会社では最低限のやりとり以外しない、というのは凪には口うるさく言い聞かせていた。それが出来なければ、もう二度と会わないというのが約束だったので、仕事上は、さらりとしたままだった。
「瀬守さん、これ、書類チェックよろしくお願いします」
凪が書類を持ってくる。ペーパーレス化が進んだが、契約書などは依然として紙ベースなことが多い。書類の電子化は存外進んでいないのが現状で、その旅に、こうしてチェックを求められるのも、割と大変だった。
「ああ……いつまで?」
「先方、結構せっかちな人なので、
「わかった」
なるはや、ね。と口の中で反芻しながら、『緊急』のマークが付いたファイルホルダの中に書類を入れていく。
「あ、そういえば、昨日、興水さんと一緒じゃなかったですか?」
前言撤回。
まさか、ストレートに聞いてくるとは思わず、狼狽えそうになる。
「ああ、この間の出張の慰労会だとさ」
「えーっ?」
凪はわざとらしく声を上げる。周りの注目が集まった。遣りづらさを感じながら、「なんだよ」とだけ問う。
「だって、その出張って、俺が興水さんの代理で行ったヤツですよね? だったら、俺も呼んでくれたって良いじゃないですか~」
ずるい~などと、言っているので、タチがわるい。周りの注目が集まるので、無碍にも出来ない。確信犯だ。内心、苛立たしくなるが、ハタと気が付いて、笑顔を作る。
「あー、たしかに。……興水が予約してくれたから、俺も詳細は分からなかったんだよ。でも、確かに、お前も一緒にいく権利があるよな。うんうん、もし、今度興水から誘われたら、お前も誘うよ」
これは都合が良い。興水と二人で会うのは、リスクでしかない。
「あっ、本当ですか? 期待しますよ!」
「うん、興水は俺らが知らないような店を知ってるだろうから」
「わー楽しみ!」
わざとらしいやりとりをしていると、胃がキリキリしてくる。
「人数は多い方が良いしな。慰労会なら、なおさらだな」
「じゃあ、今度、絶対に一緒に行ってくださいよ」
凪が明るく笑う。だが、目が笑っていない。周りから見たら、子犬みたいにじゃれついているだけに見えるのだろうが、探り合いだ。
(だから、こういう面倒な事は勘弁して欲しいんだよ……)
もう、どうしようもない。
達也も、溜息を吐くしかない。一体、どうしてこんな事になったのか、理解出来ないからだ。凪に、『お前が言うとおり、興水はわざとダブルにしたらしいぞ』とは言いづらい。だいいち、それは、興水が達也に気があると言うことを告げているようなものだ。それは、自意識過剰な気がする。
(なんで俺なんだ?)
周りには、色々な人がいる。その中で、どれほど、性嗜好が男性という男があるか解らないが、ここまで来ると、相当な数の男がそうなのではないかと勘ぐってしまう。
(大体、顔だって十人前だし……)
対する凪も興水も、立っているだけで周りの注目を集めるような華やかな容姿をしている。
性格についても、誉められるような性格をしているわけではない。対して、凪も興水も人格者で通っている。どういうことか、全く理解出来ない。
仕事はそこそこ出来るが、自分の会社の中でという意味合いだ。外に、別会社に出てまで通用するとは思えない。つまり、業界の中では、可も無く不可も無くという程度の仕事の出来具合だろうというのが、達也の自己評価だ。
(もしかして、あいつら……、俺のことを取り合ってるつもりなんだろうか)
今まで、それを考えたことはなかったが、凪の態度と、興水を見ていると、そう言うことなのではないかと、勘ぐってしまう。
(あー、もう、職場でごちゃごちゃしたくないのに……っ)
なんとなく、凪や興水の視線を感じて、いたたまれない気分になりつつ、書類に目を落とした。契約書だ。集中して読まなければならない。だが、頭の中がごちゃごちゃしている。一度、目を閉じて、深呼吸してから書類に向かった。
自分の周りのごちゃごちゃと、仕事は別だ。
達也は、書類をゆっくりと読み進めた。
書類仕事が多い日と、外回りが多い日があるが、今日は前者だった。たまに、そういうことがある。係長というポジションに着いてから、それが増えた。
外回りは、門前払いを喰らったり、延々と嫌みを言われることもあったりするので、大変な部分もあるが、一日の訪問件数のノルマなどをクリアしていく感じが、すこし、ゲームのようで面白い部分もある。そして、その過程で、自由な時間というのも多少あるのが良かった。
けれど、書類仕事とくると、会社の中で一日中資料と書類のにらめっこ、時には電卓で計算し直しなどもあるが、基本的にはデスクに座りっぱなしになるので、肩が凝る。
大方の書類を片付けて、一旦、休憩の為に近所のコーヒースタンドに出向いた。
仕事中、ちょっと外出して買い物をするのは、許されている。職場内の休憩室には、昔からの付き合いの業者が入れていく自動販売機があるが、甘いコーヒーと牛乳と豆乳しかないからだ。
気分転換にもなって丁度良い。近所にはコンビニとコーヒースタンドがあるので、どちらでも気分で使い分けられる。
(今日は、コーヒースタンドにしよ……)
アイスコーヒーにエスプレッソをワンショット追加。ヘーゼルナッツのシロップを入れて貰うのが定番で、いつも通りに注文してドリンクの仕上がりを待っていると、後ろから不躾な声を掛けられた。
「あなた、佐倉企画の人ですよね。水野凪につきまとっている」
なにを言われているのか、よく解らなかった。