髪を
たらちねはかかれとてしもぬばたまの
我が黒髪をなでずやありけむ
遍昭法師 後撰和歌集
宗珠は
「
「
「それで、これが例のものですか」
「はい。台子ではありませんので、『
台子とは、茶の湯で用いる点前道具を飾る物の中で最も格が高いとされる。それは二枚の一枚板――天板と地板を四本柱で繫いでいた。風炉・水指・杓立・建水・蓋置・天目台・茶入盆を組み合わせて飾り付ける。
元々は唐の高官らが膳として用いていたものとも言われ、南浦紹明が持ち帰った台子は巾
「これは小と同寸ですか?」
「はい。据え置くのに台子と違いまして重たいですから」
能阿弥は台子に大小を定め、小は『風炉を載せず』とし、
「副床にありそうな袋戸をあえて倹飩にされたのですな」
「
のちに『棚』は袋棚と称されるが、『棚』は戸を外して使うところに違いがあった。長菱摘みを持ち上げ、戸の左端の中板に手を添え倹飩板を持ち上げ、下から外して、脇に添えてみせた。戸を二枚とも外すと袋の部分がすっきりして、中の様子がよく見える。
「これは好いですね。戸が取り払われれば、道具が一望できます」
「折角の道具ですから、皆様に
現代でこそ「目垢が付く」などといって、道具を秘蔵したがる風潮があるが、当時は、所有者は「預かっている」という意識が強く、賞翫に重きが有る。飾られている引拙の道具組みは唐物中心であり、当時としては珍しさは無かったが、
「普段は副床に置けるようにしている訳ですか。よく考えられて居られる。流石は新三郎殿」
「いえ、堺には唐木の職人は多いのですが、京指物はなかなか作っては貰えぬので、大工の棟梁に相談したのですよ」
「それは
引拙が宗珠の言に頷く。室町期には指物を専業とする指物師が登場するが、専業で成り立つのはまだ京周辺だけであった。京以外では大工が指物もすることが多い。その上、堺はどちらかというと鉄工や織工の街で、刀鍛冶や鎧師の他などが先に専業化していた。また、指物といえば堺では唐木指物が主で、桐や檜材を用いる京指物とは求められるものも技術も異なる。このため、茶道具指物専業の職人は堺にはまだ居らず、引拙は仕方無しに町大工に相談したのだ。また、ちなみに大坂の唐木指物は奈良時代に端を発し、江戸時代に入って一大産業となった。
「それにしても惜しみなくお持ちになられましたな」
「お持ちせねば
珠光は弟子らが欲しいといえば惜しみなく譲った人物で、道具は占有するものではないという考え方であった。それ故、当時の茶の湯をする豪商らの中で、群を抜いた三十種ほどの名物道具を所持していた引拙であるが、珠光から譲られた物も多い。この日はその中から、特に珠光に縁の深い物を出していた。
一つは天下三肩衝と呼ばれる
「まさか楢柴までとは」
「これは亡き珠光さまより譲られたもの。使わずとも、違い棚に飾れば皆様喜びましょう」
手許に既にない物は待ってこれぬが、ある物は惜しみなく、但し重ねることは避けたので、他の茶入などは置いて来ている。懐かしそうに宗珠が楢柴を見た。
引拙が頼まれたのは、薄茶を出すの余韻の席であり、濃茶を出す本席は宗珠が担う。つまり、茶入を飾る必要はないのだが、宗珠の席を華やかに彩るため持参したのだ。添えられた盆は唐物彫漆盆で、牡丹唐草模様の描かれた堆朱の盆である。これは足利義政公が楢柴に相応しいと添えられた物であった。
引拙の持つ天目は
添台は黒塗の尼崎天目台で、脚の内部に「
「こうして楢柴と柿色の灰被を見ますと、
「そう仰っていただけると持ってきた甲斐があります」
引拙はほっとした様子で道具を見やる。これら引拙の唐物組みに対し、宗珠は当然の如く珠光好の竹台子で乱飾を披露した。
竹台子とは、桐の一枚板の天板と地板を竹の四本柱で繋いだ台子である。白木で漆などは用いず、真台子が書院の台子と呼ばれるのに対し、竹台子は数寄屋の台子と呼ばれた。
乱飾とは、
道具を不揃いにすることで、和漢の間を紛らかした奈良流ならではの飾り方であった。「和漢の狭間を紛らかす」とは
「では皆様、粗相の無いように」
茶会は恙無く盛況の内に終わり、宗珠が出した珠光青磁の茶盌がその白眉であったと噂された。珠光青磁は一つではなく、珠光が気に入った十ほどもある
与右衛門も、鳥居引拙の社中としてこの茶会に参加したのであるが、翌日には帰堺し、一頻り感想を捲し立てると、自室に籠もり大人しくなっていた。しかし、思うところがあったのだろう。与兵衛を呼んで唐突に家督を譲ると言い出したのである。
「わしゃ、隠居する」
与兵衛は開いた口が塞がらなかった。意外でもないのだが、既に隠居したようなものであるのに、態々宣言することも無いだろう……というのが正直な感想である。
「そらまた、なんかあったんか?」
喋りたそうにしている与右衛門を前に仕方なく応じる与兵衛。与右衛門は我が意を得たりとばかりに畳み掛ける。
「志郎も五歳になった。孫も二人とも無事に育ちよる。そろそろ身代をお前に譲って、わしゃあ、茶の湯に精進したいと思っての」
そのまま、京での茶会の話をし始める。与兵衛は胡散臭そうに感じながら、今更何を……と言わんばかりの顔をした。京の茶会に行ったかと思えば、津田宗柏の月見の茶会にも行ったばかりで、与兵衛からすれば年がら年中茶会に出掛けており、与右衛門が自分でも茶会を開きたいと道具を買い集めているのも知っていた。
「それでな、顕本寺で
「はぁ?」
与兵衛が素頓狂な声を挙げた。得度とは、僧侶になることである。与兵衛は、思わず声を挙げてしまったが、よくよく考えれば与右衛門は僧侶になるのではなく、茶人として受戒することを言っているのだと思い至った。
「それは殊勝で結構なことやけんど、その後はどないするんや」
「志郎も入門させてはどないや?」
噛み合わない会話に苦笑いしながら、与兵衛は考え込んだ。讃岐の十河との取引も順調に運び、
「それやったら、儂も挨拶に行かねばならんやろ」
「いんや、構わん。引拙先生にはもう承諾いただいとる」
与兵衛は頭を抱えた。あまりにも勝手過ぎる。志郎丸の親は自分であり、志郎丸には算術や読み書きを習わせるために千熊丸の学友とした。千熊丸は乳離れと共に顕本寺に移り、日演和尚が直々に学問を教え始めている。千熊丸も五歳となり、そろそろ武芸の稽古を始めねばならぬと、之秀は師を探していた。
顕本寺から引拙の天王寺屋は近い。通わすことは
「ほな、本人に
「そぉやな。本人の口から聞いた方が御前も納得しよう」
志郎丸に厭はなく、引拙から手解きを受けることになる。ただし、引拙は子供のうちは入門させずともよいと云い、ついで故、広く子供らに教えようと、与右衛門を介して日演に話を持っていった。日演は快諾し、顕本寺に茶の湯を教える場を作ることになる。志郎丸としては仲の良い千熊丸と共に学べるのが嬉しかった。
八月廿三日、与右衛門は志郎丸を連れて顕本寺へと来ていた。得度のためである。
「志郎はそこいらで遊んで居りなさい」
「はい、おじいさま。和尚さま、千熊さまは今、遊べますか?」
「今日は休みにしておる故、一緒に遊ぶといい」
日演ににっこりと笑顔を返すと、丁寧にお辞儀をして裏庭の方へと走っていった。案の定、裏庭に千熊丸はいた。縁に坐って脚をブラブラとさせている。
「千熊さま」
「志郎! 今日はどうしたのだ? 来るのは明日であろう?」
祖父の付き添いで来たことと今から遊んでいいと日演の許可をもらったことを話すと、千熊丸は志郎丸に抱きついた。
「よし! それならこっちだ!」
志郎丸は人並みより首一つ出るほど大柄であったが、どちらかというと物静かで学問の方が好きであったが、千熊丸が誘えば、何処へでもついて行くため、まるで千熊丸の従者のようである。背の高さからすると志郎丸がいくつか年上のようであった。
「志郎、今日は木登りをしよう」
「千熊さま、木登りは危のうございませんか」
過保護で止めようというのではない。志郎としては、千熊丸の意思を慥かめているだけだ。千熊丸もそれを承知で黙って背を叩く。すると志郎はひょいと千熊丸の股座に首を入れて肩車をし始めた。
「志郎、木を伝うから、ゆっくり起きるんだ」
「気をつけてくださいね」
千熊丸が木の幹を掴んで、志郎丸がゆっくりと立ち上がる。少しずつ千熊丸の身体が一番下の枝に近づいていった。
「よしっ、もう少しだ……掴んだっ」
太い枝を捕むために、志郎丸の肩に立ち上がる。志郎丸は腰を矯めてぐらつかないように
「千熊さまは速いですね」
「みよ、あれの向こうに父の国がある」
あぁ、そうか――と志郎丸は納得した。千熊丸は父が恋しいのだと。母の
「淡路の向こうに阿波が見えまする」
「志郎はそんなに遠くが見えるのか? まるで鷹だな」
千熊丸は隣に立つ志郎丸を驚いたようにみた。実際には、志郎丸は目が良かったのではなく、知識の眼で阿波をみたのであるが、多弁でない志郎丸は語らぬ。
「我らは乳兄弟故、志郎も千を名乗れ。鷹のように遠くを見通せるから千鷹丸でどうじゃ」
「千鷹丸……ですか」
満足気に千熊丸は微笑んだ。戸惑う千鷹丸を得度した祖父・道悦が下から見守っていた。
「志郎」
「おじいさま」
呼ばれた志郎丸が振り向いた途端、枝がミシミシと音を立てた。バキッ――と音がして志郎丸の体が沈む。
「千鷹!」
「志郎!」
与右衛門は慌てて志郎丸を受け止めようと駆けつける。それを追い越して派手な恰好をした武士が割って入るや志郎丸を抱きとめた。
「危のうござった」
「ありがとうございます。貴方様は……」
「いやなに、名乗るほどのもんじゃありゃせん」
生暖かい目で見ていた日演が口を挟む。その表情にはこの悪たれ坊主が何を恰好付けておるのかと言わんばかりであった。
「摂津の松永孫左衛門尉殿ンところの悪タレじゃ」
「和尚! 悪タレたぁ酷いじゃないか。もう元服もしておるぞ」
折角に恰好つけたことにオチをつけられて、青年はガクッと膝から崩れ落ちた。恨めしそうに日演を見上げているが、風貌からして厳つい男でありながら、何処か憎めない愛嬌があり、それでいて大仰な振りと大袈裟な物言いがまるで狂言回しのようである。
「これはこれは。孫の危ない所をありがとう存じます。私は田中与うぇ――あ、いや、道悦と申します」
「これは丁寧に。いやなに、親爺殿の用事で和尚に硯を届けに参った所でな。何事もなくてよかった。坊主、怪我はないか?」
「はい、ありませぬ。ありがとうございました……ええっと」
言い慣れない戒名に俗名を言い掛けた道悦に頷きつつ、グシャグシャと無造作に志郎丸の頭を撫でる青年に、志郎丸は聢りと礼を口にする。少しばかり驚いた顔をしたものの、好し好しと手櫛で髪を整えた。志郎丸が歳の割に聢りした口振りであったのが意外だったのだろう。木から落ちたことで鈍いのではないかと思っていたのかもしれない。
この男は摂津国島上郡
「名前か? そうじゃな、儂のことは
「……彦六様」
彦六がそう挨拶している横から、千熊丸が志郎丸仁飛びついた。必死に一人で木から降りてきたのだろう。召し物の彼方此方が汚れていた。
「千鷹! だ、大丈夫か? 怪我はないか?」
オロオロとしながらも志郎丸の体中を撫で回す。撫で回されても痛そうにしない志郎丸にようやく安心したのか、胸を撫で下ろした。
「流石に空は飛べぬか」
「千熊さま、私は人でございます」
真面目くさって言う志郎丸に千熊丸が大笑いで応える。そのやり取りを久秀が不思議そうに眺めていた。千鷹と呼ばれた大柄な稚児は道悦の孫である。では、この武士然とした稚児は誰であるかと思案していた。
「……筑前様の御子か?」
「如何にも。我は三好筑前が嫡子、千熊丸である」
久秀は膝を付いて頭を下げた。子供とはいえ、無双の武人三好之長の孫で細川讃州家の重鎮三好家の御曹司である。国人に従う土豪の倅の久秀とは身分が違った。
「そちが助けた千鷹は我が乳兄弟なれば、褒美を取らそう」
「褒美などと、滅相もない!」
「何! 我の褒美が受け取れぬと申すか!」
「いやいやいや、そうではありませぬが……」
久秀は少しばかり考え
「そうですな、それでしたら、千熊さまがご当主になられた暁には、某を直臣に取り立てていただくというのは如何?」
千熊丸が当主となるのは早くても三十年ぐらい後のことだ。その頃には久秀は家督を継いで入江政重の補佐役になっているだろうから、実現せぬと踏んでの発言である。そもそもこんな口約束を守る者は居なければ、信じて待つ者も居りはしなかった。
「許す」
「ははっ! 有り難き幸せ」
だが、その時まで十年も無いことなど、まだ誰も知らなかった。