男あさりを始めたのは、神崎と別れてからだった。
神崎の肌に慣れてしまった身体には、禁欲生活は、とても物足りなかった。手軽に付き合える相手を求めて、マッチングに手を出すまでにはそう時間は掛からなくて、最初は、普通に『男性の恋人』を探していたのに、神崎の事が脳裏をよぎっていって、恋人、ではなくもっと割り切った関係を求めるようになった。
すぐに会えて、すぐにヤって、すぐに別れて、二度と会わない。このサイクルを繰り返していくことで、一定の満足は得られていたのだ。
ぼんやりと仕事のために使っているスマートフォンに、メッセージが入っていることに気が付いた。
『どこかで会えませんか? 達也さんの都合が付くタイミングで』
凪からだった。なにか返信しようかと思ったが、やめておいた。
ここで余計な反応をしたくない。凪とは離れる。そう、心に決めたのだ。
既読は付いたがスルーする。
「だいたい、会社のスマホに、こんなの送ってくるなよ」
しかし、文面だけ見れば、会って何をしようということは全く記載されていない。つまり、ただ、食事にでも誘っているような文面にも見える。そういうギリギリの所を狙っていたのだろう。
「めんどくさいヤツ」
呟いて、ベッドから起き上がる。そのまま、冷蔵庫へ行って、ミネラルウォーターのボトルを取りだして一口飲む。冷たくて清涼な水が、身体に広がっていく感覚があった。浄化されていくというのは大げさだが、感覚的には、そういう気持ちだった。清々しいモノが、身体の中に広がっていく感じだ。
(ついでに、もやもやも消えれば良いのに)
とは達也も思う。だが、それだけだ。それ以上のことはない。
洗面台へ行って、鏡を見る。いつもより寝ているはずなのに、どうも、顔がむくんで居るように見えた。
「なんだかなあ」
小さく呟く。
夢見が悪かったせいだろう。幸いなことが一つあるとすれば、神崎は、大出世の上、栄転して、今はイギリスで過ごしているということだ。新聞を見ていて、神崎の人事が太字の見出しで出てきたのを見た時には、改めて『違う世界』の人間だと、痛感した。ここまで、住む所が違うと、二度と、会うこともないだろう。
まだ、出勤の支度をするような時間ではない。どうしようかと悩んだ末に、読みかけの本を読む事にした。推理小説で、半分くらいまで読んだはずだったが、内容を忘れている。仕方がないので、冒頭に戻って読み始める。その時、この本は、そうやって、冒頭から半ばまでを繰り返し読んでいるということにだけは気が付いた。
本くらい、一気に読む時間が欲しいような気がする。だが、現実は、多忙すぎる。
(そうそう、忙しくて、本の一冊も読めないんだからさ、恋愛なんてもってのほかだよ)
そんなのに時間を取られるくらいだったら、寝ているか、それとも、勉強でもして居た方が、遙かに『生産性がある』だろう。
本を読み始めていたとき、ふと、思い出したことがあった。
神崎のことを、もっと知りたくて、好きなモノを教えて貰いたかった。けれど、教えてくれなくて……それは、家族で過ごす休日に遭遇した翌日だったか。
神崎に詰め寄ったのだった。
『俺は、遊びだったんですか? 昨日、町で奥さんと一緒の所を見ましたよ!』
この時になっても、あれは、妹と甥っ子、と言って欲しかったのを思い出す。
無言で前髪を書き上げ、面倒そうな溜息を漏らす神崎に、
『もっと、神崎さんの事を教えてください』
と詰め寄って、色々な事を言った。それを面倒そうに、けれどすべて聞いてから、神崎は言ったのだった。
『お前さ、なんで男同士で、なにかその先があるんだよ。……社会的にも、こんな関係を公表は出来ないだろうし、リスクが大きい』
『じゃあ奥さんは?』
『俺はさ……それなりの大学は出てるんだけど、東大じゃないんだよ。ウチの会社、学閥があってね。東大出身の奥さんでも貰わないと、出世出来ない仕組みになってるんだよ』
どういう、世界で生きている男なのか。
けれど、その、無機質で、孤独な道を行くなら、一緒に歩かせて欲しいと、達也は、切実に思う。それくらい、本気で、神崎が好きだった。
『神崎さん……』
『お前も、マジになるな。お互い、どうせ遊びなんだから』
もっと神崎に近付きたい。もっと神崎の事を知りたい。―――という気持ちは、『遊び』の言葉で片付けられた。
遊び。
神崎はそうだったのかもしれないが、達也は違う。だが、それも、否定された。『お互い』という簡単な言葉を使って、勝手に『遊び』だったことを共有された。もう、それ以上、どうしようもない。神崎を追うことは出来なくなった。
その頃から、ずっと、この推理小説を繰り返しているような気がする。
(あ、そうだった……)
神崎と過ごすとき、いつも、ラブホテルではなかった。なので、チェックイン時間まですこし間があると、ホテルのバーで呑んだり、ブティックで買い物をしたりしていたが、書店に行ったこともあった。
『ホテルにも書店があったら、長期滞在の人たちも便利だろうに』
と言いながら、神崎は書店を回る。ビジネス書しか読まないのかなと、勝手に思っていた達也だったが、神崎は、海外小説のコーナーで立ち止まった。迷わず手にとって、すこしパラパラと捲ってから、
「これは買って帰ろう」
と言って、店内をすこし回ってからレジへ向かった。
その時、神崎が買った本だった。あとで調べて、ネットの通販で取り寄せたのだった。神崎が好きなモノに、少しでも触れたかった。こういういじましい『努力』が、きっと、神崎には鬱陶しかったのだろうと思いながら、達也はページを閉じた。
忘れたかった。すでに忘れていたと思っていたのに、こうして、強烈に、あの頃の思い出と感情を突きつけられるときがある。
胸が苦しくて、息が出来ない。あの頃、何も知らないで、ただ、神崎を信じて居た頃は、ただただ、幸せだったのだ。それが、余計に苦しくさせた。