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第十六服 神奔謀永

しんえいたばかりてはし


常よりも 睦まじきかな ほととぎす

死出の山路の 友と思へば

        鳥羽天皇 辞世の歌


 こう西ざいもともりほんとがちゅうさつされる前夜、やなぎもとかたはるは主君・細川どうえいの使者を迎えていた。使者は賢治のよりおやである細川たたかたである。臣下への使者としては大物過ぎて、如何に尹賢と賢治が平素から親しくとも、何処か違和感を感じさせた。


 寄親とは、大名で小身のじきしんを幾人か集めて預けられた有力家臣を云う。預けられた直臣らはよりと呼ばれた。あくまで軍制の中で行われることであり、寄騎と寄親は上下関係ではあっても主従関係ではない。元々は単独で部隊にはならない直臣を、単独で部隊とするには小規模な家臣に預けるなどして部隊の規模をできるだけ均一にするための制度であった。これを細川氏では方面軍を機能させるものとして、評定衆などの大身の家臣らにも適用したのである。


 これは守護代が力を持ち過ぎ、守護大名の統制が利きにくくなっていたことから、国毎に設定された守護代――郡代の地縁構造に代わるものとして細川政元の時代より徐々に敷かれて来た制度であった。のちに織田信長や羽柴秀吉、徳川家康もこれを大規模化して真似している。


 尹賢のてんきゅう家はせっ方面を担当する寄親であり、柳本氏はその寄騎である。柳本氏が預かる神尾山城はたん国であり、摂津国の西にしなり郡とひがしなり郡のぶんぐん守護である典厩家とは上郡かみのこおりを跨いで離れていた。このため、けいちょう家の統制下にあってこそ機能する。例え寄騎を糾合して謀叛をしようとも各個撃破の対象になるように組み合わせてあった。これは、室町期における守護の一円支配を妨げる分郡守護のようである。


 尹賢を丁重にもてなし、昔話に花を咲かせつつ、ひと心地ついたのを見計らって、訪問の目的を問うた。


「典厩様御自ら使者を務められるなど、何かございましたか」

「いやなに、御屋形様よりばこを預かりまして、ね。其方そなたへ手渡すように……と。押し付けられた訳ではありませんから、ご安心を」


 そういって、脇においていた文箱を賢治に進める。礼を述べつつも、賢治は内心で余計にいぶかしがった。というのも賢治が在京の時、道永は文ではなく早馬を寄越して呼び出すからである。それに対し、賢治は駿馬にて駆け付け、両刀を帯びたまま参上することになっていた。これは、如何なることにも応じられようにと、元盛と賢治の二人にだけ許されたことである。


 賢治の場合はかつしゅうどうの間柄であったことが理由であった。賢治は一身をして生涯仕えると誓い、道永は以後いろしょうを設けぬと約したのである。二人は互いのしょうもんを交換して、肌見離さず……とは言わぬまでも、大切に保管していた。


 兄の元盛が帯刀を許されているのは、道永の命を救ったことがあることや、その忠誠心の厚さを買われてのことだが、賢治と仲の良い兄であることも影響している。今や二人とも小姓から近習、評定衆に名を連ねる重臣であった。


 それにしても、尹賢が望んで使者の役を受けたというのが不自然だ。この程度のことならば、使番で十分であろうし、大事であれど小姓頭の細川くによしや側近の上野いちうんあたりに持ってこさせるのが自然といえる。その二人ではなく野州派の領袖がただの使いをするとは思えなかった。国慶や一雲は別の用事を受けて出払っていたと考えるのが、常識的な判断といえる。


――何かあったのか?


 それとも、余程の有事だったと考えるべきか。ただ、密書を入れるためのものではない文箱の中に急を要する書状や機密に類する文書がはいっているとは考えにくい。それに、尹賢をみてもいつものように笑顔で――いや、いつもより上機嫌であるように見受けられた。そこに、もう一つ引っ掛かりを感じる。賢治が知り得る限り、尹賢を取り巻く状況は明るい物ではないはずなのだ。にも関わらず尹賢は上機嫌である。


 近年、元盛と尹賢の対立は深まるばかりであり、ここ最近では不機嫌さを振りまいて私戦になるのではないかとの噂も出ていた。その上、度々元盛をざんしては道永に相手にされず、当てつけるかのように堀城にこもるを繰り返している。挙げ句に、酒でさを晴らしていた。その尹賢が、七月になり急にてんきゅうていに戻ったことは耳にしている。つまり、その頃に賢治の知らぬ出来事があったということだ。賢治はだっこうを雇っているものの、多くは讃州家側に潜ませており、家中の情報には疎い。


 ちなみに奪口とは忍び働きを指す言葉で、これには三つの理由があった。


 一、各地方の方言を身に付けている

 二、他人の喋り方や声を真似できる

 三、他人の言葉を自分の利とする


 この三つの理由から口を奪う――奪口と呼んだという。これらは特に流言の得意な者を言うわけではないが、相手からの情報を伝える専門のうか衆がいることから、役割が大まかに分かれていた。伺見衆は尹賢が受け持ち、防諜と情報収集を行っている。


神尾山柳本賢治殿、如何いかがされた」

「い、いえ、何でもありませぬ」


 明るい尹賢の声に現実に呼び戻される。嫌な予感は増すばかりだ。青ざめゆく賢治をみて、尹賢が心配そうな顔を覗かせる。少なくとも賢治を害そうという気配はなかった。その様子に賢治は恐る恐る言葉を発す。


「……御屋形様は……何か、何か仰せになられましたか」

「……コホンッ――」


 尹賢はおもむろに咳払いして、居住まいを正した。賢治も慌てて姿勢を正す。勿体振るようにいっとき、口を閉じた尹賢は口の端でかすかに嗤った。


かみやま城主、柳本五郎左衛門尉賢治に御屋形様よりの口上を伝える」

「ははっ」


 普段文など寄越さぬ道永が文を遣わした意味、尹賢がいつにも増して上機嫌な理由、近頃の不穏な噂、胸中に不安だけが渦巻く。それを押し殺し、平伏し続けた。


「嵐山城主、香西越後守元盛はほんとがにて誅殺と相成った。柳本五郎左衛門尉賢治は兄弟の情にほだされることなく、向後も忠勤に励むべし、とのお言葉である」


――やはり、四郎兄上……


 動揺を隠せない賢治の肩に手を掛け、気の毒そうな顔をしながら耳打ちした。それでも目には違う感情の色が浮かんでいる。歓喜だ――そう、元盛誅殺を心からよろこんでいるのだ。


「動かぬ証が出たのですよ」

「……密通の書状でも出て参りましたか?」


 そうなのですよ――と大袈裟に肯く尹賢。それをみた賢治はこれが尹賢の陰謀であると確信した。道永ならば離間策を疑うであろうが、賢治には絶対的な根拠がある。何故ならからだ。元盛は字もろくに書けず、書状は幼い頃はもりやくが、その後は右筆に任せきりで、字を書いたことはほとんどない。書いても字であることすらわからぬ、誰も読めぬものが紙の上を踊っていた。生涯で筆を持ったことなど、それこそ数えるほどしかないだろう。それに、ここ数年はお気に入りの右筆が居り、長年勤めていたはずだった。丹後出身で名はたしか矢野そうこうといった。


――まさか、弾正入道が?


 矢野宗好といえば、賢治は一年ほど前に、下戸なので兄にはべると酒を強要され困っていると相談されていた。それ故、あによめに頼んでへいに水を入れてもらうが良いと助言して、御礼の書状を貰ったことがある。兄は酒乱であり、飲みだすと人に絡むので、酒をたしなまぬ者にとっては付き合いにくい相手であった。そういえば、酒飲みは酒を飲まぬ者を嫌わぬがつまらぬと云い、酒を飲めぬ者は酒飲みを毛嫌いする――と誰かが言っていたのを思い出す。賢治とて、あまり酒が飲める方でないので、兄の酒好きには手を焼いていたのだが。


 彼奴きゃつだ、彼奴が兄を裏切ったに違いない――と思い至るが、目に宿った怒りの色を尹賢に見せぬため、顔を上げる訳にはいかなかった。と、同時に、此度のことが最早どうにもならぬことを否応なしに悟らさせられる。そうでなければ尹賢が賢治に明かす筈もないのだ。事態をひっくり返させない自信があるからこそ、賢治の下に立ち寄って様子を見に来たに違いない。ならばここはどう振る舞うべきか――平伏したまま、即座に言葉を絞り出した。


「柳本五郎左衛門尉賢治、御屋形様に忠節を捧げる身で御座れば、ふたごころなどいだきませぬ。兄とは言え、ほんにんなれば誅殺されても当然のこと。えんじゃ故、それがしも誅されるべきところを忠勤に励むようとの御言上、身に余る喜びに御座る」

「流石は御屋形様の寵臣ですな」


 尹賢にはこの怒りを気付かれてはならぬ――賢治は必死にこらえる。まるで本当に歓喜に震えているかのような声を挙げてみせ、尹賢を安心させねばならなかった。額を板に擦り付けるように平伏し続ける。そんな賢治に尹賢は満足気であった。


――兄上! 四郎兄上!


 この心の声が元盛に届かぬと分かっていても、届いてほしかった。賢治は兄弟の中で最も元盛と仲が良い。それは、長兄がようせつし、次兄がげんぞくするに代わり洛外東山のみょうほうへ送られた頃の思い出が基となっている。


 本来は養子に出るはずであった元盛だが、一度送られたものの、暴れん坊で手がつけられず寺から送り返された。当時、父・波多野孫右衛門尉きよひでには他に賢治しか居らず、故に賢治へ「頼んだぞ」と一言だけ声を掛けて送り出した。それが父の声を聞いた最後となったのである。父は臨済宗幻住派の仙甫寿登と懇意にしており、外交僧や僧医を派遣してもらい、寺との関係の強化を望んでいた。永正元年西暦1504年七月9月廿四日2日に父は歿した。父の死後、賢治の面倒を見たのは元清である。時節の折々に文や衣を届け、細やかな配慮があった。それは大嫂のしたことかも知れないが、賢治にとってはそれは大兄からの物であった。但し、元清に向けられた感情は父親への物に近く、勿論慕ってはいるものの、元盛程には親しさがなかった。


 元盛は本来自分が送られるはずであった寺に幼い賢治が送られたことを気に病んでいたらしく、事あるごとに稽古用の武具を送っている。この実家とえんでないということは、おさなごころにとても染み、さらに元盛は月に一度ほどではあるが、寺に来ては賢治を可愛がり、共に遊び、武芸の稽古をつけていた。それは孤独な少年の心の支えになるには十分である。故に同腹の兄弟でさえ命を奪い合う戦国の世に於いて、異腹の兄を特に慕う賢治という人物が育った。


 二人のお陰か文武両道に育ちった賢治は、その評判を聞いたやましなこうしょうてらざむらい・岩崎太郎左衛門よしながに乞われて 永正八年西暦1511年十三歳で養子となり、新左衛門よしはるを名乗った。


 寺侍は、格式の高いみやもんぜきせっ門跡などの寺院に属して警衛にあたったり、事務方を勤めた武士のことで、近侍するぼうかんの内、武家出身の者を指す。坊官の殆どは僧侶で、交友関係の広い門主らが、世俗の仕来りや慣習に詳しく、武芸を身につけた者を率いる者を必要とした。そのため、寺侍は早くに世襲化して、各地の大名や豪族の次男や三男などを養子に迎えるようになっている。


 賢治が継いだ柳本雲州家は大和国衆のやなぎもと氏の庶流であった。大和くにつくりのみやつこの末裔とされる楊本氏はこうふくだいじょういん方衆徒であり、楊本のしょうしきを与えられていた。その楊本氏の当主が歴史に名を記したのは、応永廿一年西暦1414年に大和の国人・楊本左衛門尉のりかねが山城の国人・こま伊勢守よしのりとの合戦で戦死したのが最初である。


 康正二年西暦1456年には、一条兼良の子で、奈良こうふくの大乗院門跡の門主・じんそんでらの舞台供養の導師を勤めるため、同寺に下向した際、行列の先陣を範兼の孫・のりみつが勤めた。範満は応仁の乱に際して、西軍方の畠山義就与党の越智氏派に属したが、文明三年西暦1471年閏八月9月三日17日、東軍方の畠山政長与党の十市とおち播磨守とおきよに楊本城を急襲され、範満は濠に落ちて溺死、嫡子・源次郎のりたつも自刃に追い込まれてしまう。この後数年間、楊本庄は十市氏の支配下に置かれた。


 文明七年1475年、楊本氏と十市氏の間で和議が成立し、範満の次子・源三郎のりとおは帰城した。文明九年1477年に畠山義就軍が大和に侵攻して十市遠清・新左衛門尉とおすけ父子が筒井じゅんそんはしためくにらと共に没落すると、楊本範遠はいえひでと結んで勢力を回復する。


 だが、明応二年西暦1493年、義稙公と畠山政長が、河内の畠山上総介基家義豊討伐の軍を起こすと、大和の越智方は動揺、楊本範遠は十市遠相の子・新左衛門とおはるに攻められ没落し、民もちょうさんして楊本庄は荒廃してしまう。しかし、細川政元の起こした明応の変によって畠山政長が自決、情勢が急転したため、楊本範遠はすぐに帰城する事が出来た。このことから楊本氏は細川氏に誼を通しはじめる。


 明応六年西暦1497年、畠山尾張守ひさのぶの反撃で畠山弾正少弼義豊基家が敗死すると、尚順と結んだ筒井じゅんせいが大和に帰還、楊本氏は再び没落して、楊本庄は十市遠治に与えられた。この際、遠治は長岳寺東方の山上に堅固な山城である龍王山城を築いている。範遠の跡は嫡子・のりたかが嗣いだ。


 流浪した楊本氏は細川政元に庇護され、畠山義豊基家に仕えていた又次郎いえふじも細川氏の内衆で讃岐守護代のやすとみ筑前守もりながの寄騎となった。その後、政元の近習に抜擢される。評定衆の末席に加えられて、神尾山城を預かり、出雲守を名乗った。家藤の跡は弾正忠ながはるが家督するが、長の字は安富盛長からの偏諱である。


 しかし、永正十七年西暦1520年に細川澄元の反攻によって敗走した高国軍が京へ戻る途中、山城国西岡の一揆による落ち武者狩りで出雲守長治は嫡子・弾正忠正治とともに討たれてしまった。同年五月五日に行われた等持院の戦いで勢いを取り戻した高国は、当時岩崎太郎左衛門家を継いでいた岩崎吉治柳本賢治を柳本雲州家に入嗣させたことはすでに述べた。これは当主と嗣子の二人の死によって柳本氏が弱体化するのを防ぐためである。


 賢治は文箱を携えると、そのまま出立しようとした。尹賢だけでなく、道永も欺かねばならぬ。その決意と覚悟が顔に出ていたのであろうか。


「神尾山殿、如何なされた」

「御屋形様に目通りを願い、直に感謝を述べなくては……と思いまして」

「ならば同道いたしましょう。私もやしきに戻りますので」


 それはよい、と尹賢は上機嫌で柳本邸を辞した。同道を申し出たのは、賢治の監視が目的かもしれぬ。親しいからといって気を置くわけにはいかなくなった。だが、賢治の心情としてはこのまま兄の下へ、来てはならぬと告げに行きたい。その衝動を抑え付け、尹賢とともに馬上の人となった。



 京兆邸に着くと、直ぐに主殿へと案内された。案の定、細川国慶の姿も、上野一雲の姿もない。右筆が所在無さ気に座っていた。賢治が持参した文箱はすでに道永の前に差し出している。


「よくぞ来た、五郎左衛門尉」

「御屋形様におかれましてはご機嫌麗しゅう」


 道永は賢治の顔を見て安心したのか、やや緊張の解けた様子であった。逆に、賢治はここからが一世一代の大勝負である。道永は文箱の紐に緩みがないのを看て取ると、房を弄んだ。


「開けなんだのか?」

「はい。御屋形様のお心は、曾て頂きました起請文が我が手許に御座いますれば、新たに頂かずとも」


 道永の目には涙。脇息を押しやり、賢治の手を取って大きく肯く。


「そちの忠義に疑いなど持つはずがない。ゆるせよ、寿じゅさい

「これは勿体なき仰せ。兄・香西元盛は逆心の咎にて誅せられるとのこと――謀叛人なれば、私は少しも恨みませぬ。更には連座すべきところを、兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとの言上、その御厚恩は生々世々に報いがたきもの。この上は私、向後一層の奉公にて、忠を尽くしとう御座います」


 賢治も目を潤ませながら道永の手を握りしめる。


寿犀柳本賢治!」

六郎細川道永さま……」


 道永はそのまま賢治と膝を突き合わせてことの経緯を語って聴かせた。元盛の逆心を信じたくはないが、審議をせねば家中に示しがつかぬと道永が言ったとて、尹賢が居る以上誅殺を免れ得ぬことは賢治にも分かる。それは道永の心の落とし所なのだ。文盲のことなど、今更伝えたところで何になるのか。主の苦悩が解るだけに、その心を乱すことを伝えるべきではないと、飲み込んだ。


「越後が事は、きちんと審議いたす。安心せよ。悪いようにはせぬ」

「お優しい御言葉、有り難く。然れど」


 高国の指が、賢治の口を塞ぐ。


「もう何も言わずともよい。よいのだ寿犀。……今宵は語り明かそうぞ」

「はっ……」


 翌朝、賢治はうまや殿の脇に設えられたおく書院に留め置かれた。まんじりと待つ間、万阿弥りょうくんが饗応する。義稙公より賜ったくう印の天目で茶を点てる許しを道永から得ている。但し、高国自身はそれほど御供天目を愛用しておらず、専ら気に入った者に供するだけだった。これに合わされて居たのは、義政公より先々代・勝元が賜った漢作唐物の大名物「うつぼ」肩衝に、添盆は唐物の堆朱牡丹唐草盆である。「靭」の銘は矢を入れる容器である靭に釉景が似ていることに由来する。きずで形が整っており、品が高く、漢作肩衝茶入の中でも有数の逸品とされる。全体を覆う飴釉に、柿釉が散らばって露呈し、さらに海鼠なまこ釉が柿釉の端ににじむ、正面の釉垂れを遮って爆ぜたように器膚を覗かせている釉切れがあり、その変化が異色の見どころとなっている。後にこの肩衝は「天下


 香西元盛はいずみ殿にてその命を散らし、賢治はだいを弔う許可を得て、道永より首を下げ渡され、神尾山城への途に就いたが、その足取りは重かった。途中、嵐山城に立ち寄らねばならぬ。あによめに一体どう告げたものか、思案はまとまらなかった。


――ほうぞうはまだ三つ。家督するには幼すぎる


 宝蔵丸は兄・元盛の遺児である。香西元長のむすめとの間に生まれた子で、上香西家の正統な跡継ぎだ。しかし、三歳の幼子に家督は継げぬ。嫂が未亡人として仕切るという手もなくはないが、些か気が弱かった。


――無理だな。


 嫂はこの乱世で一党を切り盛りできるほど押し出しの強い女性ではない。ならば誰かを当主に立てねばならぬが、誰が良いだろうか。嵐山城へ向かう道に馬を走らせながら勘案するしかない。


 この場合、当主に立てるのは中継ぎである。そうなると、出来れば波多野に連なる者か己の縁者で、行く行くは別家を建てさせることの出来る人物でなければならなかった。でなければ、内訌に発展する。


――源蔵が好いかも知れぬ


 つきしたがう若武者を看てふと思い至る。源蔵とは、岩崎源蔵のことで、岩崎太郎左衛門吉永の婿養子となった賢治の義弟で、現在は賢治の小姓を務めていた。妻は吉永の遠縁で、源蔵はその弟である。まだ成人していなかった。ちなみに、岩崎吉永は賢治が柳本雲州家を継ぐにあたって賢治の近侍として事務方を務めている。


――いや、源蔵しか居らぬ。


 あれこれと考えすぎても纏まらぬ。先ずは嫂を説得し、次いで次兄・波多野元清に同意をしてもらう。丹波波多野家は甥の秀忠がいるし、まだ子のない賢治は末の同母弟を養子にしていた。


義兄あに上?」

「気にするでない。急ぐぞ!」


 馬を奔らせ嵐山城へと駆けてゆく。先駆ける賢治に必死に喰らいつく源蔵と供廻りの者らが風となった。


 その後、三月もの間、柳本賢治と波多野元清は香西元盛の喪に服し、葬儀以外、人前に姿を現さなかった。

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