厩は謀りて嵐を誅す
埋れ木の花さく事もなかりしに
身のなるはてぞ悲しかりける
源頼政辞世
香西元盛が嵐山城に謹慎させられてから一月が経った。これまで、細川尹賢は元盛の非を打ち鳴らし、細川道永に七回弾劾状を上奏している。しかし、道永は元盛への弾劾を全て却下しており、尹賢はひとり臍を噛む思いをしていた。
――彼奴を誅さねばならぬ
御成の宴や土一簀だけではない。一体どれだけ虚仮にされてきたか思い出すだけでも腹立たしい。尹賢の憎しみは元盛の死を願うほどに膨らんでいた。故に、完成したばかりの堀城の本丸で、一人酒を煽って憂さを晴らすしかない。
現在、京兆家には四つの派閥がある。代々の一門衆や姻戚などの『連枝派』と高国以後台頭した野州家の一門や分家筋・姻戚などの『野州派』、歴代の評定衆や内衆などの『旧臣派』、そして近習から取り立てられた新参の評定衆などの最も少ない『側近派』だ。それぞれが対立しているが、全てが対立している訳ではない。例えば、連枝派は野州派と親しくはないが、近習派への反発に比べるとやや野州派寄りで、旧臣派とは対立していた。旧臣派も近習派や連枝派とは対立しているが、野州派とは対立していない。
香西元盛も兄・波多野元清、弟・柳本賢治も共に側近派だ。
そんな中、評定衆の内藤国貞が、同じ丹波に領地を持つ新興勢力である波多野元清を警戒して、野州派筆頭の尹賢に近づいていた。旧臣派の丹波守護代・内藤国貞と野州派の細川尹賢が結べば、勢力図は大きく変わる。そして、国貞は元盛の右筆をしていた矢野宗好が逐電したと尹賢へ報せてきた。
「矢野……弾正入道……はて?」
尹賢は聞き覚えはある名前とは思ったが、遽かには思い出せなかった。ややあって、香西元盛の右筆のことであると思い出す。矢野宗好とは一度会ったのみで、その後顔を合わせる機会もなかった。
矢野宗好は俗名を弾正疎俊正といい、丹後矢野氏の一族である。溝尻城の支城・堂奥城主として一色氏に仕えたが、武働きに嫌気が差し、入道して隠遁した。その後は各地を転々としながら下京の豪商・十四屋に出入りし、筆の上手さを買われて代書や写本をして暮らしていたのだが、尹賢に招かれ元盛の右筆を紹介される。元盛は宗好の書く字と文章を気に入り、信頼して花押と印判を押した料紙を預けるほどであったが、宗好の方は主を好いて居らず、その粗野な振る舞いに眉を顰めていた。
丹後矢野氏の宗家は元々京都扶持衆の羽州仙北の雄・小野寺氏の家臣である。小野寺三郎兵衛尉道親が父・筑前守道景の遺命に従い足利軍に属し、建武五年、京都攻めの洞が峯の戦いに一族を派遣、足利軍を勝利に導いた。この恩賞として、遠江権守に補任、京屋敷を与えられ、その蔵入地として丹後国加佐郡倉梯郷の地頭職を給される。矢野氏は地頭代となり、この地に根を下ろした。しかし、長禄二年、小野寺中務大夫泰道が、金沢南部右京亮家光に敗れて降伏してしまった。その後、寛正六年より泰道は反撃を開始、応仁二年には金沢家光が討死し、金沢南部氏は仙北支配を断念、本領の久慈に撤退する。これにより小野寺氏は仙北を回復した。
しかし、翌文明元年、一色氏に代わって丹後守護職を得た武田伊豆守信賢と与謝郡の分郡守護職を得た細川右馬頭政国が家臣をして丹後に侵攻させるに及んでも、小野寺氏は兵を差し向けられなかった。矢野氏は自力で防衛の必要に迫られる。武田勢は逸見駿河守繁正、細川勢は天竺中務少輔賢実が主将であった。武田勢により加佐郡は接収され、与謝郡は細川勢が占拠する。しかし、八月に賢実が討死すると武田・細川勢は一時劣勢に陥るが、その後、細川勢は子・国範が引き継いで留まり、粘り強い繁正の奮戦で挽回、丹後をほぼ制圧した。溝尻城主・矢野備後守満俊は、そのまま武田氏に降る。
文明六年四月、細川政元と山名弾正少弼政豊の間で和議が成立すると、一色左京大夫義直は幕府に帰順・隠居し、五月には嫡子・修理大夫義春を出仕させたため、幕府は丹後を返還した。しかし、武田伊豆守国信は丹後引き渡しを拒み、勢いを回復した一色氏が自力で武田勢を押し返して旧領を取り戻していくことになる。この反攻に際して、矢野満俊は一族を挙げて一色氏に従った。
「証拠が無くば、作ればよいではないですか」
「孫四郎の悪い癖が出たな」
「殿の気を晴らして差し上げるのも、私の仕事にございます故」
いつの間に入ってきたのか、ニタリと昏い笑みを零して唆したのは、天竺中務少輔国勝である。声色は揶揄うようであり、どちらかというと面白がっていた。翳となった尹賢の瞳に妖しい色が宿る。
「ならば、弾正入道を探せ。どうせ下京に戻っていよう」
「丹後の宗好殿ですな。畏まりました。数日頂いても?」
「数日でなくともよい。急いではいないからな、頼むぞ」
国勝は細川一門天竺氏の中務家の当主だ。天竺氏は細川義俊の子・義有を祖とし、三河国幡豆郡天竺郷を本貫とする一族で、奉公衆の天竺細川駿州家を本家とし、外様衆の天竺細川兵部家、京兆家家臣で土佐大津城主の天竺肥州家、典厩家家臣の天竺中務家がある。
中務家は義有の子・弥七郎義円を祖とする一族で、典厩家寄騎であったが、孫二郎氏勝の子・孫次郎氏秀以降、典厩家の家臣となった。
天竺氏秀の子・孫二郎賢秀は典厩家初代・右馬頭持賢に仕え、嘉吉二年、大覚寺門跡領の讃岐国香西郡坂田荘の請負を引き受けている。賢秀の子・孫四郎賢実は、細川下野守持春の子で持賢養子となった右馬頭政国に仕え、文明元年、政国が丹後国与謝郡の分郡守護に任じられると、丹後に出兵した。
明応二年閏四月、明応の政変で実権を握った細川政元が、相国寺塔頭鹿苑院にある蔭涼軒主――陰涼職の辞表を受理した。蔭涼軒主である赤松氏の家臣・後藤氏の出である亀泉集証の辞表を伊勢貞宗らが反対して、数年来留保していたのにも関わらずである。蔭凉職を天竺国範の子で自分の側近であった禅僧・葦州等縁へ強引に換え、赤松氏の影響力を削ぎ、自身の影響力の拡大を図った。
その父・国範は和泉下守護家出身の右馬助政賢と合わず、明応四年、勘気を受けて逐電した。のち尹賢が家督すると直ちに帰参、典厩家家宰に復する。国勝は国範の嫡子で、家宰を継いだ。国勝の子は国家といい、孫四郎を名乗っている。
天竺の地名の由来は、延暦十八年、この地に崑崙人が漂着したことに因んでいるが、この崑崙人は柬埔寨や越南に多い占城人であっと考えられている。綿花の種子を持ち込んでいた占城人は、言葉を覚えると紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐・筑前などで栽培方法を教え、近江の国分寺で僧になった。ただし、この綿の栽培は上手く行かず、九世紀頃には廃れてしまったという。
国勝は尹賢と馬が合い、年頃も近く、顔もよく似ていたため、戦場では、尹賢の影武者となって、采配を揮った。これは、尹賢が二人いるようなもので、尹賢としては、家臣として使い勝手も良く、共に育った乳兄弟でもあり、重い信頼を置いている。
国勝が探し始めて直ぐ、矢野宗好は四条外れの旧の住処へ戻っていることが分かった。しかし、尹賢はしばらく留め置くように命じたのみで、呼び出そうともしない。呼び出したのは、一月ほど経った七夕の晩で、国勝はひっそりと人目を憚って典厩邸に入った。その日から、尹賢も国勝も、邸に籠もって出かけることはなかった。
五日後――尹賢は京兆邸へと出向き、道永に謁見していた。開口一番、元盛誅殺を進言する。
「二郎よ、四郎左衛門尉を誅殺せよとは、一体如何なる了見か?」
道永は些か苛立っていた。尹賢の元盛嫌いは知っていたが、いい加減、度を越している。悪口程度ならば聞き流しもしようが、誅殺とは聞き捨てならなかった。
「御屋形様、こちらを御覧ください」
尹賢は懐中していた書状を恭しく差し出す。表書きは六郎殿となっていた。見覚えのある字に怪訝な顔をした道永であるが、奉書を開けて文を取り出す。
「讃州宛の書状……よな」
「はい。嵐山殿の署名と花押がございます」
道永は慌てて署名と花押を確かめて、声を失った。紛れもなく元盛の讃州家内通の証拠である。これまでの尹賢の弾劾は証拠となるような品はなく行状の弾劾であったが、此度はこれまでの言い掛かりとは違っていた。
道永のいう讃州とは六郎元――澄元の長子である。現在の讃州家当主は六郎元の弟が嗣ぐ予定であり、永正九年に讃岐守之持が歿して以来不在であった。今は六郎元が家督を掌握している。そのため、道永陣営では六郎元を護讃州家の当主とみていた。
道永も一時期清という一字名を使っていた。これは当時、養子縁組を解消され野州家に戻り、身分が確定していなかったためだ。野州家の当主となるか、典厩家へ養子に出るか――結果、義高公より一字拝領して高国と改め、野州家の嗣子となった。
六郎元は、京兆家当主の通字である【元】を使うことで京兆家当主の正式な後継者であるという意思表示をしている。元の字を持たない高国に対する当て付けであることは明らかだ。しかし、道永にそれが認められる訳もない。己が正当な京兆家当主であり、将軍が代わろうとも揺らがぬ細川氏を模索しているのだ。
道永にとって六郎元は不倶戴天の敵である。その誘いに、子飼いともいえる香西元盛が応じたとは信じ難かった――いや、信じたくなかった。
「……どうしても余には信じられぬ」
「然れど、讃州の求めに応じて、兵を挙げる旨、聢と書かれてございます。これは明らかなる謀叛の証かと」
反論の余地もない。
書状の字は道永とてよく知っている元盛の字であった。書面には恩賞として上香西氏がかつて受けていた丹波守護代と豊前守への任官を求めていることからしても、本人のものとしか思えない。上香西家は、元々豊前守を官途名とする丹波守護代の家柄であった。元盛は越後守家の養子であるが、惣領家の豊前守をへの遷官を願っていなかった訳ではない。
「反間のけ……いや、離間計ではないのか?」
「然に非ず。私も信じられぬので、嵐山殿の書状と比べて検めました……が……」
反間計とは、兵法三十六計にある敵の間者や内通者を用いて君臣を離間させたり、混乱に陥れて戦力を削ぐなどの計略を言う。離間計は、君臣や兄弟などの間を決裂させることで現状を打破する計略のことを言う。道永は最初間者を疑ったが、防諜は尹賢の得意であり、切れ者の尹賢に手落ちが有るとは思えず、言い淀んで離間計と言い直した。六郎元が道永陣営を陥れるために書状をでっち上げたとしか考えられない。
「本人のものだというのか」
「然り」
道永が見ても、香西元盛本人の書状である。念のため国慶に元盛の書状を持ってこさせ、並べてみた。そこには全く同じ字が連なっていた。花押の癖も全く同じであった。しかも、印判も押されている。
「御屋形様、如何なさいますか」
一雲が、道永に決済を促す。一雲は連枝派であるが、香西元盛を高く評価しており、近習派と親しかった。しかし、流石にこれでは香西元盛を庇えない。但し、事は、香西元盛一人に収まらぬ可能性が高い。寵臣である香西元盛の弟・柳本賢治や近習派筆頭の兄・波多野元清にも敵の手が及んでいる可能性があった。
「余は……」
「誅すしか御座いませぬ」
迷う道永に尹賢は誅殺を迫った。一雲も尹賢の執着ぶりに気圧された様子を見せている。怨念にも似たどす黒い恨みが絶えず湧き出しているかのようだった。
「まずは、香西四郎左衛門尉を呼び戻す」
「では、誅殺の手配をいたしまする」
「待たれよ、典厩殿。大殿は誅すとは申されて居られませぬぞ」
三者三様の視線が交叉する。道永の気掛かりは実のところ元盛にあるのではなかった。道永の逡巡の原因は柳本賢治である。賢治が若かりし頃、二人は衆道の関係にあった。流石に、賢治成人の後は絶えていたが、当時としては未成年小姓との衆道なと極自然なものであり、道永と賢治が特殊なわけではない。成人を過ぎても衆道関係が続くのは男色として憚られていた。
「寿犀の兄であるしな、ここは話を聴いてからでも良かろう」
「御屋形様!」
寿犀とは、柳本賢治が僧籍の頃の戒名で、道永が見初めて近習とし、還俗させた経緯を尹賢も知っていた。つまり、道永の香西元盛への信頼は、柳本賢治への愛情を土台としていて、それは波多野元清への信頼も同じである。それは尹賢の心をよりどす黒く染め上げた。
「明日、香西四郎左衛門尉の審議をいたす。事と次第によっては誅すことも有り得る。備えを怠るでない」
「御意」
尹賢が口を挟む前に一雲が答える。例え尹賢であろうともこれ以上は道永の機嫌を損ねる可能性があった。頭脳明晰で頭の回転の速い尹賢の唯一の弱点がこれである。他人の感情の機微に疎いのだ。これは本人が冷静すぎることに因がある。今も一雲の差し出口に不満そうな顔をしていた。しかし、道永のこの発言は尹賢に配慮した物である。
「一雲、五郎左衛門尉を呼べ」
「神尾山殿は在京に居わしましたな」
「その儀、某が承りましょう」
話を尹賢が引き取り、道永が大仰に肯く。そのまま尹賢が退席し、一雲が右筆にも下がるように指示すると、残ったのは道永と一雲、国慶となった。
「四郎左への早馬は源五が行くように」
「かしこまりました。……口上は『火急の用件にて直ちに参ぜよ』でよろしいでしょうか」
国慶とて、元盛の謀叛は信じ難いが、事実なら謀叛の疑いありと告げれば挙兵を後押しすることになりかねない。讃州家の陥穽であれば誅殺自体が誤りで、国慶が判断できることではなかった。
「それでよい。四郎左の話も聞いてやらねばならぬ」
道永にも遠慮はある。特に京兆家の家督は典厩家の支持が不可欠であり、それ故に尹賢を典厩家の当主に据えたのだ。現在の尹賢は野州派の筆頭である。典厩家の当主ということを鑑みれば連枝派の領袖と言えなくもないが、一門衆らは政元の代から力を削がれており、尹賢とは距離を置いていた。二派に別れて争う内衆よりも、京兆家の当主が代わればサッと京劇の変面のように変わり身をするような連中だが、それでも数の内である。
翌日、香西元盛が京兆邸に上がった。珍しいことに、若衆がずらりと並んで待ち構えている。不思議なことよ……思いつつ、訝しがりもせず中に入ろうとしたが、呼び止められた。
「あいや、しばらく」
「如何した、源五郎殿」
昨日、早馬で知らせに来た国慶が後ろから声を掛けたのである。これには元盛も意外な顔をした。
「腰の物をお預かりいたします」
「……これ迄は、俺と五郎は帯刀を許されて居たはずだが」
若衆らが固唾を飲んで様子を見守っている。ここで元盛が暴れ出せば取り押さえるのは一苦労だ。十数人で取り囲もうと跳ね飛ばされるのが落ちである。その張り詰めた雰囲気の中、国慶は頑なに出した手を引かなかった。
「御屋形様の命に御座います」
国慶が片膝ついて刀を受け取る姿勢を取り続ける。目配せされ、隣りにいた若衆も同じ姿勢を取った。元盛は少しだけ逡巡するも、致し方無しという表情で太刀と腰刀をそれぞれに預ける。これらは香西越後守家の家督を継いだ際に高国より授かった刀であった。
「相分かった。されど、御屋形様より拝領した刀故、大事に扱ってくれよ」
「畏まりました」
国慶らは刀を大事に抱え込むと後ろに下がる。それと入れ替わるように尹賢が前に出た。家来衆を十人ばかり従えており、元盛は仰々しいにも程があると苦々しく思ったが、いつもとは違う風を感じて口を噤む。
「嵐山殿、お待ちしておりました」
「典厩殿が俺の出迎えとは珍しい。明日は雪でも降ろうかの」
元盛の皮肉に一瞬顔が引き攣る尹賢であったが、国勝が尹賢に何か囁いて、笑みを取り戻す。
「いやなに、御屋形様、直々の命でしてな。京兆家執事たる典厩家たれば当然のこと。泉殿に通すよう仰せつかっております。ささ、こちらへ」
尹賢が御屋形様を強調して動座を促す鷹揚に頷いたのをみて、国勝が先導し、元盛は泉殿に渡っていった。ぞろぞろと元盛の後に家来衆も続く。
泉殿には膳が設えてあり、酒が置いてあった。双六や碁石なども部屋の隅に置かれており、無聊を託った待ち人が暇潰しに行うのであろう。
「しばしお待ちあれ。私は御屋形様へ知らせに参る。中務、お相手せよ」
「御意。ささ、嵐山さま。御屋形様より酒でも飲みながら待つようにとのお言葉がございました」
酒に目のない元盛は尹賢が退席するのを気にすることなく、膳の傍らにある瓶子に釘付けであった。流石に主君に会う前に飲む訳にも行かぬと思っていたが、国勝の言葉に相好を崩す。
「そうか! それは有り難い!」
どっかりと座に着いて手酌を始めようとするので、心の中で呆れ返りながらも、国勝が瓶子に手を掛ける。
「お注ぎいたしまする」
「悪いな」
人好きのする笑顔で元盛が国勝に盃を差し出した。国勝とて典厩家の家臣でなく浪人であったなら、元盛に仕えるのも悪くなかろうとは思う。思いはするが、己は典厩家の家宰であった。
盃は先日の赤土の土器ではなく、素白のものである。肴も何品か膳に盛られており、当分は退屈せずに済みそうだと、元盛は腰を据えて飲むことにした。しかし、それとて一刻も経てば怪訝にもなる。
「いつまで待てば良いのだ?」
元々待つのは得意ではない元盛は、まんじりとしている。傍らには空の瓶子が四〜五本無造作に転がっていた。
「確かに遅いですな。様子を見て参りましょう」
「御屋形様はここで待てと言ったのだな?」
笑顔で「勿論です」と返した国勝が下がる。新たに下女が運んできた瓶子を手に、元盛は一人澄酒を呑み続けた。
その頃、常御殿では一向に現れない元盛に、道永が苛々を募らせていた。
「――中務か」
入ってきた国勝に目線をやるも、元盛でないことに落胆の色を隠せない。今まで一度たりとも招集の刻限に遅れたことのない元盛が来ないことに、道永の中で疑念が深まっていた。
――そろそろか
国勝が顔を見せたということは元盛の我慢も限界ということであろう。元盛が動き出したら詰めている家来衆ではどうにもならないと思っていた。ならばこの時である。
「確かに遅いですな」
「遅過ぎるわっ」
尹賢はこの言葉を待っていた。尹賢が国勝に肯いて、国勝も尹賢に肯き返して、常御殿を出る。道永は何のことやらわからず、二人を見送るだけであった。この場に上野一雲は不在である。
部屋を出た尹賢は国勝に手勢を集めさせ、徐ろに――
「御屋形様は『遅過ぎる』と仰られた。これより香西左衛門尉を――。皆々、得物を取れ」
尹賢は手刀を首に当てた。若衆らは意を汲んで抜刀し、家来衆は槍を握る。三十人ほどを引き連れて泉殿へと尹賢らは向かった。
半刻後、恨めしそうな元盛の首が道永に献ぜられた。