あの推理小説は、フリマサイトに出品してしまった。
買い手が付くとも思えなかったが、『読み終えていませんが、読む予定がなくなったので出品します』とだけ書いたら、未練がましくて、笑ってしまった。
別れた男との思い出を、今更処分するというのも、情けないことだったが、気が付いたときに遣っておいた方がいい、と思う。
あとは仕事にでも没頭していたら、少しずつ全部忘れていくだろう。
(ちょうど、仕事は忙しいしな……)
このご時世、仕事があるだけでもありがたい。忙しいならなおさらだ。
ストレスが溜まれば、また、処理だけすればいい。一番手っ取り早いストレス解消の方法は、スポーツ的なセックスだったが、それは、今は気分じゃない。
それならばそれでも良かった。セックスだけがすべてではないし。ストレスなら、寝てしまえばいいだけだ。
仕事の都合で外回りをして、帰ってくると、ちょうど、席に興水が、来ていたようだった。
「あれ、俺になんか用事あった?」
「ああ。まずは、外回りお疲れさま。……この季節でも、結構暑いだろ……急ぎの用事がなければ、休憩室にいかないか?」
冷たい飲み物くらいご馳走するよ、と興水は笑う。さらりと労ってくれる興水は、直属の上司ではないが、自分の上司には、少し見習ってもらいたいもんだと、内心ため息をついた。
「急ぎの用事はないよ? お礼のメールくらいだすけどさ」
「ああ、そうだな。それじゃ、二十分後、休憩室でいい?」
「あ、悪い」
「じゃ、あとでな」
手をひらひらと振りながら、興水は去っていく。周りの女性社員たちから、ため息が漏れるが、わからなくもない。もし、達也も、自分が女性なら、同じような行動をとっていただろうと思うからだ。
パソコンを立ち上げて、今、訪問した会社へお礼のメールを打つ。二十分あれば、落ち着いて打つ事が出来るので、一言二言、追加して送るようにしている。
コピペで作られた文面は、『コスパ』は良いかもしれないが、受け手は、味気なく感じるものだからだ。
メールを打って、休憩室に行くと、興水が待っていた。コーヒースタンドの、アイスカフェラテが二つおいてある。
「あれ? それ、どうしたの?」
「ああ。二十分もあるから、モバイルオーダーしてから買ってきた」
「え、悪かったな……」
恐縮する、達也に興水はにやりと笑う。
「まあ、下心はあるさ」
「し、下心っ!?」
今まで、まったく気にしたことはなかったが、この同僚も、達也を『そういう』目で見ているのではないかと、思ってしまった。
「あ、お前。なにか勘違いしてないか? 俺は、お前に仕事を振りたくて、カフェラテを買ってきたんだよ」
「なんだ、仕事か」
「当たり前だろ。……お前も知ってるだろうけど、うちの会社は、地元密着だ。そこからすこし脱却したくてな。別なエリアの案件に名乗りを上げたんだ。
そうしたら、先方が乗り気になってくれてな。出来ればこれを、瀬守に任せたい」
興水が、単刀直入に、言う。
「俺で良いのかよ」
「もちろん。うちの会社は、割と保守的だからな。地元を大事にするのが一番だって言うんだよ。もちろんそれも大事だろうが……それだけじゃ、将来食えなくなるだろ。
だから、他にやれることをやっておきたいんだよ」
興水の言葉には、どこか、苦々しいものを滲ませていた。
もっと上の立場の人たち……、社長や部長などと、やり合っているのは想像がついた。
「それって、メンバーは?」
新プロジェクトならば、ある程度の人物で回すだろう。
「俺とお前二人だけだ。うまくいくかどうかわからないのに、チームを作れないってさ。お前の件も、斎藤さんに土下座の勢いでお願いしたんだよ」
斎藤は、達也と興水の所属する部の部長だ。
「本気だなあ」
「仕事なんか本気でやらなかったら面白くないだろ」
興水が笑う。眩しくて思わず目を逸らしてしまった。
「俺は、もっと、惰性で働いてるなあ……」
そう思うと少し恥ずかしくもなるが、興水は、特に気にした風もなく、さらりと続ける。
「それも良いんじゃないか?」
「えっ?」
「どっちでも好きなように、自分が、いいと思う方にやればいいと思うんだよ。俺は、そういうときに、汗をかく方を選ぶけど。どうせなら、やらされるより、やるほうが気分がよさそうだと思うからさ」
それは確かにそうだった。
「お前と二人チームか」
「まあ、人手が足りなくなりそうだったら、誰かスカウトしてもいいけど……原則、残業代出ないと思ってくれ」
「ブラックだろ、それ」
「会社の命令外のことを、一応許可だけもらって、勝手にやるっていうスタイルだからなあ。でも、ここで成功させたら、一気に予算化するし、人も付けてもらう。だから、一旦、投資ということにはなるけど」
といちど興水は言葉を切って、達也をじっと見つめた。まなざしはひどく、熱い。何かと勘違いしそうになるような、熱烈なまなざしだった。
「なんだよ」
「こんなの、信用出来て、尊敬できる相手にしか頼めないよ。だから、お前なんだ」
手をとられて、ぎゅっと握られる。
「頼むよ」
念押しをするように興水はいう。より一層、強い力で手が握られた。やはり、熱くて大きな手だ。
「ったく、カフェラテじゃ、割に合わなかったかもしれないなぁ」
「リターンは約束する!」
「おう、頑張ろう。お前のことだから、勝算もなく動きはしないんだろ。確かに、こんなの『やらされる』より『やる』方が楽しそうだわ」
達也も、興水の手をぎゅっと握り返す。大変かもしれないが、わくわくした。
そして、この件で忙しければ、凪からの誘いもないだろうというので、ホッとしていた。