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第十八服 叛服不常

そむくもふくすも不常つねならず


狭井河さゐがはよ 雲立ちわたり畝火山うねびやま

木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

      『古事記』伊須気余理比売いすけよりひめ


 嵐山城を出た柳本賢治は、丹波たんばに入っても居城の神尾かんのおやま城に寄らず、かみ城へと山陰道を急いだ。現代の山陰道は江戸時代に開かれた新街道を元に道路化した幹線道路で、当時は現在のささやま街道が山陰道である。丹波口から嵐山城を右手に見つつ、老坂おいのさか峠を通り、神尾山城を経て八上城に至る山陰道と摂津への街道筋を波多野三兄弟が押さえていた。


 丹波国は山城国の北西にあり、山陰道の入口にあたる。古語の「には」が転訛したもので、丹波だけでなく、但馬たじまたんを含めた地域のことであった。古代には丹波国造が置かれたが、律令制が成立すると但馬地域が分国し、和銅六年西暦713年に北部五郡を以て丹後国として分国して、現在の丹波国となる。故に丹波・但馬・丹後を三丹地方とも呼んでいた。国力等級は上国、距離等級は近国で、京に近い方からくわ郡、ふな郡、何鹿いかるが郡、郡、かみ郡、あま郡の六郡六十八郷あり、太閤検地では二十六万四千石弱となっている。農耕地の広くない丹波には小勢力がひしめき合っており、その中で頭一つ抜きん出て居るのが、細川氏の丹波守護代内藤氏と年寄衆の波多野氏であった。


 丹波国は大まかに言って大井亀岡盆地、由良福知山盆地、篠山盆地とそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山が隔てている。そのためまとまった地域勢力が育ちにくい地理的要因と、周囲を摂津の細川氏・但馬の山名氏・播磨の赤松氏・丹後の一色氏ら大勢力に囲まれていたこともあいって、丹波一国を一円支配した勢力は織田信長の明智光秀が丹波を統一するまで存在しなかった。そして、江戸時代にいたっても、いくつかの藩に分かれてしまい、現代では京都府と兵庫県に分断されている。


 嵐山城からくちたんとも呼ばれるなんたん東部と西部を結ぶのは山陰道で、南丹からおく丹波へと弓形に道が北上して但馬に入る。この南丹地方の入口は桑田郡で南部は神尾山城を本拠とする柳本氏が、中部は城を本拠とする宇津氏が、北部から船井郡にかけてはいまみや城を本拠とするしも氏が支配していた。船井郡には国府が置かれ、南部の城には守護代内藤氏が配され守護所を置いている。多紀郡は摂津と接しており、全域を八上城を本拠とする細川氏麾下の波多野氏が支配している。氷上郡には足立氏・芦田氏・氏が割拠し、何鹿郡から天田郡にかけては小笠原氏の庶流しお氏と波々はは氏が勢力を広げていた。


 丹波の戦国時代は管領細川政元の支配の時代である。南北朝の頃は仁木氏と山名氏が守護を争ってきたが、明徳の乱以後は細川氏単独の守護となっていた。しかし、隣国の但馬は山名氏、播磨は赤松氏、丹後は一色氏の勢力下であり、特に氷上郡から多紀郡にかけては紛争地帯となる。また、政元の基盤として国人衆が近習に引き立てられていったが、国人一揆に推戴された澄之派によって政元が倒れると、道永麾下となった内藤さだまさと波多野元清によって鎮圧され国人衆は家臣化されていった。


 賢治が八上城へ急いだのは、元盛の後嗣に岩崎源蔵を推すことに兄・波多野元清から同意を得るためだ。上香西家が独立した家であっても、賢治の意識としては波多野一族であり、一蓮托生である。すでに書状で知らせてはあるものの、元清の病も気掛かりで、どうしても直接話したかった。何よりも、賢治には掛け替えのない残されたたった一人の兄であり、元盛の死を本当に共に嘆くことができるのは元清しかいない。


 嵐山城でのあによめとの話し合いは、源蔵に元盛の長女・依里えりめあわせて入婿とし、元盛の遺児・宝蔵が成人するまでの陣代――中継ぎとすると決まった。葬儀の前に内々で納采を行って夫婦めおとの盃を交わさせ、喪が開け次第正式な婚儀を執り行うことになっている。宝蔵の元服後は源蔵を一門衆筆頭にすればよいと賢治は考えていた。これについては、年寄おとな衆のいく助右衛門ながひでと中沢五郎兵衛なおつなの同意を得ている。直ぐに道永への書状を認め、細川家からの介入を阻まねばならなった。


 波多野元清を見舞った賢治は、神尾山城に立ち寄り、側近の岩崎太郎左衛門よしながを伴って嵐山城へ取って返した。源蔵の補佐役として、吉永を嵐山城に置くことで賢治の影響力を強める狙いである。それに年若い源蔵では侮られなにかとやり難かろうが、老長けた吉永が居れば家中の勝手な動きを封じられるであろうという目論見もあった。


 嵐山に着いても休む間もない。喪主は本来宝蔵であるが、年端も行かぬこと故、源蔵が代理を務めることとなった。諸々の手配は生夷長秀と中沢直綱が担ってくれている。葬儀を終え、しょ七日なぬかを済ませれば源蔵の元服を執り行うこととなっていた。


 この当時、葬儀は初七日、ふた七日、七日、七日、いつ七日、七日を行い、なな七日で一区切りとされていた。これは十王信仰のしょうしちしちしち七斎の内、七七斎が定着したもので、この後は百日忌、一周忌、三回忌と続く。十王信仰は三国時代に支那に伝わった仏教が、唐代に道教と習合して生まれ平安時代に伝わった。平安末期になると末法思想と冥界思想と共に広まり、『地蔵十王経』が著され、鎌倉時代には十仏と相対されるようになる。


 初七日 秦広王   不動明王

 二七日 初江王   釈迦如来

 三七日 宋帝王   文殊菩薩

 四七日 五官王   普賢菩薩

 五七日 閻魔王   地蔵菩薩

 六七日 変成王   弥勒菩薩

 七七日 泰山王   薬師如来

 百日忌 平等王   観音菩薩

 一周忌 都市王   勢至菩薩

 三回忌 五道転輪王 阿弥陀如来


 大まかには上記のように定着したが、これは浄土系のしょうどうそうによって広まったことの証左であるとされ、当時の宗派では多少ゆらぎがある。


 十王信仰は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、歿後にちゅういんと呼ばれる存在となり、初七日〜七七日四十九日及び百日忌、一周忌、三回忌に、順次十王の裁きを受けることとなる――という信仰である。四十九日までの七回の審理で決まらない場合は、追加の審理が三回行われるとされた。七七斎は遺族の行う追善供養の儀式であり、裁きを受ける死者の減罪を嘆願する目的である。十王の裁きには追善供養の様子も証拠とされ、審議を左右するとされた。この十王経は、死後の世界を漠然とした物ではなく明確に定義しており、闇雲に恐れていたところから脱却した他界観を中世の人々に植え付けている。しかし、それは一人一人に対して厳しい他界であり、末法思想と結びついて地獄というものの強烈な印象を民に残した。それ故に、故人を追善する七七斎が強く望まれたのである。しかも、当時の寺院は他宗派に寛容であり、どの流派でも十王信仰による追善を行った。


 法要であれば人が集まるのに不自然さはない。特に親族や家中、友好関係にある豪族や国人らが集うのは至極当然のことだ。波多野家と柳本家、上香西家を連携させるのにこれ以上最適なものはない。また、集った者たちの同情を集められれば、この上なかった。


「叔父上、お疲れではございませんか?」


 声を掛けたのは弔問に訪れた波多野元清の嫡子・波多野孫四郎秀忠である。叔父甥といっても秀忠は賢治と十歳しか離れていなかったが。


「大事ない。それにしても、済まぬな、孫四郎。兄上のお加減が思わしくないというに」

「何を仰せですか。父は四郎叔父上の菩提を弔うのに同席できぬこと、不甲斐ないと嘆いておいででした。私では代わりにもならぬかとは存じますが、波多野家が上香西家・柳本家と共にあることを示せればと思いまする」


 秀忠は病勝ちとなった元清の代わりに波多野家を率いており、丹波支配をさらに推し進めようとしていた。八上城――神尾山城――嵐山城という波多野三兄弟の居城をより西丹や中丹へ食い込ませたいと考えているのだろう。香西元盛が欠けた今、上香西家との繋がりが絶えることこそ最も忌避すべきことと捉えているように見えた。秀忠の思惑は賢治には理解できるが、今向けるべき矛先は摂津にある。


「これで四郎兄の初七日も終わるが、私は引き続き嵐山城に在って七七日まで後見を務めねばならぬ。その間は見舞いにも行けぬ故、孫四郎、兄上を頼んだぞ」

「任され申した。叔父上もお体にお気をつけくだされ。では、七七日に」


 秀忠を見送りつつ、兄からの書状を確かめる。


――瀬をはやみ つらし思ひは 滝川の


 そこには上の句だけが書かれていた。「瀬をはやみ」の歌は『詞花集』恋部にある崇徳院の御歌である。「水の流れが二つに分かれる」という意味と「男女が別れる」という意味を掛けていることの知られる歌であり、それを引いて兄弟の別れに比していることは明らかだ。「つらし思ひは」とあるからには色々と昏い思いが積み重なっていることが分かる。「滝川」は川の流れなどが激しい様子を意味し、元盛誅殺を契機に兄・元清が蓋をしてきた激情が吹き出していることに相違なかった。


 七七日を終え、喪に服すとして人前に出なくなった賢治であったが、十月に入ると神尾山城に人が少しずつ集うようになる。それも武装をした者たちが、であった。


 そして十月十八日――


義兄あに上」

「来たか、源蔵」


 馬上からひらりと降り立ったのは岩崎源蔵――改め、香西源蔵もとたかである。


「遅くなり申し訳ありません」

「いや、構わぬ。それで幾人連れて来られたのだ?」


 続々と入場する香西勢を見ながら頼もしさを感じていた。そこには岩崎吉永や中沢直綱の姿もある。


「上香西勢七〇〇〇の内、二〇〇〇ほど」

「嵐山城は手はず通りに?」


 元敬は大きく肯く。留守居役の生夷長秀の他、香西元長の寄騎で共に討死した香西因幡守ながすけの子・彦次郎ながとも、元長に同調し謀叛したことによって没落した香西五郎左衛門尉もとつぐの子・彦五郎もとちからも嵐山城に詰める予定になっていた。


 賢治の傍らには親族衆の柳本新三郎はるかた、年寄衆の内海うつみ隼人正ひさながじま右近亮まさいえに、侍大将のかも与三郎はるしげなか忠兵衛はるやすらが脇を固め、柳本勢三〇〇〇と上香西勢を合わせて総勢五〇〇〇となった。同時に、八上城でも、五〇〇〇の軍勢が立て籠もろうとしている。


 大永六年西暦1526年十月11月十九日23日、神尾山城と八上城で波多野元清と柳本賢治が兵を挙げた。この日は香西元盛の百日忌である。道永方の諸将らの反応は微妙であり、尹賢へ通じていたはずの内藤国貞でさえ、波多野兄弟への同情を示していた。




 即日、道永の元に挙兵の報告が、尹賢より齎される。道永は呆然として手にした天目を落とした。


「そんな莫迦な……寿じゅさいが我を裏切る筈が無いっっ」

「御屋形様、波多野孫右衛門波多野元清柳本五郎左衛門尉柳本賢治が謀叛、紛いなき事にございまする」


 箕踞軒一雲細川元治が尹賢の言を肯定する。一雲にも尹賢とは異なる経路ルートで報せが入っていたからだ。


「嘘だ……嘘であろう?」


 ゴロゴロと転がった天目が周って一雲の前で止まった。一雲が天目を拾い上げ、道永に献じたが、道永は呆然としたままである。尹賢が一雲に天目台に載せるよう目配せした。その高台には供御の字が刻まれていた。


 天目の高台に供御という文字が刻まれているものは宋の宮廷で用いられていたことを意味する。最も多く刻まれているのは禾目天目で、日本に渡来したのは「供御」が殆どであった。その刻印はいくつかの種類があり、「御厨」「苑」「後苑」「貴妃」「供御」「殿」「尚薬局」等があるが、その中でも「供御」は皇帝に献ぜられる器物に刻まれたものであり、格が高いとされる。ちなみに「御厨」は厨房の厨師、「苑」は後宮外の庭園、「後苑」は宮中の庭園、「貴妃」は皇帝の側室で最も高貴な妃嬪、「殿」は執務室や皇帝の私室、書斎、様々な宮殿付の近侍、「尚薬局」は太医局の処方箋に従って薬を煎じる後宮の部署のことだ。使う場所や人物によって器を区分し、担当も変え、毒殺の危険性を排していたことが分かる。


 取り落とした天目――道永が使っていたのは義晴公より拝領の品ではあるが、として日常に使いに添えられた物であった。


「御屋形様、落ち着かれませ」


 一雲が、道永の目前に坐る。細川尹賢は脇に胡坐したままだ。細川国慶は道永の背後に控える。道永が落ち着くのを待って一雲が地図を広げた。


「既に兵は整えて御座います」

「待たれよ、典厩細川尹賢殿。それは如何なることか」


 一雲が声を荒げる。兵の動員は、尹賢とて独断で行うことはできない。直卒の兵であれば別であるが、それでは三〇〇〇が関の山だ。一雲の問い詰める様な厳しい声色に無視もできず、尹賢は事の次第を話し始める。尹賢とて波多野元清と柳本賢治の挙兵を知っていた訳ではない――いや、波多野元清が叛旗を翻す可能性はあると考えていたが、然程の脅威とは見ていなかった。それ故、摂津の讃州派の撲滅を企図していたのである。それ故に、諸将に根回しを済ませていた。


 尹賢はを国慶に持って来させると、地図の上に黒石と白石を置いていく。神尾山城と八上城、そして黒井城に黒石が置かれた。


 一瞬、不快な色を見せた道永だが、叱責の言葉を飲み込んだ。ここで尹賢との間に亀裂を入れる様な振る舞いは出来ぬ。既に年寄衆の有力武将を一人失い、二人にそむかれているのだ。これ以上、陣営の衰退を招くようなことは控えなければならない。


「典厩、如何にそなたであっても、これは、越権行為ぞ? 此度は不測の事態に間に合った故、不問に致すが、二度と同じことをしてくれるな」

「はっ! 私といたしましても、二度と同じ様なことにならぬよう手を尽くして参りまする」


 一雲は、尹賢の物言いに引っ掛かる物を感じた。現在の状況が、本来尹賢の想定していた物ではなかったとはいえ、では想定していた物は何であったのかという疑問は残る。道永も同様であったのか、一雲に向かって大きく肯いた。


「典厩は内藤備前内藤国貞長塩豊前長塩元家波々伯部兵庫波々伯部正盛ら内衆と、宇津備中宇津頼高下田美作下田広氏ら口丹波の諸将と合力して神尾山城を包囲せよ」

「承りました」

「一雲、薬師寺与一薬師寺国長塩川伯耆塩川政年瓦林修理瓦林幸綱池田弾正池田久宗に兵を出させよ。こちらは与一薬師寺国長を大将に八上城を包囲させよ」

「直ちに手配いたしまする」


 塩川政年は道永の女婿で、多田院御家人筆頭の国人にして、摂津山下城主である。


 かわらばやし修理とは瓦林修理亮ゆきつなで、こしみず城を築いた対馬守正頼の弟で四郎次郎と名乗っていたが、今は対州家陣代となって修理亮を官途としていた。瓦林氏は摂津国郡瓦林荘に興った土豪の一族で、瓦林平左衛門尉もとさだ入道ゆうが足利尊氏に従って戦功を挙げ、本領安堵および和泉国しおあななかじょうの地頭に補されて以来、塩穴庄にも勢を張った。また別に豊嶋郡くらはし庄の庄官にも就いており、この地にも分家を置いている。上瓦林を三州家が、下瓦林を雲州家が、塩穴庄中条を越州家が治めていたが、三州家と雲州家は澄元に従ったため、高国に仕えた正頼が惣領となった。瓦林城主となった正頼は苗字を河原林に改め、永正十三年西暦1516年、越水城を築いて本拠とし、瓦林城には幸綱が入った。しかし、永正十六年西暦1519年十一月三好之長によって越水城が陥落。正頼は永正十七年西暦1520年に道永に謀叛を疑われて自刃を命じられた。幸綱は瓦林城主のまま正頼の嫡子・春綱の陣代となっている。春綱はまだ年寄衆への昇進はしていなかったからだ。


 池田弾正は永正の錯乱において澄元方に与した池田筑後守さだまさの子で三郎五郎ひさむねという。父・貞正は永正五年西暦1508年高国方についた伯父・民部丞寿ひさ正の子・八郎三郎つなまさに攻められ、池田城は陥落、自刃した。久宗は逃亡して有馬郡へ逼塞する。綱正は功によって池田城を給された。永正十六年西暦1519年、久宗は弟・久正と澄元の挙兵に呼応し、しものなか城を奪取する。高国方が攻め寄せるも撃退し、首級三○を挙げ、澄元の摂津上陸を助けた功で豊嶋郡分郡守護を得た。しかし、澄元の敗退で敵中に孤立し、波多野元清の説得に応じ高国陣営に下っている。綱正が大永二年西暦1522年に歿し嫡子がまだ幼いため、久宗が陣代として池田城主に復していた。ちなみに久宗は池田貞正と波多野清秀のむすめの間に生まれた子で、波多野元清の甥である。


 道永の指示はほぼ丹波・摂津における陣営の総動員であった。道永が後詰に出るとしても本隊の兵力が少なくなる。それはつまり――


「あとは上様に言上せねばならぬ」


 武田もとみつへの出兵催促である。道永方の諸将は軍勢を調ととのえて兵を発し、十月11月廿三日27日、神尾山城に細川尹賢を大将に兵力一万、八上城に薬師寺九郎左衛門尉国長を主力として一万で包囲した。


 道永は後詰の兵を集めつつ、義晴公に謁見、奉公衆の招集を奏上し、武田伊豆守元光への軍勢催促を言上する。義晴公は政所執事の伊勢伊勢守貞忠に命じて軍勢招集の命令書を出させ、伊豆守元光へは自ら御内書を認めた。御内書は北陸取次の大館伊予守尚氏に使者を出すよう命じる。


武蔵入道細川高国、何事もなく鎮まろうか」

大樹義晴公、これしきのこと、この道永が安んじてご覧に入れまする。然れども、万が一のときは霜台六角定頼殿がお支えくださいます」

「……相分かった。武蔵入道の申す通りにいたそう」


 報を聞いて青褪めていた顔色をしていた義晴公も、すべきことをして落ち着いたのか少しだけ生気を取り戻した。道永は今後の戦略と政略を噛み砕いて披露し、讃州勢撃退を約束する。そして同月11月廿八日2日、義晴公の使者が若狭後瀬山城に向けて発せられた。


 細川尹賢率いる丹波勢は神尾山城を包囲したものの、当初の目論見とは違い長対陣を余儀なくされている。というのも、神尾山城は尹賢が縄張りした城であり、楽に攻め落とせるであろうと思われていた。神尾山城は南北に長く、東西が急勾配の山城で、北は尾根に続いてはいるものの、道はない。街道から通るのは南の金輪寺でここはほぼ城の中であり、布陣するには不向きであった。細川尹賢勢は口丹波の諸将を先陣に金輪寺のある南から攻めたが、三の丸の虎口は狭く、柳本治敬に蹴散らされている。そこで内藤国貞率いる口丹波勢を中腹から山を登らせ、二の丸を攻めようとしたが、賢治が設えた段廓――階段状の廓で遮られ、思うように攻めきれず内藤勢に負傷者が出た。これにより口丹波勢の士気は下がる一方である。


 十一月12月五日8日、二の丸口の攻め手の主将内藤国貞勢三〇〇〇が尹賢に断りなく離脱した。尹賢は激怒し、果敢に攻め立てるも、神尾山城はびくともせず、仕方なく兵糧攻めとなる。


 同月1月丗日2日未明、氷上郡黒井城主・赤井五郎時家率いる兵三〇〇〇が、三の丸口の前に陣取る塩川勢の背後から襲いかかった。軍を打ち破り、城内へ兵糧を運び入れると、さらに遠巻きにしていた尹賢の陣を強襲して山陰道へと戻っていく。従ったのは新次郎長家、孫三郎長正、彦四郎君家ら時家の弟らと、一族の荻野美濃守国知、黒井伊予守朝綱である。尹賢勢は口丹波の諸将らを残したまま、京へと撤退する途中、嵐山城に詰めていた上香西勢に襲い掛かられ、ついに潰走した。


 そして、尹賢敗退の報を受けた薬師寺国長は撤退を指示。翌十二月1月一日3日、撤退を開始した薬師寺勢の最後尾にいた瓦林幸綱を、参陣していた池田信正が寝返って襲い掛かり、瓦林勢は敗走した。


 こうして、道永は西摂津と丹波への影響力を失った。

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