『うん、……あのさ、ちょっと気になる事があるんだけど』
「えっ? 気になる事? 今、たて込んでて……」
遠田が気になるということならば、なにか、重大な事なのだろうが、今の凪には、それに構っている余裕がない。
(なんで―――単独で行かせたんだろう)
ついうっかり、個人名を呼ばれたから、油断した。呼んだのが、女性だったから油断した。今日、神崎がここに来る予定にはなっていないことを、ORTUS社の友人から聞き出していたから、安心していた―――。
『まあ、お前にも、関係あることだよ。瀬守さんの件だから』
「えっ?」
凪は、立ち止まった。「達也さんの事って……どういうこと?」
『この間、入れたアプリあるだろ。あれ、僕も、監視してるんだけど……今、ものすごい勢いで、会場から離れて、羽田近くにいるみたいだよ』
「羽田近く……?」
『そ。会場から、高速で木更津方面。そこから、海ほたる経由で、今、羽田近く』
ここから羽田なら、普通に首都高速の湾岸線で行った方が早いのでは? と思った凪だったが、こうして、位置情報をトレースでもしていなければ、目撃情報は『木更津方面に行った』という証言になると言うことだろう。
「羽田……」
『まさかとは思うけど、イギリスに連れて行くつもり、とか』
「パスポートとか、必要だろ。あとは、イギリスでも電子認証……就労するなら、労働ビザも……」
『そういうのを全部無視して、やれる方法があるのかも知れないよね……よく解らないけど。でも、助けに行かないとマズいんじゃない?』
「ありがとう……」
けれど、どうやって、羽田まで行けば良い。焦った凪だったが、そういえば、明日、イベントのメインステージで神崎の講演がある。テレビで宣伝までしていたのだから、キャンセルはしないだろう。だとすると。
「……神崎さんの、宿泊先……」
『あー、なるほど。とりあえず、そこから、タクで飛ばすか、羽田空港まで高速バスを捕まえるか、だと思うよ。羽田に向かってるなら、神崎さんのホテルもこのあたりに確保してるんだろうし。……そこの会場からなら、最寄り駅から高速バスが出てるはず。運が良ければ捕まえられる』
「背に腹は代えられない。タク捕まえる」
『オッケー。なにか解ったら、連絡する』
「助かる」
凪はタクシーの配車アプリを使って、タクシーを呼び出す。丁度、会場の西側、歩いて二三分の所に、タクシーが来ていると通知が来たので、それを捕まえて、取るものも取りあえず、タクシーに乗り込む。
「羽田方面ですね。ターミナルは、どちらでしょう」
運転士に言われて、凪は思案する。羽田はターミナルが三つ。T1が国内。T2が国内国際共用。T3が国際線だ。国際線。神崎のような立場の人ならば、大手航空会社を使うだろう。英国ならば、ブリティッシュエアラインか。それならば、T3。第三ターミナルだ。
「第三ターミナルでお願いします。もしかしたら、行き先を変更して貰うかも知れません、済みません」
と先に謝っておく。
運転手は「到着便が、解らないんですか?」と聞いてきた。スマホ一つの軽装で乗り込んだ凪は、どう考えても旅行者には見えないだろう。
「ああ……そうなんです。お客様がいらっしゃるんですけど、お見送りで……、国際線の方になるか、それとも、ホテルの方にお見送りか、調整が取れていないらしくって」
「ああ、そう言うこともありますよねぇ。秘書の方なんか、ノートパソコンと電話で鬼のようにあちこちと連絡し合いながら、乗ってらしたこともありますよ」
ははは、と運転手は笑う。凪も、アプリを立ち上げる。達也に、モバイルバッテリーを渡せて良かった。スマホが生きていれば―――場所は解る。場所が解れば、そこまで行くことは出来る。
(達也さん、無事でいて……)
祈る凪の意識を現実に引き戻したのは、興水からのLINEだった。
『おまえまでどこに行ったんだよ』
『済みません。多分、達也さん、神崎さんに拉致られました。なので、俺、現場に向かいます』
『場所は?』
『羽田方面。今、場所は探って貰ってます。……方法は聞かないでください。あとで、達也さんには謝ります』
『状況が解ったら、電話くれ』
『解りました』
トラブル続きだ―――。
凪は、天井を仰ぐ。
タクシーの天井を、対向車のヘッドライトが鮮やかな光で照らしている。
まだ、諦めてはいけない。と。凪は、腹に力を入れた。