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第十四服 厩明嵐昧

きゅう明きらかにしてらんくら


いくたびか世はうつりてもめぐりあふ

昔のままの月を見るらむ

          後柏原天皇謹製


 前年のきんとうほうの流行は、武田伊豆守もとみつくつみんぶのしょうゆうたねつならのほんそうもあってしゅうそくの兆しをみせた。度重なる災害とえきびょうに心を痛められたかしわばら帝が、自ら筆をとって写経した『はんにゃしんぎょう』をえんりゃくにんに納めたこともあって、人心もしずまっている。


 とは言え、終わった訳ではなかった。道永細川高国たねくになな七日なのかを終えて政務に復帰し、対策に忙殺されている。未だ嘗てない程に精励し、没頭して哀しみから逃れていた。とらますまるきゅう寿じゅまるの元服はが明ける一周忌を過ぎてから行われることになり、些か不満顔の虎益丸であったが、流石に兄・道永の悲嘆する姿に口をつぐんでいる。


 三月に入ると、数年前より行っていたほり城の普請が四月には終わる見込みとの報告をせっ国の上郡かみのこおり守護代・やく九郎左衛門尉くにながからもたらされた。このしらせに道永の目が摂津を向く。


 摂津国は、瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもあるすみよしのつ難波なにわのつ渡辺わたなべのつがあり古代には津国つのくにとも呼ばれている。応神帝のあんぐうである難波おおすみのみやや仁徳帝の皇居・難波たか宮、きんめいのみかどの皇居・難波はふり宮など幾度も政治の中心拠点が置かれていた。近代の鉄道が発達するまで、物資の大量輸送は世界中で水運に依存していて、津の近くに都があることは、発展の原動力でもある。大化の改新も、難波宮で進められており、古代から摂津は重要な地として認識されていた。ちなみに摂津とは、津国を摂する職として設けられたことに由来する。摂津職はたいすけじょうさかんの四等官を置く京官とされた。のち、桓武帝の時代に摂津職が廃され、摂津国として独立する。


 北の京寄りから、古代の三嶋郡が分割されたしまかみ|芥《あくたがわ郡とも》・しましも|太《おお郡とも》があり、しま郡・郡・かわ郡・有馬郡・郡・ばら郡・八部やたべ郡・西にしなり郡・ひがしなり郡・すみよし郡と十二郡七十五郷、国力等級は上国で、ないである。人口が多く食糧生産力も高かった。河内国との国境は古代に大きな湾であったのが、堆積する土砂によって陸地となっていったが、概ね淀川を挟んで対岸である。摂津と和泉の国境がやや南に張り出したようになっているのは大和川の川筋が蛇行しているためで、大和川を挟んで堺北庄が摂津で、堺南庄が和泉であるというのはすでに述べた。山城国や丹波国との国境には北摂山地が広がっている。ここは低山地帯で標高廿八町弱約五〇〇メートルの山が連なり、高い山でも四十四町約八〇〇メートルに及ばなく、東は加茂勢山かもせやま(現・ポンポン山)から西は大舟山おおふなやま羽束山はつかやま大岩岳おおいわがたけ辺りまでの七里半余り約三〇キロメートルに及び、南限は鉢伏山はちぶせやま箕面山みのおやま松尾山まつおやま(現・六個山)・池田山いけだやま(現・五月山)あたりで、北は丹波高地南部と重なっていた。淀川北岸から高槻へ掛けてはあくた川や安威あい川が神崎川に合流し、大きく蛇行した辺りは中津川と呼ばれる。中摂の東境は箕面みのお川で、現在の府県境は川付近、摂津中央部には川が流れ、しゅく川、芦屋川、住吉川、いし川、川、いく川、みょうほう川と須磨に掛けて川が南北に走っていた。


 外交の拠点であった摂津も、遣唐使が廃止されると瀬戸内海流通の拠点として国内流通の京への入口となった。摂津が著しく発展するのは平清盛がおおのとまりきょうしまを造営して以降である。日宋貿易を重視した清盛は、人工島を設けて風雨による波浪を避けやすくし、大型船が出入りできる湊へと私費を投じて作り変えた。また、清盛は福原に別邸を建て、都を整備し、遷都を強行する。しかし、これは源氏の挙兵によって一時的な行幸となり、還幸した。その後、清盛が歿し、義経による平家追討以後、平家は西国に逃れ、大輪田泊を整備する者も居らず、湊は荒廃してしまう。


 鎌倉幕府が開かれると、東大寺を再建したしゅんじょうぼうちょうげん建久七年西暦1196年、修築事業に乗り出した。これは東大寺の修築保全の費用捻出の為の貿易と、修築や維持に必要な資材の運搬に船が最適である為だった。その後も、延慶元年西暦1308年には、東大寺が鳥羽上皇の命にて兵庫津修復を命ぜられ、東大寺修築の費用として関を設け関銭の徴収を許された。やがて、兵庫津は国内第一の港として発展、室町時代には日明貿易の拠点として栄える。


 摂津国守護職は鎌倉中頃から得宗家が独占、室町時代にはいると初期は赤松氏が寡占したが、中期以降は細川氏が世襲した。ただし、権勢の強すぎる細川氏を牽制する意味からか、摂津国内に分郡守護を設置、細川氏の一円支配にならぬよう工夫されている。


 また、足利義教が日明貿易を再開に当たっては堺にその拠点が移っていたため、兵庫津は応仁の乱後に大内氏へ給された。大内氏は私費を投じて修築し、日明貿易を主導する細川氏と対立する。兵庫津~博多津を結ぶ瀬戸内海航路の方が日程が少なく済むという利点があったが、細川氏の領地を結ぶ南海道航路の方が安全で、どちらも一長一短だった。


 そして、南北合一を果たした明徳年間までに細川氏の安定した支配が確立していた千里丘陵より東側――嶋上郡・嶋下郡のほぼ全域を上郡かみのこおりと呼ぶようになる。そして、応永年間までに千里丘陵以西を掌握した細川氏は豊島郡・河辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡を下郡しものこおりと称した。ただし、上郡・下郡は本来の郡境と全く合致したものではない。


 有馬郡においては播磨守護赤松氏が分郡守護となって一族の有馬氏が支配しているが、この頃には細川氏ともよしみを通じていた。また、河辺郡北部や能勢郡は清和源氏ゆかりの多田院に与えられ、国人らは多田院御家人と呼ばれている。そして、神崎川以南の西成・東成・住吉の三郡は別に分郡守護が置かれて細川氏の支配から欠けていたため、欠郡かけのこおりと呼ばれていた。西成郡守護にゆう左衛門尉みつふじ、住吉郡守護に大内周防すおうのすけよしひろ、東成郡守護に畠山三郎もんのすけもとくにを補任している。西成郡守護はきつの乱以後、細川のかみもちかたにんされ、以後典厩家が継承した。住吉郡守護は、大内義興が管領代を辞任して帰国して以来、細川京兆家の支配下になっている。東成郡守護は畠山総州家が掌握していたが、畠山義就と細川政元の和睦によって細川氏の支配下となり、細川右馬頭まさかたに給された。これにより、摂津のほぼ全域が細川一族によって掌握される。


九郎左衛門尉薬師寺国長殿はなんと?」

「残り廿日はつか余りで中津川の堤が仕上るよしじょうらくむね、許されるく奏上致すもの也――なるほどのぅ、九郎左薬師寺国長、骨休めがしたいとみえる」


 傍らに控える箕踞軒一雲細川元治が声を掛けると、道永は読み上げるや否や、一雲に書状を押し付けた。一雲はあらためて、大きく頷く。


与一薬師寺国長殿の苦労がしのばれる書状ですなぁ……」


 九郎左とは、薬師寺国長の通り名・九郎と官途名・左衛門尉を略した言い方で、与一という通称もあるのだが、道永は好んでそう呼んでいた。弟・くにもりは三郎左衛門尉を名乗り、こちらも与次という通称はあるのだが、三郎左と呼んでいる。国長・国盛の兄弟は細川政元に叛乱した薬師寺もとかずの子であるが、幼きを以て一命を赦されていた。叔父・ながただが細川まさもとしいぎゃくすると野州家当主であった高国の直臣となり、元服して参陣、長忠を討つ。その功によって摂津守護代に任じられ、加えて、兄弟揃って高国より一字拝領していた。二人とも本来は在京摂津守護代であるが、国長と国盛は交代で在地入りしている。ちなみに国長が上郡守護代で、国盛は下郡守護代に補された。


「やはり、京に戻りたいのでありましょう」

「完成してから帰ればよいであろうに」


 道永はにべも無い。冷たいのではなく、中途半端が嫌いな性格であるだけなのだが、他人にもそれを求める所にいささか問題が在った。


「治水普請は難事にございますし、妻子への想いも募りまする。されど、それほどお疲れであるなら、しおはらやまの湯などは如何かと。先の公方足利義稙さまも入られたとう。骨休めも数日で済みましょう」


 鹽之原山の湯とは、現在の有馬温泉のことで、有馬のかみくにひでが治めている。有馬氏は欠郡まで支配下とした細川氏と本家の赤松氏との両属となり、国秀も高国より一字拝領していた。


 堀城普請は、摂津国西成郡中嶋郷堀村の中津川筋沿いで始まった。毛馬で淀川から分かれた中津川沿いに築かれた堤の一部を大きく北に張り出させ、竪七十六間約145m、横八十五間約162m強の敷地を囲んで堀としている。四角形の一隅を切り落とした形で、南向きに川を臨んでいた。中津川を南の堀として、川の水をふんだんに使った水堀に囲まれた、現在のじゅうそう公園辺りに出来た城である。今回は治水普請を含んだおおしんであり、その惣奉行ともなると、その費用の捻出から、人員の差配や普請中の仮住居の建築、材料や工具の手配、日常に起こる小さないざこざの処理まで行わねばならず、休む暇もなかった。


 堀村は中津川北岸に於ける阿波・堺・京の中間地点にあり、摂津へ向かう街道を安全とするために必要であると尹賢が具申し、道永が策定したが、大永年間になってようやく普請が始まった。縄張りも普請割も尹賢自らが行い、長期に及ぶ普請そのものは薬師寺国長に委ねたものの、作事は己で仕上げたいと思っている。


 しかし、道永はこの作事を、不仲な二人――尹賢と香西越後守元盛――を懇意にさせるために組ませて任せようと考えていた。国長の申し出は渡りに舟である。ゆうひつに書状をしたためるよう指示した。


「では羽州有馬国秀殿に話を通しておいてくれ」

「口上は如何なさいますか?」


 右筆の気の利かなさに辟易とする道永であるが、これは些か無理が過ぎる。道永は当代一の歌人・三条西実隆が認める武家歌人なのだ。口上一つとっても、下手をすれば名を汚すことになりかねない。黙ったまま不機嫌になった道永は右筆を見向きもせず、他の書状に目を通し始めた。おろおろと所在無さげな右筆を見かねた一雲は、主に代わって口上を述べてやる。


「大概になさいませ」

「噴ッ」


 項垂れて退出した右筆を見ながら一雲は道永を諌めた。道永は気の利かぬ右筆を嫌っていたが、一雲に言わせれば、道永の我侭に過ぎない。書も歌も一流の道永に本来右筆は必要ないのだが、将来の面倒臭がり屋である道永は、歌ではない文を書くのが嫌いであった故に右筆を置いていた。一つ付け加えるならば、口上を考えるのは右筆の仕事ではない。


 この当時、細川尹賢と香西元盛は高国の左右の腕である。だが、策謀家の尹賢と軍事一筋の元盛とでは水と油のようであった。特に元盛は文盲であり、戦にしか興味がない。尹賢は名門細川の一族であるが故か、ガサツで教養のない元盛を見下していた。尹賢にすれば名門細川京兆家に仕えるのであれば、一定の教養を身に着けておくべきとなる。しかし、叩き上げの元盛からすれば、大名でもない彼にとって教養は主君が持てばよいもので、自身は戦のことばかりでよいと思っていた。


一雲細川元治、典厩をこれに。源五細川国慶越後香西元盛を呼んで参れ」

「はっ」

「御意」


 高国は元盛が文盲とは知らない。元盛は粗忽者ではあるが、兵法に通じており、地理にも詳しかったからだ。香西元盛は勉学が苦手であったが、講談や戦記などの物語は好きであり、近習らに字を読ませ、耳で覚えていたのである。


 両者の関係が悪化した理由は、元盛が尹賢の策戦に従わなかったことにある。但し、元盛が従わなかったのは、尹賢の想定とは異なる状況に遭って、臨機応変に動いた結果であり、それによって功を挙げていた。これは尹賢からすると己の策戦を無視され、自分勝手に功をほしいままにしているとしか見えない。されど、元盛にとっては言い掛りだった。加えて元盛は口下手で、上手く説明が出来ず、結果、同様のことが繰り返され、今では尹賢と元盛はすっかり犬猿の仲となっている。


 更に言えば、高国は一門衆をあまり重用していない中にあって、従弟でもある尹賢は例外であった。また、元盛も近習から評定衆に上がった例外であり、政元以前より細川氏に仕える古参らから二人とも疎まれていた。元盛は気にも留めぬが、尹賢は自らの派閥を形成しようと躍起である。故に元盛が邪魔であった。


「香西越後、お召により参上仕る!」


 元盛の大音声が、国慶の前触れより先に道永の耳に届く。尹賢は苦々しい顔をしていたが、道永の視線にいつもの能面に戻った。尹賢は道永の表弟いとこであり、それによって典厩家の家督に就いたので、一門衆の中では新参である。それ以前は駿州家の跡取りであり、それとて養子に入ってのことと誰もが知っていた。一門衆の中でも野州家の分家の出の癖に、と陰口を叩くものも居る。


「揃ったな」

「はっ」


 道永が二人に向き直る。尹賢と元盛には円座が出され、板間に胡坐で礼をした。


「殿、して本日は何用に御座いまするか? 過日の汚名返上の機会をいただけまするか?」

「待て待て、四郎左。此度は戦ではないぞ」


 意気込んでいるのをいなす様に、道永が顔の前で手を振る。叱られた仔犬のようにうなれるする元盛を、苦々しく思う尹賢と微笑ましいと目を掛ける道永。一雲からすると道永は元盛の肩を持ち過ぎであるが、尹賢の毛嫌いも度を越していた。


「されど、戦に関わる大事なことぞ」

「城割で御座いまするか?」


 尹賢は黙っている。上郡守護代・薬師寺国長の報せは、道永だけでなく尹賢にも届けられていたのだ。元盛は何も知らなかったのであろう。


「作事を其方等に任せたい」

「御意」

「作事――其方……等?」


 複数形に引っ掛かったのは元盛である。尹賢は元盛が現れた段で察しはついていた。


「帝の御容態が芳しくない。となれば、万が一も有り得る。故に、典厩には京にて控えて貰いたい」

「委細承知」

「であれば、それがし一人で作事をすれば良いのでは?」


 尹賢は察しが悪すぎるとばかりに口の中で舌打ちした。微かな音に道永が気付いたのか、ちらりと尹賢を見る。僅かに首を振った。


「……」

「典厩にはあとから合流してもらう故、其方そなたは先に始めていよ。この堀城は尹賢の城でな。作事から外すわけにはいかぬ」

「畏まって御座る」


 深々と元盛が頭を下げた。尹賢はそれを見ながら元盛には尻尾がない故振らぬだけよ、と心の中で毒づく。元盛の方は京兆家当主に言われれば嫌いな者と組むことでも否はなかった。


「典厩は万が一に備えて警護の用意を整えよ。公方様への配慮も手抜かり無きように」

「御意」

「作事の手配は二人で話し合って決めるがよい」


 元盛と尹賢の両名が作事を申し付けられたのは大永六年西暦1526年三月4月十日21日のことだったが、尹賢は元盛と話し合うこともなく、申し入れを無視した。


 仕方なく元盛は三月5月廿日1日に嵐山城に戻り、城ばんしょうらを集める。番匠とは木造建築に関わる建築工のことで、とも呼ばれ、棟梁・いんばんらに率いられた職人をいった。番匠間での過当競争が起きたため、鎌倉時代になると大工職が作事請負をしていたが、室町時代になると大工職が不当な高額請求を行うなどがあり、室町幕府によって公式には撤廃された。しかし、優秀な人材確保の手段として四人大工制度は廃れず、却って強固に再編されている。


 丹波や摂津には三木の番匠が出稼ぎに来ており、これは戦国期に三木の刀鍛冶がいい工具を作った事による。元盛の下に集ったのは三木の番匠棟梁の藤井源三郎・ふな藤八郎左衛門・くに吉右衛門・宇治平九郎兵衛らで、元はいかるが番匠の支流であった。


 尹賢は法隆寺の鵤荘番匠を借り受け、多門おかどへいすけこんごうしんろうつじきちろう・中村藤右衛門ら四人大工職を堀城に派遣してもらえるよう手筈を整えている。


 ひとつきもしない四月5月七日18日に後柏原帝が崩御された。慌ただしく準備が進められ、後奈良帝が即位し、同月6月廿九日9日せんの儀がり行なわれる。義晴公がし、儀式は滞りなく進められた。


 梅雨が明け、たっぷりと休息した番匠衆らは作事を、一気に終わらせるべく取り掛かる。館は鵤衆が担い、三木衆は城壁作事に従事することとなった。しかし、そこで問題が起こる。つちいっを双方の番匠らが争ったのだ。


 土一簀とは、普請の最後の一かごのことで、作事の前に土固めとして行われるものである。そこに礎石を置いて、城主の居館を建て始めることで、城の陥落が無いように願掛けする呪言まじないであった。迷信深い番匠衆らはこれを行わず城壁の作事に取り掛かったことを気にしていたが、居館が鵤衆の担当であることもあって三木衆は我慢していたのである。


 そこへ来て、尹賢が鵤衆だけで土一簀を済ませてしまった。これに三木衆が腹を立てたのである。双方、怪我人を出す騒動となり、元盛が双方を取りなして収めた。


「嵐山さま! 俺は納得行かねぇ!」

「儂も得心行かぬ。先に作事を始めることになったのは仕方ねぇが、土一簀に参加させねぇのは筋が通らん」


 棟梁らが口々に不平不満を訴える。元盛とて腹立たしくない訳ではないが、道永から「二人で」と言われている以上、何としてもやり遂げねばならなかった。


「皆の衆の気持ちはよぅく分かった」


 四人の棟梁の顔を、代わる代わる見て頷く。元々は話し合いで日取りや割当などを細かに決め、協力して作事に当たる心算つもりだったのだ。


「されど、それがしに免じて堪えては呉れぬか? ほれ、この通りじゃ」


 飄々と、そして深々と頭を垂れる。慌てたのは棟梁らであった。顔を見合わせて、元盛を起こしに掛かる。


「滅相もない! 嵐山香西元盛さまはなんも悪くねぇ!」

「そうじゃ、頭を下げんでくだせぃ」

「ならば、それがしから酒を送らせてもらう。今宵はたらふく呑んでくれ!」


 そこからは三木衆の大宴会となった。それを尹賢は苦々しく思いつつ、己の率いる番匠衆ではないため口を出さずにいたが、翌朝、元盛の顔を見るなりの言葉が突いて出る。


「越後殿、昨晩は大盛りあがりのご様子であったな」

「……五月蝿う御座ったか?」


 わずらわしいとばかりにいらついた目を向ける元盛であったが、尹賢は涼しい顔のままだ。


「嫌なに、土一簀もせず作事をするような礼儀知らず共のすること故、致し方御座いますまい」

「!」


 見る見る元盛の顔が赤く染まっていく。怒髪天をくとはこの元盛の顔であった。己のことならば、道永の顔を立てて我慢もしよう。されど、三木衆に何の落ち度があるのか。


「もう一度言ってみろ」

「であるから、土……ひっ?!」


 元盛の様子をいぶかしがって振り返った尹賢を、元盛が鬼の形相で見据えていた。尹賢は逃げるように陣幕の彼方へ去っていく。そこに元盛の怒号が放たれた。


「もう一度、言ってみやがれぇ!!」


 それを見ていた番匠らは、喝采を挙げる。そして元盛が嵐山城にちっきょさせられると、一斉に堀城を引き揚げてしまった。その上、瓦や木材・しっくいなどの資材を城内に打ちてて。


 尹賢は道永に元盛の仕業と訴える。しかし、元盛からも尹賢をきゅうだんする書状が届いており、道永は双方の訴えをきゃくして終わりとするほかなかった。元盛は水に流したが、尹賢は元盛を深くうらんだことで、道永への忠誠に雲が掛かる。そしてそれは思わぬ落し穴であった。


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