翌朝出勤する時、マンションの入り口で凪や興水が待ち伏せしていたらどうしよう、という心配がよぎったが、とりあえず、杞憂だったようだ。
(心配しすぎた、よかった)
そのまま、駅へ向かう。電車に乗って三駅も行けば会社にたどり着く。
(そういえば、興水は向かいに住んでるのが解ったけど、凪はどこに住んでるんだろ……)
自宅へ行ったことはない。
(あれ、そういえば、なんで凪も俺の自宅を知ってるんだ?)
なんとなく気付いてはいけないことに気付いてしまった気がしたが、とりあえず、気にしないことにしておいた。身の回りにストーカーがいると思ったら、すこし怖い。とりあえず何も気付かなかったふりをしていれば問題ないだろう。
電車に乗り込んだ時、すこし、げんなりした気分になったのは、興水が隣にやってきたからだった。
「やあ、おはよう」
爽やかな笑顔を見せる興水に、達也はイラッとする。
(昨日の今日で、良くこんな爽やかに挨拶できるな……こいつ)
無視してやろうかと思ったが、一応、『外』なので、無視は良くない。誰に見られているとも限らないからだ。
「ああ、おはようございます」
「……ございますって、同期なのに他人行儀な」
興水が苦笑する。
「だって、興水さん、となりの部署とはいえども上司ですからね。やっぱり、こういう所は、線引きしてないと、周りから、うるさく言われそうなんで」
もっともらしい事を言うと、興水が小さくチッと舌打ちしたのが解ったので、達也は聞こえないふりをした。
「せっかく、一緒に食事できると思ったのに……残念だったなあ。帰っちゃうんだもん」
どういう心臓の持ち主なのか、と達也が神経を疑い始めた時に、
「瀬守は、俺の部屋がどこだか、興味あるんじゃない?」
と耳元に低く囁いてきた。熱い吐息が掛かって、腰が甘く震えたが、とりあえずそれはさておき、たしかに、興水がどこに住んでいるのかは気になる。
「別に興味なんか無いよ」
「そう?」
「ああ。ただ、コレから、カーテンの開閉には気を付けようと思うよ」
まさか、他に何か仕掛けてないだろうなとは思ったが、言うことは出来なかった。
「そうなんだ。まあ、良いけど。……変質者もいるし、瀬守につきまとってる奴もいるだろ?」
凪の事を言っているのは理解したが、お前もそうだろうがと、ツッコミを入れたくなって、とりあえず黙った。
「……あいつ、目障りだよなあ。優秀じゃなかったら、どこかに配置換えするのに」
「お前それ職権濫用だろうが」
「違うだろ。仕事を優先させた結果、適材を適所に配置してるだけだよ。俺にあるのって、自分の課内の人事権くらいだからな」
ははは、と興水は笑う。どこまで本気なのか解らないが、それなりに本気のようなので、笑えない。
「お前、水野には手を出すなよ」
「なに? ……瀬守は、水野とと付き合ってるの?」
興水の目が、すう、と細くなる。剣呑な目つきに、一瞬、達也もたじろいだが、腹に力を入れて答えた。
「付き合ってないよ」
「そう? 本当に?」
「だから、社内で、ごちゃごちゃやるのは面倒だろう? ……それに、俺は、しばらく恋愛だとか、そういうのもどうでも良いんだよ」
身体だけもなんとなく満たされればいい。それだけだ。
「そうなんだ? 俺から見たら、瀬守って、結構恋愛体質っぽく見えるけどな」
「なんだよ、それ」
恋愛体質とは、一体どういう意味だ、と訝しんでいると、興水が続ける。
「一生懸命、相手の為に尽くしたりしそう。相手に全部合わせたり、いろいろ、そういうことをしそうだなと思ってさ」
否定は出来ない。かつて―――それで、痛い目にあったではないか。それを、興水は知っているのだろうか、と一瞬、冷や汗が出るのを感じる。
「本気だったら……そう言うこともあるんじゃないか?」
「ふうん」
興水は呟いてから、達也の耳元に囁く。
「じゃあ、俺と、そういう本気の恋愛、しようよ」
電車の中でナニを言ってるんだ、と達也は興水を睨み付ける。けれど、効果はなかった。興水は、余裕の表情でうっすらと笑みを浮かべている。
「なんでお前と」
「悪い物件じゃないと思うけど」
「大体、好みじゃないし、相性だって解らないだろ」
一度も寝たことはないのだから、身体の相性も解らない。達也の場合、それは、大切な要素だ。
「じゃ、今度試してみようよ。今度は、俺の部屋に来てよ」
興水は、遠慮が無い。今まで、こういうそぶりは一切見せなかったはずなのに、一度、性癖を晒したら、もうどうでも良くなったのだろう。周りには、公表したくない達也としては、こうもあけすけなのは、すこし困る。
「嫌だ。行かない」
「じゃあ、俺が、お前の部屋に行こうか?」
「部屋に行き来する前提で話をするんじゃない……なんでこんなに強引なんだよ」
はあ、と大仰に溜息を吐くと、興水は「だって仕方がないじゃないか」と呟いて、達也から視線を外した。電車の外、遠くを見ているようだった。
「仕方がない?」
「そう。仕方がないよ……俺はさ、瀬守と、恋人になりたいんだから。諦められないような商談だったら、粘るだろ? それと一緒だよ。俺は、瀬守を諦められない。まあ、ちょっと、水野が出てきて、焦っているというのはあるな。あいつ、お前と一緒に居ると、あからさまに睨んでくるんだよ」
ははは、と興水が笑う。
直属の上司でないから、睨んだところで特に影響はないだろうが……、それにしても、態度が悪いと言われてしまったら、損をするだろう。凪には言っておかなければならないかも知れない。
そんなことを達也が考えていると、興水が小さく呟いた。
「ほら、水野のことは、ちゃんと親身になって考えるんだ。俺の事は心配なんかしないくせに」
拗ねているのかも知れないが、めんどくさい。何かフォローしてやった方が良いのかも知れないが、朝から、気力を奪われている。なので、達也は、特に、なにも言わなかった。会社最寄り駅までの短い道中の残り時間を、達也と興水は無言で過ごした。
社会人の同僚としては、この距離感の方が、正しいかも知れない、とは達也も感じていた。