安赦されて堺に帰る
着の身着のままであった四郎右衛門に、秀吉は御伽衆として邸宅を与え、堺に戻る許しを与えた。こうして赦免されただけでなく、御伽衆となって四郎右衛門は戻ってきたのである。
「なんと……」
与一郎は絶句している。四郎右衛門としては登喜に秀吉より賜った京屋敷に来てもらい、千屋は引き続き与一郎と喜兵衛に任せ、ゆくゆくは紹二に譲ることにしたいと四郎右衛門は言う。四郎左衛門には秀吉から利休の聚楽第屋敷が与えられた。
「四郎右衛門さまはそれで宜しいので?」
喜兵衛が訝しんだ顔で、利休の遺品が連子の子に受け継がれることを問い質してきた。思うところは分かる。宮王竹田氏は秦姓で、千屋田中氏は源氏であることに引っ掛かりがあるのだ。
「我らは商家であって、商いが本分。欲しければ儲けて買うなり、作らせるなりすれば好い。茶の湯を以て禄を喰むは本分に非ず」
そうは言っても、御伽衆として仕えるということは禄を喰む。聞けば四郎左衛門は御伽衆を辞退していた。
四郎右衛門はそれだけを言い残し、奥へと消えた。登喜が、旅装を解いて寛げるよう部屋着を用意したのである。喜兵衛は首を傾げた。
「あれはどういうことやろか」
喜兵衛はそばにいた六郎左衛門に尋ねてみる。
一頻り頸を傾げた紹和は微妙な顔をしたまま「まだ、伯母上のことが尾を引いているんかねぇ」と、宣った。
それはあるまい……と喜兵衛は思う。稲は利休と仲直りするように四郎右衛門に遺言しており、それを受け容れられず、悩んでいたことを知っているからだ。
「伯父上の才を受け継いでいる唯一の御人との自負か」
喜兵衛はそう独り言ちる。この喜兵衛が江戸時代、阿波千家を名乗って千道安の系譜を継いだ茶家の祖となる。
「喜兵衛さま、旦那様がお呼びです」
下女が、喜兵衛を呼びに来た。四郎右衛門が堺に滞在できる日は僅かである。少しでも多くを語りおきたいと、喜兵衛も慌てて奥へと向かうのであった。
(四郎右衛門さまには跡継ぎが居らん。ならば、舅父上との父子のことは、よくよく聞いて書き遺して置かねばなるまいて)
喜兵衛は折りをみて四郎右衛門に昔話をせがむ事にしようと決めた。四郎右衛門もそれを嫌がらず、四季折々に語って聞かせることになる。
「茶が渡来したのは、平家全盛の折でな……」
蜀地方の喫茶法が流行したのは、宋の三代皇帝真宗の皇后・劉娥――益州華陽県の出身――の点てた茶を真宗や四代皇帝・仁宗が好んだことに始まる。これを日本に伝えたのは臨済宗の開祖・葉上房栄西であった。
天台宗の僧であった栄西は、形骸化し貴族政争の具と堕落した天台宗を立て直すべく、平家の後援で仁安三年四月に宋に留学し、九月に帰国した。
文治三年、再び入宋した栄西は仏法辿流のため印度渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 建久二年、懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の道号を授かり、帰国。その際、宋で入手した茶の木の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作った。宋の喫茶は日本の様に禅宗に根付いたものではなく、広く茶芸として親しまれている。
承元五年、栄西は『喫茶養生記』を著すと、建保二年、三代将軍実朝が二日酔いで苦しんでいる時に、茶の効用を説いて茶をすすめ、『喫茶養生記』を献上した。
栄西から茶の種を譲り受けた明慧房高弁は、栂尾の高山寺で茶を育て、茶の栽培を行った。鎌倉後期になると、禅寺が全国に伝播し、各地で茶樹の栽培がおこなわれるようになる。このことが日本における茶と禅の密接な結びつきの端緒であった。
その品質には産地間で大きな差があり、最高級とされたのは京都郊外の栂尾で、特に「本茶」と呼ばれた。