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第十九服 至摂窺京

せついたりて京をうかが


ほのぼのとへうごの浦の朝霧に

島隠れゆく舟をしぞ思ふ 

           詠人よみびと不知しらず


 波多野まご四郎もんのじょうもときよやく九郎左衛門尉くにながの撤退を確認すると、神尾かんのおやまかみ両城の勝報を細川六郎もといへと送った。知らせを受けた六郎は、喜色を露わにしたという。すぐさま、帰参したばかりの三好えち入道そうあんの子・左衛門尉ながいえと孫七郎まさながの兄弟に書状で出陣を命じた。


「雌伏の時は終われり。くぞ、新五郎三好政長

「ようやく大兄上三好長久の仇討ちができますね! 弥六三好長家兄上」


 三好宗安は仮名を新五郎、諱をながまさといい、しきしょうゆうながゆきの次子で、ちくぜんゆきながの弟・蔵人くらんどゆきひでの兄にあたる。初め之長と共に細川讃岐さぬきしげゆきに仕えたが、永正四年西暦1507年細川六郎すみもとに率いられて上洛、大和やまとに攻め入った。以後、在京のうちしゅうとなり、なみ城を与えられている。永正六年西暦1509年に細川澄元が高国と争って敗れると、そのまま高国に仕えた。兄・之長と袂を分った訳ではなく、高国と之長の仲介をするなど、高国陣営における三好氏の窓口となっている。永正八年西暦1511年の船岡山合戦では、之長を参戦させなかった功としてたんのくにくわのこおりやまぐにのしょうを給され、えち守を許された。


 永正十七年西暦1520年、細川澄元の先鋒として之長が京に入ると、長子・新五郎ながひさは宗安から離れ澄元陣営に帰参した。しかし、ろっかくだんじょうしょうひつさだよりあさくら弾正左衛門尉たかかげしゅ大夫のだいぶよりたけの支持を得た高国が、とういんの戦いに勝利したため、立場が逆転してしまう。敗れた長久は之長と之長の三子・孫四郎ながみつ、四子・あくたがわ次郎ながのりらと共にどんいんに隠れた。高国は引き渡しを要求するも、之長は既にほったいとなっていたため院はこれを拒否。高国が生命の保証をしたことで引き渡しを了承したが、これは高国の計略であった。百万遍のおんにおいて之長と長久は即日斬首され、翌日、長光、長則も処刑された。嫡子の死を嘆いた長当は入道して宗安と号して、長家に家督を譲り、三条西実隆らと茶や歌を通じて交流するようになる。


 大永五年西暦1525年に長家が左衛門尉となると、宗安は京の三好屋敷ではなく、堺に小さな屋敷を構えて隠居した。しかし、香西元盛の誅殺、柳本賢治・波多野元清の叛乱をみて道永に仕え続ける危うさを感じ、細川尹賢らの出陣の後に挙兵するよう息子たちに文を出す。同時に細川六郎元に近侍する甥の三好彦四郎ながもとへ兄弟挙兵の報せを送った。


 三好兄弟が挙兵した榎並城は、榎並荘の小高い丘に建てられた館で、南に大和川と淀川の合流地点があり、低湿地帯が広がる。くすのまさのりが陣所を置いたことで知られ、のちに三好政長がしんをしてけんろうな要害として知られた。榎並荘の東側には室町幕府りょうしょである河内かわち十七箇所があり榎並城は十七箇所城とも呼ばれる。


 十七箇所は河内国まっ郡西部に広がる十七箇所の荘園群の総称で、池田のしょうしめ庄・くずはら庄・かみ庄・対馬つしま庄・たかやなぎ庄・おおとし庄・かみ庄・くろはら庄・かど庄・ひえしま庄・おお庄・おおくぼ庄・しも仁和寺庄・だか庄・てらかた庄・はし庄の総称で、現在の寝屋川市から守口市に掛けての地域にまたがる荘園群である。此処は京と大坂・堺を繋ぐ交通の要衝であり、畿内の大動脈であった。


 細川のかみただかたが京へ退いた後も居城に戻れなかったのは、池田弾正のじょう久宗の裏切りによって池田城が寝返ったこともあったが、三好兄弟が榎並城で挙兵し、せっへの通行が遮断されたからである。


 さらに、榎並の三好兄弟を抑えるべき薬師寺国長率いる軍勢は、諸将らの相互不信により霧散してしまい、国長は自身が城主である山崎城に逃げ込むしかなかった。そして丹波から摂津にかけては寝返る者、日和見する者が続出。道永の領国は継ぎ接ぎだらけパッチワークのように敵味方が入り乱れ、身動きがとれなくなっていた。


 長家は政長と共に兵を進め、尹賢の居城である摂津国西にしなり郡中嶋の堀城を占拠した。川を堀とした堅城も、城主が居ないのでは士気も上がらず、籠もる兵も少ないこともあって、一日もたず陥落した。


 大永六年西暦1527年十二月1月十三日15日、六郎は、てんきゅう家の弥九郎細川晴賢和泉いずみ上守護家のぎょうたいゆうもとつね、讃岐衆・淡路あわじ衆らちょくえんの手勢を整え、足利よしかた公の側近・畠山式部少輔のぶみつと亡命していた畠山上総かずさのすけよしのぶらも加えた八〇〇〇の兵を率いて堺へ上陸、堀城へ入る。諸将は皆、本格的な上洛軍の尖兵たらんとする気概を見せていた。


 畠山順光は、元々よし公の同朋衆・木阿弥の子でこうまるといった。明応二年西暦1493年の明応の政変の際、うえはらもとひでの邸宅で軟禁されたよし公の世話をしたことから寵臣となり、義材公がえっちゅうへと逃れた際には、父・木阿弥ともに下向している。そして、幸子丸はいりみょうとして畠山氏を与えられ、ろう順光を名乗ることとなった。「順」の字は畠山ひさのぶからの偏諱である。明応七年西暦1498年九月に、改名したよしただ公が越中からえちぜん一乗谷へと動座、翌八年西暦1499年には、河内国で挙兵した畠山尚順に従った。永正五年西暦1508年六月には、復職した義尹公が京都へ帰還すると、順光も上洛する。その後、永正十八年西暦1521年にさらに改名した義稙公が出奔すると、これに従い淡路まで下向した。義稙公が歿すると義賢公の将軍擁立を謀って細川讃州家と組む。義賢公は義澄公の長子で、よしはる公の兄であるが、義稙公の養子となっていた。


「皆の者、大儀である」


 堀城の主殿に六郎の姿があった。声を発したのはちくけんしゅうそうである。周聡は細川さんしゅう家のだいこうしょういんへ入り、うんしゅうてきに師事した讃州家一門衆筆の紀州家出身で一族の長老と目される人物だ。光勝院は細川相模さがみ守頼之の猶子・しょうざんしゅうが開山した寺院で、頼之の父・刑部大輔頼春の菩提所として建立されている。以来、讃州家の庇護を受け、代々讃州家一門の者が住持となっている。周適は澄元の軍師で、現在はひょう少輔うじゆきの相談役となっており、六郎の補佐は弟子の周聡に委ねられていた。


「御屋形様、上洛の第一歩を進められたこと、祝着至極に存じまする」

「うむ」


 周聡の言上に六郎が大きく頷いた。法体をくるりとひるがえして下座を向き、言葉を継いだ。


「先ずは初戦の勝ち戦、三好左衛門尉殿ならびに新五郎殿、御見事! 流石は武に長けたる三好の衆。これからも頼りに致しますぞ」

「ははっ」

「有り難き幸せ」


 そして並居る諸将の中程に控えた長家と政長が頭を下げる。周聡が仕切ることに誰も異議を挟まぬのは、六郎が当年十三歳満12歳の少年であり、文書を周聡が取次をしていたからだ。周聡は六郎の正式な奏者であり、ほしいままにしている訳ではない。法体であるということが世俗の身分を超越していると見られる、故に周聡はげんぞくする気はなかった。


 六郎と同格の畠山義宣が、上座の六郎の右に坐し、畠山順光がやや下がって並ぶ。周聡は六郎の左に坐し、弥九郎、元常が続いた。その前につどった諸将は、河内衆が河内守なりもりなかつかさのじょうひでもり父子、摂津衆が三好長家・政長兄弟、和泉衆がなべ近江おうみたかつな、淡路衆がふなこし五郎右衛門かげとも安宅あたぎけんもつひでおき・又次郎はるおき父子、讃岐衆が十河そごうきょうのじょうまさはるうえかげのぶがわ中務丞もとかげ、奈良ぜん守元信、こうむら左馬のじょうかげもととなっており、阿波衆の姿はない。


「柳本殿、波多野殿、香西殿、らせませ」

「ははっ」


 声とともに三人が評定の場に入り、先程まで三好兄弟がいたところに坐る。長家と政長は摂津衆の筆頭とされ、最も上座に入っていた。


「お初にお目に掛かりまする。それがしは柳本五郎左衛門尉賢治。これに控えまするは我が兄が嫡子、波多野孫四郎秀忠。あちらは我が義弟にて香西の名跡を継ぎましたる源蔵元敬にございまする」

「秀忠にございます」

「元敬にございます」


 平伏する三人に六郎が声を掛ける。


「苦しゅうない。おもてを上げよ」

「はっ」


 丹波衆だけでも一万を超える軍勢である。さらに香西元敬の嵐山城は山城国への橋頭堡となる大事な位置だ。決して粗略には扱えない相手である。しかし、元は道永の寵臣であり衆道の間柄と知られ、死間の可能性もあった。如何に兄を誅されての謀叛であっても用心に越したことはない。


「此度の御動座、誠に有り難く存じます。既に丹波・摂津諸将には文を送っておりまするが、いやなに、どれもこれも小勢。御屋形様が軍勢を差し向ければ立ち所に降伏いたしましょう」


 警戒されることを見越して、賢治は未だを明らかにしていない摂津国衆の調略を始めていた。多くはまだどちらに属くか決めかねている。賢治の思惑は、摂津の諸将を束ねているという印象付けだ。己が立場を優位にするためである。また、秀忠のためにも丹波に新たな勢力を殖やされぬようにとの根回しでもあった。


「流石は神尾山柳本賢治殿。御屋形様、先の先を見ておいでですぞ」

「……うむ。見事ぞ、賢治。余が京兆家家督の暁には、望みのものを取らせよう」

「有り難き幸せ。なれど、これはそれがし一人の功に非ず。波多野と香西の働きあればこそ」

「無論じゃ。両名の働きにも報いよう」

かたじけのう存じます」


 再び三人が声を揃えて頭を下げた。


 上洛戦の本隊は阿波の讃州家であるが、数万の軍勢は容易く海を渡れない。軍勢が集結するまではひと月ほど間があった。


 この間、周聡ら首脳部は次の戦略構想を固め、調略を始めている。道永の動きを想定して、その先に廻り込むことが肝腎であった。手を打つのは主に六角氏と北畠氏、山名氏、赤松氏である。どれも将軍家や道永と親しい者たちで、取り込むことは容易ではないが、中立化させるだけでも価値があった。


 六郎が下がり、諸将らも三々五々持ち場へ散り始める。そこで周聡が賢治らを呼び止めた。


「神尾山殿、お待ちくだされ」

「これは可竹軒殿。それがしに何か?」


 賢治はいささかか用心した。周聡は法体とはいえ、尹賢と似た気質を持つ。所謂、謀略型の参謀だ。尹賢よりも骨太に見えるのは阿波育ち故であろうか、その分頼り甲斐はありそうで、尹賢と比べると人望も篤い。


「警戒は無用にございますぞ。この先の展望をお聞かせいただきたい」


 これには賢治も驚いた。周聡が新参古参の垣根無く、意見を拾える人物であるとは思いもよらなかったのだ。心の中で周聡の評価を改める。周聡としては、六郎との対面が無事終わり、自身が胸襟を開くことで、人物を見定めようと考えていた。


それがし如きで宜しゅうございますか?」

「何を仰せか。神尾山殿の智慧者振り、この愚僧にまで聞こえて来るほどですぞ。謙遜なされるな」


 こうおだてられて悪い気はしない。政略は兎も角、戦略的な話ならばと、その夜に賢治らは周聡と盃を重ねた。翌日、賢治・秀忠・元敬の三人は各々帰途に就く。


 一方、道永らは散った軍勢の再編に悩まされていた。国司のきたばたけ伊勢守はるとも、近江の六角定頼、越前の朝倉孝景、因幡の山名右衛門のかみのぶとよらを味方につけ、再起を図っている。最も当てにしているのは盟友の武田伊豆守元光で、次いで女婿の北畠晴具、管領代の六角定頼であったが、承諾の返事はあるものの、一向に軍勢を催そうとはしなかった。そして、十二月1月廿六日28日には武田元光が軍勢二〇〇〇を率いて入京する。将はあわ右京のすけもとたか、同左京亮もとかつ、同周防すおう守家長と粟屋党のみの同道であった。側近の左衛門尉かつはるも連れている。


しゅう殿、此度は忝ない」

「何を仰せか。公方様御直々の軍勢催促、応じぬ訳には参りませぬ。して、情勢は?」


 上野一雲と国慶が地図を広げ、尹賢が碁石を置いていく。白、白、黒、黒、黒、白、黒、黒、黒――


「思うたより旗色が悪うござる」

「それよ。婿北畠晴具殿からはすぐにも駆けつけんばかりの文が届いたが、未だに出立の報せは無い」

「讃州びいづくり殿辺りが国司殿を阻んでおいでかもしれませんね」


 尹賢の分析に道永が同意したが、元光は鼻白んだ。たしかに六角の動きは鈍い。そのためか、朽木ら高島七頭も色良い返事を寄越さなかった。口惜しそうに道永が江南に置かれた白石を揺らす。


一雲細川元治よ、そちにまで戦働きをさせねばならんとはな。済まぬ」

「なんの、拙僧が戦でお役に立てるとは嬉しき限り。昔を思い出して槍を振るってご覧に入れまする。では、御屋形様。これにて御免」


 僧形の禿頭をツルリと撫でて、一雲は笑顔のまま踵を返す。一雲としては、道永の役に立てる嬉しさがあり、戦場に出ることに嫌はなかった。それよりも養孫の国慶と共に山城国大原野にある野田城に後詰として赴くことに意気込んでいたほどである。野田城は安富氏の寄騎である野田上野介家忠が治めるが、西岡被官衆による惣国――国一揆の自治地帯にある。ここを抜かれれば、桂川があるのみだ。


「一雲だけでは城は保つまいな……」

「ならば、安富殿を送っては如何です?」

「ふむ……」


 ジッと丹波口に置かれた黒石と白石を見つめる。戦力の逐次投入がであることは道永とて理解はしていた。然れど、戦線の維持と予備兵力を保持していることもまた大事なことである。上安富家の兵力はそれほど多くはないこともあり、本営にと考えていた。


「いや、民部安富家綱は本陣のまえぞなえに欠かせぬ」

「では、安富殿にはその旨伝えておきます」


 そう言って尹賢も下がった。


 安富家綱は細川四天王の讃岐安富氏の庶流である。安富氏の惣領家は東讃の守護代家で、宇多津を支配し雨滝城を本拠としていた。元々は清和源氏頼光流を称した下総国の民部大夫照之が足利尊氏公に抜擢されたことから始まる。安富氏の惣領家は西遷御家人であり、肥前国高来郡東郷深江村の地頭で九州にある。


 讃岐安富氏の祖たる安富照之は応永年間1368〜74年に細川頼之に従って讃岐に入り郡・さんかわ郡・おお郡の十八ヶ村を領してひら城の城主となる。照之の後は、弟の左近しょうげんてるますが継ぎ、子の照長入道運由――之照――照孝と続いたが断絶した。その頃、浦上七郎兵衛行景の子・次郎之家が分家の刑部少輔盛範の養子に入って紀姓となり、三郎左衛門督盛家と名乗って細川氏に仕え、讃岐守護代に任じられると讃岐安富氏の本宗家と目されるようになる。盛家安芸入道宝城は在京して子息・又三郎もりひらを手元に置き、庶兄・次郎左衛門盛光周防入道宝密を在地に送って又守護代家としている。さらには盛光に子がないことから、次子・民部丞盛長を養子に入れて次郎左衛門を名乗らせた。その上で、盛光・盛長父子を通して源姓安富氏の被官化を進め、家中を統一する。盛衡の後はちく守元衡が継いだが嗣子なく、盛長の養子となっていた末弟が元衡の養子となって又三郎元綱を名乗った。次郎左衛門盛長は元綱の兄として在京しつつ、在地衆を率いてよく戦い、細川勝元に抜擢され山城守を許されている。元綱は弟左京亮もりやすとともに相国寺の戦いで討死した。


 政元は元綱の子・新兵衛尉元家をさいに抜擢し、筑後守を許した。元家は修験道に没頭する政元の代行をしてよく仕えたものの、文亀元年西暦1501年、薬師寺備後守元長が歿すると政元は家臣団の統制に乗り出す。文亀三年西暦1503年には元家の決定を尽く覆し、元家腹心で兵庫代官を勤める高橋隼人のすけ光正を殺害。元家は遁世し、失脚した。元家のあとは又三郎元治が継ぐはずであったが、明応八年西暦1499年四月に廃嫡されていたため、元家の弟・新兵衛尉もとあきが当主となる。薬師寺備後守元一の更迭に失敗すると、永正元年西暦1504年六月、政元は元家を頼って呼び戻そうとしたが、既に病の身であった元家は復帰することなく七月に歿した。すると政元は廃嫡されていた元治を呼び戻して当主に据えるも、元治は同年九月に起きた薬師寺元一の乱で戦死してしまう。再び元顕が当主に返り咲いたが、永正の錯乱で澄之に属いて運命を共にした。


 高国が細川京兆家を継ぐと、元治の遺児・又三郎元成を稙国の側近として起用する。しかし、永正十一年西暦1514年、自身の高位と内実の背反に苦しんだ元成は出奔してしまった。現在は元成の遺児・謙蔵又三郎元運が当主に決まっているが幼年のため、大叔父・若槻民部丞元隆の子・又次郎家綱が一族を纏めている。家綱は父と同じ民部丞を名乗っていたが、高国からの信任も厚く、大永元年西暦1521年に相模守を許されていた。


 両陣営の軍に動きはなく、静かな歳の瀬を迎え、そして運命の年が明ける。


 ここで、讃州家陣営が一枚岩ではないことが暴露される事件が起きた。大永七年西暦1527年一月2月廿日20日、畠山義宣によって畠山順光が殺害されたのである。畠山氏は名族には珍しく入名字の者も一門として寓するのだが、義宣は順光が周聡と組んで細川六郎の管領就任を前提とした活動していることを憎んでいた。誅された順光の三人の子らは讃州家の氏之が預かることとなり、畠山義宣は陣営内で敬遠されるようになる。


 同月2月廿二日22日、波多野秀忠と池田弾正忠久宗が合流し、摂津国西成郡鷺島荘野田村の野田城を攻める。摂津野田城は平城で中洲にあり、攻め難い城であった。


 波多野勢は秀忠、弟・与兵衛尉秀親、越後守重光・三郎しげかた父子、中沢掃部かもん大夫光俊、もみ河内守照綱・右近大夫綱重父子、足立伯耆ほうき守貞基、そして酒井党のくり酒井氏より越中守信重、しろ酒井氏より駿河守氏盛、あぶら酒井氏より佐渡守益貞の総勢五〇〇〇。


 池田勢は久宗、久宗の弟・勘右衛門久正、一門の遠江守正盛の総勢二〇〇〇。


 先ずは池田勢がとっかんし、西の搦手口を占拠してみせた。これに触発された諸将はたった七日で落城させる。城主で守護代のがわ美作みまさかもとつなは頑強に抵抗したものの討死した。これによって摂津野田城は廃城となる。


 次いで同月2月廿七日27日、柳本賢治・香西元敬が山城国大原野の野田城を攻めている。山城野田城は丘陵に点てられた山城で、勝持寺から東へ伸びた支尾根野先端部を利用して築かれていた。


 柳本勢は賢治を筆頭に、新三郎はるかた内海うつみ隼人正ひさながじま右近亮まさいえかも与三郎はるしげなか忠兵衛はるやすの総勢三〇〇〇。


 香西勢は元敬を中心に彦次郎ながとも、彦五郎もとちかいく助右衛門ながひでの総勢二〇〇〇。


 賢治は勝持寺に本陣を据え、香西元敬が手勢のみを連れて南門へ突撃、大手口を守っていた上野一雲に槍をつけ突破口を開いた。若輩の当主の奮闘に煽られた諸将らはは奮起し、尾根伝いのからめぐちを攻め、こちらもたった七日で落城させる。二月3月三日5日、野田一族は城を枕に討死、上野一雲は京に落ち延びた。


 波多野勢は野田城を落とした勢いのまま、京を突くと見せかけて山崎城に攻めかかった。二月3月四日6日には陥落させている。籠もっていた山崎城城主・薬師寺国長は手勢数騎のみで高槻城へ落ち延びていった。


 柳本・香西勢はそのまま山崎城に詰め、波多野勢はその勢いのまま摂津上郡・下郡の諸城の攻略に着手した。


 芥川城城主、能勢源五郎国頼、討死。

 太田城城主、太田但馬守貞頼、討死。

 茨木城城主、茨木伊賀守長隆、降伏。

 安威城城主、安威新左衛門入道了意、降伏。

 福井城城主、薬師寺三郎左衛門尉国盛、降伏。

 三宅城城主、三宅出羽守国広、討死。


 鎧袖一触とはまさにこれであり、東摂は讃州陣営の物の支配下に入った。 


 そして二月3月八日10日、三好しゅぜんのかみ長基が堺に上陸。


 長基率いる阿波勢は三好一族の三好蔵人之秀、三好伊賀守長直を筆頭に、細川讃州家麾下の大西いず守元高、篠原大和守長政・右京進長朝、同三河守長宗、篠原弾正忠持長・げん亮実長、赤沢信濃しなの守之経、一宮長門ながと守成永、西条守元綱、鎌田兵衛尉光俊、新開遠江守元実、矢野伯耆守持村、海部下野しもつけ守之親、伊沢越前守頼政、東条紀伊守元次、桑野河内守かつあき、佐田九郎左衛門之村、土肥因幡守綱真、丹治右京亮常直、清原安芸守高国らが加わり総勢一万二〇〇〇である。


 二月3月十一日13日、波多野秀忠と三好長基が山崎城で合流。兵は雲霞のごとくひしめき合い、山崎城から溢れていた。山崎城から京までは桂川しか防衛戦を行う場所などない。細川道永は鳥羽辺りに陣を構えるであろうという意見で一致した。


「彼奴等は出てくるしかあるまいよ」

それがしも同じ思いにござる」

「いよいよ決戦の刻ですな」


 三好長基と柳本賢治、波多野秀忠が、地図を前に盃を干した。


「刻限は」

夜四つ午後10時頃

「いざ!」


 三人は高々と盃を掲げ、一斉に叩きつける。


「勝利は我らにあり!」


 総勢三万二〇〇〇の軍勢が静かにその時を待っていた。

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