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第8話 定時退社


 興水に頼りにされたのは、単純に嬉しい。


 同期で役職がはるかに上に行ってしまったが、その分、優秀な人に認めてもらえたというのは、ありがたいことだと思っていた。


 興水のおかげで、テンションが上がったせいか、今日の仕事は予想以上にスムーズに進んで、それも良い。


 なんとなく、良いサイクルが出来上がっているように、達也には思えた。


(そうそう、俺は仕事なら仕事に集中したいんだよ)


 だから職場恋愛みたいに、近場でごちゃごちゃしたくない。

 凪も、あれから特になにも言ってこないのがありがたい。このまま、全部なかったことにしてくれれば助かる。


 それですべて元通りのはずだ。


 仕事がスムーズに済んだおかげで、珍しく定時退社すると、帰り際に、同僚から声をかけられた。


「あれ、もうお帰りなんですか? 残業の常連なのに? 明日、大雨降るかもしれないから、やめてくださいよ!」


 一つ上の先輩だったはずで、あまり話したこともないはずの人だが、妙に気安い。同じ会社で働いていればこんなものかもしれないが。


「俺だって、たまには定時退社しますよ!」

「えー、そうなの? 僕より先に帰ったことなんか一度もないのに。さては、デートでしょ。彼女いるの?」

「彼女? そんなのいないですよ」

「今まで浮いた話を聞いたこともないから、あーやーしーいー」


 先輩に絡まれる達也に、助け舟は出なかった。みんな、興味津々という感じで、聞き耳を立てている。


「俺は仕事が恋人ですって! 付き合うとか面倒で嫌なんですよ」

「えー? じゃ、彼女とかいた事ないの?」

「放っておいてください」


 確かに『彼女』はいなかった。男性としか付き合ったことはない。それも、ちゃんと『彼氏』と呼ぶ事が出来たのは一人だけで……。


(そいつも、本当は、違ったんだし)


 気分が沈んでいく達也に対して、先輩は、まだ、うざったく絡んでくる。そろそろ鬱陶しいなと思っていると、


「それ、セクハラになりますけど」

 と、冷たい声が飛んできた。


 凪だった。

 表情を殺したような、無感情な顔をして、凪が淡々と告げる。


「恋人の有無を聞くのは、セクハラになりますよ。少なくとも、業務に関係もないことですからね」

「え? こんなのがセクハラになんの? はあ、面倒くさい世の中になったなあ」

「なんですか、昭和生まれみたいなこと言って」


 凪の呆れたような声が、今はありがたい。これ以上、昔のことを聞かれたくはなかった。


「じゃ、俺は定時退社しますよ。恋人はいないんで、いまから家に帰って、飯食って寝ます!」


「あ、そう……うん、じゃあ、おつかれ?」

 先輩は啞然としながら、見送ってくれた。




 会社から家まで、電車を乗り継いで大体一時間。

 駅前には商店街があるが、寂れていて、地元の人しか行かないような居酒屋があるのと、営業時間が謎な八百屋があるくらいだ。


 商店街を抜けて少し歩いたところのワンルームマンションが達也の自宅だった。


(なんで、こんな寂れた街にしたんだったかな)


 確かに家賃は割安だが、それならばワンルームではなくて寝室が別の部屋でも良かったはずだ。実際、ここに来る前は、そういう部屋に住んでいたはずで……。


(違う)


 思い出した。前の部屋は、同棲していたのだった。当時付き合っていた男と同棲した。年上で、少し『俺様』気質な男だった。その男から離れたくて、見知らぬ町に流れ着いたのだった。


 会社関係の会合で知り合って、そのまま、なし崩し的に関係を持った。友達ではなく、一息に恋人になったのだった。社会人一年目。右も左も解らないような、子供だった頃だと、今の達也は思う。


『お前って、そういう、雰囲気があるんだよ』


 とは良く言われた。


 どうも、男を寄せる雰囲気があるという。達也自身は感じたこともない。今まで本気にしたことはなかったが、凪のことを見ているとそういう部分があるのかもしれない。


 名前は、神崎。神崎玲一。


 整った顔、長い指、低くて腰に響く声。全部大好きだった。産まれて初めて、落ちた本気の恋だった。


(なんであの人のことなんか、思い出すんだか……)


 さっき、『彼女はいないか』と言われたからだ、と達也は思う。

 彼女ではない。でも、恋人は居た。


「彼女、かあ……」

 もちろん、それは縁遠いが、それでも、特定の恋人を持つことは躊躇われた。


 コンビニで弁当を買い、部屋に戻って食べ始める。油分と塩分が強い弁当の濃い味付けは、食べ進めていくと飽きてくる。腹はいっぱいにならないのに、なぜか、これ以上食べたくないな、となってしまう。


「あーあ。俺も年かなあ」

 そろそろ三十も、見えてきた。

 新入社員の凪から見たら、十分に『オジサン』だろう。

 認めたくなくても、体は衰える。


(そういえば、凪の体は、すごかったな……)

 肌がみずみずしくて、しなやかな筋肉に包まれた体だった。脂肪分などほんの少しもついていないような、肉体。良く、ギリシャ彫刻のような……と形容されるが、まさしくそういう体だった。


 熱くて、熱くてたまらない体だ。

 あの熱い体の感覚は、クセになりそうだった。大きな手で腰を捕らえられ、好き勝手に揺さぶられるのも悪くない。力は強い。やろうと思えば、凪は達也を力でねじ伏せるのもできるだろう。だがやらない。


 好き勝手に見えるのに、もどかしいくらいに優しい。丁寧に、大切なものを扱うように触れてくる。時々、耳に直接注ぎ込まれる甘い甘い言葉。それにクラクラしながら、落ちて行きそうになって、必死になって、凪の逞しい腕にすがりつく。


 細い割に、存外、凪の体は逞しかった。

 すべてが、若々しくて、瑞々しい。


(そういや、あの人も……)

 かつての恋人も、あの当時、もう三十を超えていたはずだが、若々しかったのを思い出した。



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