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第二十服 破永立幡

えいやぶりてはたを立つ


大海の磯もとどろに寄する波

破れて砕けて裂けて散るかも

        『金槐和歌集』源実朝


 大永七年二月十二日、明六つ午前6時ごろ。桂川東岸に、細川武蔵入道どうえい率いる軍勢が集結した。道永は本営を西寺現在の唐橋西寺町公園付近に据え、総大将・足利義晴公の陣所は六条堀川の法華総本山・本圀寺に、側面の備えに武田伊豆守元光が西七条のせんしょう現在の西京極長福寺一帯に詰めている。


 道永本営には、前備にやすとみみんのじょういえつな率いる安富党や讃岐さぬき在京衆、右のわきぞなえ波々伯部ほうかべひょうのすけまさもり・源次郎国盛率いる丹波在京衆、左の脇備に一宮いちのみや小笠原掃部かもん助成正ら阿波在京衆、親衛隊とも言うべきうままわり衆には荒木のかみさだうじ・九郎ひょうのじょううじつなら近習衆、総勢三〇〇〇がいた。義晴公の本陣にはおおだて左衛門のすけひさうじみつぶちのかみはるつね・孫三郎はるおき、海老名なかつかさ大夫のだいぶ高助、細川伊豆入道れいほう、伊勢備中びっちゅうさだたつ、大舘ぎょうだいゆう政信、摂津せっつ掃部のかみもとちからが率いる兵二〇〇〇が控える。


 そして、吉祥院天満宮から城南宮の辺りまでの一帯に真一文字に陣が張られた。渡河中の攻め手を川岸で抑える迎撃の陣である。此処に奉公衆と細川一門衆の軍勢を置いた。


 現将軍直属のばん衆を押し出すことで細川六郎もといの傘下にいる国人衆が攻め掛かることをはばかるであろうという目算である。道永は多少不安を感じつつも、ただかたの自信に満ちた提言に乗った。


 一番衆は、本郷大蔵しょうゆう光泰、三淵掃部頭はるかずまっとう上野こうづけのすけ利正、ちゅうじょう刑部少輔ただいえなど。

 二番衆は、荒川少輔氏隆、結城左衛門尉くによりにながわ大和やまとちかのぶ足助あすけ中務少輔氏秀、美作みまさかさだながなど。

 三番衆は、がわ近江おうみ守国信、せんしゅう刑部少輔たかすえ、小林小五郎国家、杉原伊賀守孝盛など。

 四番衆は、こうのえちもろしげ・同伊予守もろのぶきんざん民部少輔たかざね、大和民部少輔元綱・彦次郎はるみつしも三郎左衛門尉信ら直など。

 五番衆は、狩野左京のすけ氏茂、しん美作守国秀、同十郎左衛門尉すみたね、小田加賀守重知など。


 その他、しまやましろ守光直、小笠原民部少輔たねもりこうたり掃部春広を筆頭に高橋氏・氏などの西岡被官衆が戦線中央を担う兵三〇〇〇である。


 右翼は細川右馬頭尹賢、細川刑部少輔はるひろ、細川駿河するがかたまさらが率いる摂津衆の兵一〇〇〇。左翼は上野玄蕃げんば入道いちうん、細川玄蕃頭くによし、細川はるつね、細川ひょう少輔はるただら細川一門の奉公衆や外様衆の兵一〇〇〇。


 計五〇〇〇が主力の全てである。


 後備は六角だんじょうしょうひつさだよりが渋々寄越したくも源内左衛門ゆきさだ・新左衛門さだもち父子とぶち山城守むねつな・兵部少輔たけつな父子の兵二〇〇〇で、北白川に陣取った。


 一方、山崎城を出た三好しゅぜんのかみ長基・柳本五郎左衛門尉賢治の連合軍は二万を超える軍勢が桂川の西岸、久我神社近くに本陣を置き、そこから上久世まで横陣を張る。そして、川を挟んで北を睨んだ。丹波衆と摂津衆が本陣前に陣取り右翼を、阿波衆が中央を、讃岐衆が左翼を担う。


 のちに「桂川原の戦い」と呼ばれる天下分け目の合戦が幕を開けようとしていた。三好・柳本連合軍が陣を張ったのは昼八つ刻午後2時過ぎである。


いささか早いお出ましでしたな」

「皮肉かな?」


 すっかり打ち解けた三好長基と柳本賢治が軽口を叩き合う。


「どうせ戦は夜中であろう?」

神尾山柳本賢治殿の目論見通り、奉公衆を前面に押し出して来ましたからね」


 尹賢の策戦を読んだのは賢治である。長く尹賢の下で戦ってきたこともあり、その底意地の悪さを良く理解していた。


 味方の国人衆には予想通り動揺が見られたが、問題はない。あとは夜陰に紛れて長基が虚を突くだけだ。国人衆はのようにのぼりを立て、張り子の虎である奉公衆と睨みあって貰えばよいのだ。


「では、手筈通りに。さすれば、兵三〇〇〇で、川勝寺城をおとしてみせまする」

「兵が少なくはないか?」


 長基はかぶりを振った。


「多すぎると指揮が取れませぬからな。ここは速さが肝なれば、大軍は不要かと」

「で、誰が率いる?」


 軍議では兵を出すことしか聞かされていなかったが、そろそろ明かしても差し支えあるまいと、賢治も気軽に尋ねた。れど、長基はニヤリとわらう。


それがしが。引き連れるは三好の兵のみに御座る」

「御主、正気か?」


 本陣の兵を使って強襲を掛けると長基は言った。それは、総大将自ら先陣を切るということである。柳本賢治からすれば、それは奇を衒い過ぎだ。だが、精鋭をぶつけるからこそ最大の戦果を得られるというのが長基の考えなのであろう。たしかかに三好の兵は強かった。猛将の下に弱卒なしとは良く言ったものである。


「大胆不敵だな」

「褒められておりますかな?」


 長基と賢治は笑いあった。長基は自身のを賢治に預け、左翼後方の自陣へと戻っていく。賢治は使つかいばんを走らせ、川を渡らぬよう国人衆の動きを抑えに掛かった。長基が本陣に居ると思えば道永の注意はこちらに向く。賢治の担うのは陽動と最後の止めだ。


 実を言えば先程から進軍の注進が相次いでいた。何処にでも抜け駆けや目の前の敵と戦いたがる輩は居る。それを抑え、策戦に沿わせるのが大将の仕事なのだ。それを放り出して前線で指揮を執るというだけでも三好長基という男は規格外であることが分かる。だが、嫌いではなかった。


「……破天荒な男よ。が、相容れぬか」

「誰のことで?」


 独り言に口を挟んだのは波多野孫四郎秀忠である。本来ならば山崎城に詰める筈であったが、供廻りの兵だけで本陣に来ていた。副将格の中沢掃部大夫光俊あたりが居れば良いと考えているのだろう。秀忠はあくまで父・右衛門尉元清の代理で指揮をしているだけと考えているが故の勝手であった。家督もまだ譲られていないため、重臣共が口煩いのだろう。


「三好殿のことよ。これまで阿波の者と云えば武辺者ばかりで、戦上手とは言えなかったからな」

「叔父上が褒めるほどですか」


 秀忠は智謀に優れた賢治を尊敬していた。その賢治が破天荒と褒めている。驚きを隠せなかった。


 破天荒とは「てんこうやぶる」と読み下す。現代では語感からか「型破りな人物」や「豪快で大胆な人物」のことと勘違いされ、誤用が止まぬ言葉である。元々は、『ほくげん』という宋のそんこうけんが唐や五代時代の逸話を集めた説話集にある言葉だ。科挙に合格する者が百年以上も現れなかったために、荊州は人材を輩出せぬ地として「天荒」と呼ばれていたが、ある年にりゅうぜいが科挙に通ったことから、「天荒を破った」と賞賛された故事である。つまり「前人未到のことを成した人物」の意味だ。但し、長基はまだ、事を成してはいない。


「成程、この戦は楽に勝ちを拾える、と」

「侮るなよ? 雪に阻まれて朝倉が兵を出せぬから兵が集わなかっただけだ。それに、今後、彼奴あやつが我らの前に立ち塞がろう」


 賢治は、朝倉が兵を出せば六角も出さざるを得ないし、北畠も兵を出すであろうと踏んでいた。つまり、この戦に勝っても、道永は巻き返せるだけの余力を残していことになる。そして、それを乗り切った後に来る権力闘争において最大の敵となるのが三好長基であった。


 秀忠は肩をすくめて、やれやれといった様子で、注意しますよ――と言い残して陣を離れて行った。大人しく山崎城に戻ってくれればよいがと思いながら、しょうに腰を下ろす。まだ、戦を始めるわけには行かなかった。今は、らすことが策戦の目的である。


「力を残しておくよう、皆に伝えよ」


 暮六つ午後五時過ぎまで、昼寝でもしているか――と独り言ちた。道永から仕掛けて来ることはないのだから。


 一方、道永は既に焦れていた。


「何故、攻めて来ぬ」


 一門衆も全て前線に投入したため、普段なら側にいる上野一雲や国慶、細川尹賢も不在である。この斜傾陣にもみえる配置は川沿いが故であるが、主力である細川一門を左翼と右翼に固めてあるのは、左翼が激戦区になると踏んでいたからだ。また、最終の打撃力として右翼の戦力を残してある。


 道永としては渡河の半ばで敵をくじき、ひるんだところを、武田元光率いる若狭勢を押し出し、敵左翼を敗走させるこころづもりである。奉公衆をそれに追従させれば敵陣を右回りに攻めることになり、最終的には退路も断てるという計算であった。それには、敵に攻めて来てもらわねばならない。それを支えるのが左翼の一門衆だった。


 本来であれば、このような消極的な策戦は取りたくはない。しかし、寄せ集めの奉公衆と一門衆や内衆の敗残兵を再編して組んだ急造の軍勢であり、部隊同士の連繋が巧く行くとは思えなかった。勢いには乗れるが粘り強い連繋などは全く無理である。その上、兵力は大きく劣っていた。後はない、ないが故に、受動的にならざるを得ない。


 この事態は、道永の算段が狂った為だ。越前の朝倉弾正左衛門尉たかかげは、正月に降った大雪で立ち往生。伊勢の北畠さいしょう中将のちゅうじょうはるともは長野宮内くない大輔のだいぶみちふじを筆頭とする北伊勢の国人衆が敵対して道を塞がれた。頼みの綱であった六角定頼は何故か軍勢の派兵に消極的で、僅か二〇〇〇の兵――しかも、家臣を寄越しただけである。


 道永はさらに但馬たじま備後びんご守護の山名右衛門のかみのぶとよを丹波に乱入させようと働き掛け、快諾を得た。しかし、守護代の垣屋ちくぜんつぐなりがこれをはばんでしまう。


 実は垣屋続成には波多野元清の手が伸びており、これに同心していた。更に六郎の軍師・周聡が因幡いなば守護の山名左馬助のぶみちを動かし、但馬に乱入させる。誠豊は誠通の侵攻に対応するため、丹波への出兵どころではなくなった。


 ことごとく道永の打つ手を覆されている。これは、道永を良く知る賢治が敵方に居るからだろう。未だに信じたくないという気持ちが道永にはあった。


(早めに対処せねばならぬ、か)


 寿犀柳本賢治を殺したくはない。しかし、細川京兆家と引き換えにできるものか?と問われれば「否」としか答えようがなかった。


けいちょういん殿、道永殿!」

「これは日野ごんだいごん――いや、従叔父いとこおじ上、如何なされました」


 義晴公の本陣に居るはずの日野内光が、道永を訪ねて来たことは意外であった。日野内光は将軍付の公家衆で、道永は日野内光の叔母の孫――従姪いとこおいに当たる。父・政春の母が徳大寺公有のむすめで、政春と内光は従兄弟であった。内光の父は元太政大臣の徳大寺さねあつで、現在は入道して禅光院にんけいと名乗っている。兄・前左大臣きんたねは昨年身罷ったため、家督は甥の三位中将さんみのちゅうじょうさねみちいだ。


 日野家は将軍家累代のいんせきであり、三代義満公・四代義持公・六代よしのり公・八代義政公・九代よしひさ公・十一代よしずみ公の正室が日野家から出ていた。義晴公の生母は日野阿子といい、義政公の正室・日野富子の弟・ながとしの女である。内光は、富子の兄・勝光の子・政資の養子で、政資の遺言によって家督した。道永の朝廷に於ける強い連繋役パイプである。


大樹足利義晴はんからいつ頃戦が始まるのか、と尋ねられましてな」

「成程。それは私こそ知りたい所でしてな。是非、聞いて来て頂けますかな?」


 笑いながら道永が指差した先には、三階菱に釘抜の家紋が入った大旗――牙旗がひるがえっている。内光は揶揄からかうが如き道永の態度に些かはなじろんだ。だが、久我神社の辺りに陣取ったさんしゅう陣営が一向に動こうとしないのは戦に素人の内光でも看て取れる。実のところ、既に何度か奉公衆のばんがしらに挑発するよう命じていたが、効果はなく、相手にされていないと報告が上がってきていた。


「何を考えてるのでしょうな、さんちくは」


 三筑とは「前守」の略である。このとき長基は筑前守を名乗っておらず、父・之長が名乗っていたことからそう呼んだのだ。道永は知らぬが、長基は主膳正を名乗っている。


「阿波の三好といえば、京を荒らした三好筑前守歯科知りませぬ」

「それは先代ですよ。彼奴は何でもありの大悪党でしたが、当代の三好もずるがしこいと見えまする」


 見切りをつけた道永は、日野内光に「本日の戦はございませぬが警戒は怠らぬよう――と、公方へのことづてを預けた。帰途、武田元光にも知らせるよう、陣所に寄ってほしいと頼むと、内光は戦が怖ろしいのか、喜んで退散する。念のため、使番を義晴公の陣所に走らせておいた。


「夜襲に備えて、かがりの用意をいたせ」


 使番を走らせ、全軍に通達。警戒を怠らないように指示を出しながら、自らは鎧を脱ぐ。流石にゆるりと酒は飲めぬが、ゆうぐらいはを愉しめそうだと、たんそくした。


「いつ攻めてくる?」


 道永は未だに長基の真意を計りかねていた。見れば煮炊きの煙が挙がっている。これは擬態だと道永は思った。敵は明らかにこちらからの攻めを誘っている。長対陣ならば我慢比べよ、と腰を据えた。


 夜五つ午後7時半過ぎ、闇の帳が全てを覆い隠した。本来であれば腹の膨れた月が辺りを照らしていたであろうに、雲に遮られ一帯は深淵の如しである。篝火の灯りも川向うまでは届かず、夜陰に紛れて三好長基の軍が上久世の陣所を抜けたことを気付かせなかった。馬にばいふくませ、声を押し殺し、兵には綱を握らせて、静かに閑かに進んでいる。


 夜五つ半午後8時過ぎに、最後尾にいた一宮いちのみや小笠原ない少輔しげたかかぶらを放った。


 一宮成孝は元長の姉を正室に迎えた三好氏のけいばつで、阿波一宮の大宮司と一宮城城主を兼ねている。永正十六年西暦1519年十一月の越水城の戦いで、百発百中の語源ともなった春秋時代の楚の武将・ようゆうや源頼政・那須与一になぞらえられた一宮三郎も一族である。


「来たか!」


 賢治は法螺貝を吹かせて、矢の応酬を始めると、いよいよ主力への攻撃が始まったと断じた道永は、本陣を上げてこれに応じた。しかし、鬨の声は聞こえてくるものの、一向に寄せ手の姿は見えてこず、前線からは戸惑いの声が聞こえてきた。


「敵の寄せ手は声ばかりにて、全く姿を見せませぬ」

「矢の雨は降れど、典厩勢の損害軽微!」

「三好勢、未だ動かず」

「各自そのまま各個に応戦せよ。但し、突出はするな」


 前線の状況を知らせる使番がひっきりなしに本陣を訪れ、指示を受けてまた戻っていく。あごひげを指でこそぎながら、道永は考え込む。何か腑に落ちぬのだ。見逃したことはないか、状況を加味しながら、整理していく。


 少し時を遡る。


「いつまでこうしていればいいんだ?」

「そりゃぁ、大将がいいと言うまでだろ」


 雑兵等が首を傾げながら、寄せては弓を引き絞って矢を放ち、放っては引く。矢継ぎ早に矢の雨を降らせてはいるが、この距離では大した効果はない。三好左衛門尉長家、孫七郎政長兄弟を先頭に、摂津衆の軍勢が久世神社前から川岸に出張り始めた。少しずつ両軍の距離が狭まっていたが、三好・柳本の連合軍は川を渡ることを禁じられているように川岸までしか兵を出さなかった。


「そろそろ始まるか」

「では、義兄上、行って参ります」


 香西元敬率いる香西党が本陣から離れ、三好長家・政長勢に並ぶ。牛ヶ瀬を渡った三好長基の手勢が、御室川を遡ってその時を待っていた。そして、夜四つ午後10時前の鐘が鳴る。


――ゴォォォン、ゴーン、ゴーン、ゴーン 


 三好長基は松明に火を点した。次々に灯りが渡っていき、突如として軍勢が闇から湧き出たかのようだった。


 一門の三好蔵人之秀、三好伊賀守長直、与力の篠原大和守長政・右京進長朝、同三河守長宗、篠原弾正忠持長・げん亮実長が周りに居る。


「川勝寺の武田を突く!」

――おおおおお!


 三〇〇〇の鬨の声が鯨波の如く響き渡る。先駆けは篠原持長と三好長直だ。それに続いて長基がける。突如現れた三好勢に驚いて浮足立つ武田勢。


「懸かれぇ!」


 三好長直が南門を破り、之秀が軍勢を城内へ突入させる。篠原長政・長朝・長宗が半包囲して火矢の雨を降らせた。


「死にたい奴から掛かってくるが良い!」


 好々爺のような之秀であるが、歴戦の勇士である。次から次へと敵を槍の錆にしてしまった。辺りには四〜五人の骸が転がっている。


「なんじゃ、他愛もない。武田といえども、負け戦ではこんな物か」


 館に火の手が挙がる。武田元光は三好勢の出現に策戦の裏を掛かれたことを悟った。逃げ惑う武田の兵たちを尻目に、粟屋勝春を呼び寄せる。


「逃げるぞ! 右京粟屋元隆左京粟屋元勝周防粟屋家長にも伝えよ!」

「はっ! 殿軍しんがりは如何いたしまする」


 元光は一瞬、言葉を呑んだ。この負け戦では死ねと命じる様なものである。しかし、誰かがやらねばならぬのも事実だ。ならば、粟屋党の当主である元隆と、自分の側近である勝春にさせるわけにはいかない。そうしている間に粟屋元隆と元勝、家長が手勢を引き連れてやって来た。


「殿軍は周防守粟屋家長に任せよ!」

「承った。孫四郎粟屋勝春、御屋形様を頼むぞ」

「一命に替えましても」


 家長が頷く。元光は心の中で「死ぬなよ、式部」と呟きながら手勢を連れて西門はと走った。逃げる先は六条院を避けねばならない。


「孫四郎! 六条院に撤退を伝えよ!」

「はっ!」


 武田勢は死者八〇名を出し敗退した。元光は一目散に清和院から二条方面に逃れ、山越えで若狭へと駆け抜けていく。二度と関わり合いになるものかと、苦い思いを抱いて。


 道永の本陣では、兵がざわついていた。


「あれは、川勝寺城の方じゃないか?」


 その声に、道永ははたと気付いた。


――あの鏑矢は何処で射られた?


「しまった!」


 道永の視線の先には燃え盛る川勝寺城が浮かび上がる。その炎が煌々と曇天を照らしていた。


「豆州が敗れた――まずい、上様が危うい! 者共、ついて参れ!」


 武田元光の敗退は将軍足利義晴公を丸裸にするも同然である。これに危機感を覚えた道永は自ら武田軍に救援に向かった。三好勢が追撃を

始めようとしたその横腹に軍勢をけし掛ける。


「豆州殿を救けよ! 者共、懸かれ、懸かれぃ!」

「京兆家の弱兵など押し返せ!」


 道永も長基も声がれるほどの大声を出して兵を鼓舞する。道永にとっては幸いなことに、三好勢は三〇〇〇の兵しか居らず、道永の手勢と兵力は互角であった。だが、勢いは違う。勝った勢いのある三好勢に、徐々に道永の手勢は呑まれていった。


「御屋形様! ここは危のうございます。一旦お引きくだされ」


 供回りを引き連れた荒木定氏と氏綱の父子が殿軍を申し出た。このまま自分が敗れれば、義晴公の命すら危ういかも知れない。道永は、即決した。


「すまぬ、安芸。此処を頼む。余は大樹にお逃げいただき次第戻る故」

「無用に御座る! 御屋形様は公方様を擁して近江へとお逃げくだされ。それがしへの褒美は、再び御屋形様が天下を握ることに御座います!」

「相分かった、必ずや再起してみせるぞ」


 道永は荒木定氏・氏綱父子を置いて、六条院へと撤退した。馬廻りの武将一〇名前後、雑兵三〇〇ほども討ち取られ、兵も半数が逃散している。


「すまんな、弓兵衛」

「御供仕ります」


 荒木父子が手勢十四人とともに軍勢の波に消えた。


 川勝寺城に火の手が挙がると、三好長家・政長兄弟と香西元敬が細川一門勢に襲い掛かった。柳本賢治は、強襲の必要なしと押し留めたが、こちらは乱戦となり、三好長家が重傷を負い、香西元敬に至っては討死してしまった。兵も八〇ばかり失い、これは無駄死であると賢治はほぞむ。


 本営が不在になり取り残された前線の将兵らは呆然とするばかりであったが、柳本賢治が軍勢を進めると、或る者は降伏し、或る者は手勢を連れて撤退し、中央の軍勢は霧散した。


 柳本賢治はそのまま北白川に軍を進めるとそれまで戦を観望していた六角勢は柳本勢と軽く戦って近江に撤退してしまう。賢治は軽く肩透かしを食らった気分であった。


 そして、この戦いに於いて、唯一の公家の死者があった。日野内光は武田の陣に居たことが災いし、逃亡の際に討たれたという。遺体も残らず、焼けて炭になった笏だけが残った。

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