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第9話 忘れられない過去


 神崎との出会いは、会社絡みの会合だった。


 大口の取引先から呼ばれて、会合の案内状を作成したり、事業案内の動画を作ったり、会場内の様々な手配を行った。その関係で、会場の受付係を安請け合いしたのが、始まりだった。


 開場して、会合が始まってしばらくした、客足の途切れた頃、神崎は現れた。


「遅れました。神崎です」

 名刺を預かり、名簿にチェックを入れる。取引先の、管理職だとわかった。


「どうぞ」

 と名札を手渡す。


「遅れた手前、目立たないように入りたいんだけど、なにか、ないかな」


 スラリとした長身、整った顔立ち。怜悧な眼差し。どれをとっても達也の好みで、どぎまぎしつつ、式次第を確認する。


「どのタイミングまでに会場にお入りになりますか?」

「そうだなあ、新任の、プロジェクト担当の発表があるんだ。それがメインでね、だからそこまでにはなんとかしたい」


「かしこまりました」

 と受けつつ、式次第に目を走らせた。今が、主賓挨拶。このあと、乾杯があって、来賓の挨拶がある。そして様々な近況報告があったあと、新プロジェクトの概要説明になるはずだった。


「いま、こちらの主賓のご挨拶になっております。乾杯の際には一度、皆様ご起立いただきますので、このタイミングが、一番紛れやすいかと思います」


「へえ。ありがとう。そうだ、名刺交換させてくれないかな。僕は、海外事業本部の神崎です」


 スッと名刺が差し出される。達也の方は、焦ったせいで、なかなか名刺入れから名刺が出ない。


 新人で配属されて、ろくに名刺交換をしたこともない。それが、得意先の会合……しかも、大きなホテルの一番格式が高い大広間で行われるものなど、参加したこともない。焦って指が震えた。


「今年の新人さん?」

「は、はいっ!!」


 一目で新人とわかるのは、少し恥ずかしい。いかにも物慣れない、一生懸命な様子だったのだろう。


「佐倉企画さん。僕の部門とはあまり縁がないかもしれないけど、何かのタイミングでは、力を貸してね」

 にこりと、神崎は微笑む。社交辞令かもしれないが、嬉しかった。


「じゃあ、またね」




 その時は、それで終わると思っていた。


 新プロジェクトのリーダーとして華々しく登壇する神崎の姿を遠巻きに見ていると、遠い世界の人のように思えて、もらった名刺がきらめいて見えた。


 表舞台で華々しく活躍する人に対して、裏方の、受付係という自分が、少し悲しくなって来た頃、異変があった。


 豪華なドアがほんの少し空いて、そこからよろけるように人が出てきたのだった。


「あっ……!」

 神崎だった。気分が悪そうだ。思わず駆け寄る。


「神崎さん、大丈夫ですか!?」

 神崎は弱々しく頭を振った。


「少し気分が、悪くてね……どこかで休めないだろうか」

 弱々しい声が、聞こえて達也は動揺する。誰か、体調不良で倒れそうになるなど、考えたこともなかったからだ。


「大丈夫ですか? ちょっと待ってください……」

 とりあえず、人目に触れないところまで移動して、神崎のネクタイを緩める。介抱するときはそうすると、習ったのを思い出したからだ。神崎が、視線を投げたのがわかった。それを無視して、ホテルのフロントへ電話をかける。


「すみません、今、上の階で会合に出ているものですが……、一人具合が悪い方がいらっしゃいまして……」


 連絡するとすぐホテルの人が対応してくれることになった。ホッとしながら待ちつつ、神崎の、ようすを見る。

顔色が悪い。


「情けないな。寝不足でちょっと乾杯したらこの有り様だよ」

 自嘲気味に笑う美貌が、ひどく青白い。


「神崎さま、タクシーを手配いたしましょうか?」

 ホテルマンが現れて、神崎に提案する。自宅か、病院かに連れて行こうと言うのだろう。神崎の顔を見て名前が出てきたのは流石だった。


 けれど、神崎はその提案を断った。

「部屋に空きがあれば、一泊できないかな。すぐにでも横になりたくて」


 ホテルマンは少々焦っていたが、すぐに「かしこまりました。ではすぐにご用意いたします」と受けて、一度立ち去った。

「神崎さん、大丈夫ですか?」


「ああ、済まないが……僕の会社の人間に、僕はもう帰ったと伝えて貰えないかな。新プロジェクトの発表直後だというのに、体調を崩したとは、知られたくない」


「わかりました。急用でお帰りになったと伝えて来ます」と、達也は駆け出す。


 神崎の会社の重役たちに、神崎が帰った旨を伝えると「まあ、あいつも忙しい男だからね。君もご苦労さま」と労われて、恐縮した。


 重役たちに告げて回ったあと、神崎のもとへ向かう。ちょうど、部屋が用意できたところで、ルームキーを受け取っていた。


「あ、神崎さん。重役の皆様には告げてきました。あと……もし、お嫌でなければ、お部屋まで、ご一緒します。肩くらいでしたら、お貸しできますので」


 そう告げると、神崎が笑った。


「君は、素直でいいね。君みたいな真っ直ぐさは、すぐに失われるから貴重だよ。じゃあ、お言葉に甘えようか」


 神崎の重みが、肩にのしかかる。顔色は悪かったが、体は、熱かった。硬い体の感触を、右半身に感じる。


 肩を貸しているから仕方のないことだが、体が密着している。それが、なんとなく、気恥ずかしい。


「肩を借りて済まないね。おかげでかなり楽だよ」

 神崎が、言う。


「少しでもお力になれれば、良かったです」


 神崎とは、ついさっき知り合ったばかりではあったが、それでも、力になりたいと思わせるのだから、すごい人なのだろうと思う。


 密着した体からは、いい香りがする。ウッディで落ち着いた香りは、大人っぽい。その、すこし甘い薫りにくらくらしながら、達也は、部屋へ入っていった。


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