鷗初めて侘に逅う
種まきて 同じ武田の末なれど
荒れてぞ今は野となりにける
四条室町の近くに菊水之井という井戸がある。夷三郎を祀った神社があり、境内に湧く井戸の水を飲めば寿命が伸びると噂され、菊慈童に因んで「菊水」と呼ばれるようになった。
夷三郎とは蛭子と、大国主の子である事代主が混同されたものと言われる。毘沙門天とも混同されることもあり、神仏習合の代表的な神であった。蛭子は『古事記』で天照と月読の後に生まれたとされ、三郎とも呼ばれる。事代主の別名が恵比寿であり、夷とも書かれた。外来の神であり、海神でもあり、その周囲には移住者が集うことが多い。
菊慈童とは、唐国の仙童の名で、能の演目の一つになっている。菊によって長寿を得た少年の話であった。菊慈童は容姿が美しく、周の穆王に愛されたが、一六歳の時、罪を得て南陽郡酈県に流される。しかし、菊を愛し、菊の露を飲んで不老不死になった。能楽では七字名号を忘れぬように菊の花弁に書いておき、そこに溜まった露を飲んだことから不老不死になったとされる。
菊水之井がある境内の南に、堺から人が移り住んできた。年の頃は廿代半ばほどで、裕福な商人のようである。公家程ではないものの、大きな邸宅を構え、中には庵も結んでいた。
庵主は堺の皮屋の若檀那・武野新五郎仲材という。連歌師に憧れていた新五郎は、父・仲久が京に支店を出すのをこれ幸いと、上京したのだった。
家業のことは父の右腕であった大番頭の弥兵衛に任せて、連歌の師を求め、これという人物に目通りを願っていたが、なかなか適わずにいる。そんな折に知り合ったのが、種屋藤兵衛だった。
藤兵衛は下京に舗を構える江南出身の商人である。六角弾正少弼定頼の家臣で栗太郡中村の領主・平井河内守頼氏が与力・藤田佐渡守綱行の一族だった。平井頼氏は六角氏宿老の平井氏――栗太郡平井を本拠とする平井加賀守高好とは別の平井氏で、高島七頭・西佐々木氏の平井氏の庶流が六角近江守氏綱に仕えて戦功あり、彦富城を与えられている。その縁から平井河州家への出入りを許されていた。
「さる武家筋から戦支度の兵糧を江州の外で集めてほしいとのことでしたが、どうにも不作でしてな」
今年の仲春ごろ、平井頼氏から直々に頼まれたとのことだったが、希望の量を揃えることが出来ていないのだという。どこも戦続きで糧秣の集まりが悪いのだ。戦が続けば、民は戦に駆り出され女子供ばかりが村に残される。それでは作付けも儘不成、不作になるのも当然だった。天候不順ばかりが不作の原因ではなかった。
「そういうことでしたら、お力になれるかと」
「新五郎殿には心当たりがお有りか」
新五郎は大きく頷く。実家の皮屋は糧秣の問屋であることを伝えると、得心の行った顔をした。皮屋の後ろ盾が阿波の三好元長であることは知られている。今年は四国が豊作であった。
「堺の大店・皮屋さんの若檀さんでしたか。道理で風格がおありだ」
新五郎の父・仲久は元は武田信久という歴とした武士である。祖父・仲清が応仁の乱で細川武蔵守勝元の東軍に属して戦死し、嫡子・信直、次子・信益も討死。郎党も含めて戻る者は僅か。家督を継ごうにも、郎党も家人もほとんど居なかった。一家を立て直す必要に迫られた信久は流浪し、結局二十年もの間、諸国を巡る。その後、長享元年、三好之長に拾われ、采地百町余を宛てがわれ糧秣問屋を始めた。皮屋は元武士であることを忘れぬようにとの思いが込められている。
武田仲清は石和武田氏の末裔である。その祖である武田五郎三郎政綱は、安芸守護職を得て移住した兄・五郎二郎信時と分かれて甲斐に残り、北条家の御内人となって別家を建てた。政綱の跡は伊豆守宗信、伊豆三郎貞信。のち曾孫・伊豆守政義が甲斐守護職に就いている。
政義はその後、後醍醐帝に従ったが、惣領の武田信武は幕府方として参陣したことが尾を引き、建武の新政では政義の後塵を拝することになった。そのため、信武は足利尊氏が建武政権から離反するとこれに応じ、観応の擾乱では甲斐守護職に復して、足利直義追討のため甲州入りし、再土着。庶子の安芸守信成が甲斐武田氏の祖となった。惣領家の伊豆守氏信は安芸守護職として在京し、守護大名となって安芸・若狭武田氏の祖となる。
これに対して、政義の子・光綱は姻戚の阿野廉子が後醍醐帝に寵愛され准后となったことから、南朝に於いて重きを為し、軍大将・左衛門少将――左衛門督と少将を兼務――に出世した。さらに建武二年、若狭を平定して若狭国司となる。光綱の子が光政・為信兄弟で、南北合一に伴い、兄・光政は丹波守を名乗り義満公に仕えて、若狭国衙を給された。為信は因幡守を名乗り、在京する兄に代わって在国して領地経営に勤しんだ。為信の子が信清で、信清は逸見仲継の女を娶り、仲清を儲ける。武田若州家は将軍直属の奉公衆であった。
「新五郎殿、助かります」
「いえいえ。こちらこそ、相場より高く買っていただけましたから。有り難く存じます」
新五郎は弥兵衛に父への文を託し、糧秣の手配を頼んで、種屋へと出掛けた。藤兵衛は四条烏丸に居を構えており、父の宗兵衛が近江で本家を構えているという。跡継は弟がいるそうで、在京を気楽に愉しんでいると嘯いた。
「それはそうと、新五郎殿は得度されておられるのか」
「ああ、この禿頭ですか。実は一昨々年、堺で得度いたしまして、紹泡という号を頂いておりますが、あまり好みではないので、普段は新五郎で通しております」
そういえば連歌師を目指して居られたのですな、と藤兵衛が独り言ちた。武野家は父・仲久の下野以来、武士として家を再興することを目指しており、新五郎が碌に家業をやらずとも赦されている。
「新五郎殿は、茶の湯に興味は御座らんか」
「近頃、巷で流行りのでしょうか?」
茶の湯の流行は今や京に留まらない。全国の大名たちから諸国の豪商らまで、こぞって茶道具を集めているといってもよい状態である。元々闘茶の流行が素地としてあり、その上に義教公以来の茶湯御政道が生きているからこその流行りで、基本的に唐物主体の書院茶であった。
顔に嫌悪の色が出ていたのだろう、藤兵衛は苦笑いをしている。
「無理にとは言わぬが、新五郎殿の思い浮かべられた今までの唐物趣味とは違う茶の湯がある――としたらどうされる?」
そんなものがあるのか、と新五郎は思った。堺でも、津田宗柏が京の村田珠光へ習いに度々出掛けて茶会を始め、少しずつ豪商らに流行るようになり、今ではせぬ者もない。新五郎も津田家とは取引があるので、茶の湯を知らぬ訳ではないが、あれは道具自慢――金持ち自慢と見下げていた。
今までとは違う茶の湯――その言葉が新五郎の興味を掻き立てる。
「それは……詳しくお話し願えましょうや」
「では、こちらに」
案内されたのは、種屋の離れである。数寄屋造の庵は市中の閑居の趣きであり、町家造の座敷しか見たことのなかった新五郎にとっては既に驚きであった。
「これは……」
「数寄座敷です」
この時代、茶室という言葉はない。畳のことを「座」と呼んでいた。これは、板の間に置かれる公家らの坐る場所を表したもので、それが敷き詰められていることから、茶を点てるための部屋を「座敷」と呼ぶ。室町後期は未だ板間が主流であり、座敷は非日常の場所である。書院や数寄屋に畳が敷き詰められた様は、当時としては斬新なものだった。そして数寄屋造はさらに新たな建築法である。
新五郎が案内されたのは、邸から独立した四阿の様でありながらも、方丈に区切られていない三畳の座敷だ。畳が一枚だけ竪になり、それに向かって二畳の縁が直角に交わるように敷かれている。二枚の中央やや上座に炉が切られていた。この頃の座敷には縁とよばれる廊――現在の縁側があり、妻戸を隔てて路地に繋がっていた。縁の前には庭がある。
「三畳敷ですか」
「案外狭く感じないものでしょう」
藤兵衛は新五郎の驚き様を見て、嬉しそうにしている。この頃、堺で流行っていた座敷は書院を小さく切り出したような物であり、銘木などを用いる贅を凝らした柱が使われ、絵師に描かせた襖によって仕切られていた。
だが、ここにそういうものはない。まるで民家のように素朴で質素な土壁に囲まれていた。藁混じりの何処にでもある壁である。柱は自然のままの歪んだ形をしており、薄暗がりの中に点前座が在った。
「ここでは舶来趣味ではない新たしい茶の湯をするのです」
(唐物は使わぬのであろうか)
胸の奥が騒いでいる。時化の前、海原に漣が立つが如く、新五郎の心も落ち着きを失っていた。唐物を使わぬということは、この当時の茶の湯では有り得ない。
――知りたい
その新たしい茶の湯を、見てみたい、感じてみたい。
「今日は用意がないので、母屋で一献如何か。七月には一度近江に参りますから、その前にでも」
「是非に!」
こうして新五郎は侘数寄の道に触れることとなる。五月初めには藤兵衛に伴われて午松庵の茶会に参加し、藤兵衛が藤田宗理であることを知った。
「種屋さんが、噂に聞く藤田宗理殿であられたとは」
「隠していた訳ではないのですが、いきなり名乗りますと、皆様一線を画されて仕舞われるので」
「それは……お察しいたします」
新五郎は藤田宗理に深々と頭を下げる。そして、そのまま宗理に師事を申し入れた。この出会いが、新五郎の人生を大きく変えることとなる。
藤田宗理は目利きの達人であり、珠光亡き後は侘数寄の目利きで引く手数多の状態となっていた。そのため、宗理自らも伊賀槙山や備前立杭へ赴き 道具を見出し仕入れ、それを売り捌いて利益を得ている。今でいう道具商のような商いであった。そうしている内に、道具を処分したい茶人から買い上げて仲介もするようになり、茶道具以外の物も扱う様になり、それ故、人付き合いがどんどん広がっていく。新五郎は宗理に伴われて多くの人と交わるようになっていった。そして、数年後には憧れの歌人・三条西実隆に目通りを許され、連歌師の道へと進むことになる。
五月初めに盟主浅見対馬守貞則を見限った浅井備前守亮政が美濃に逃れていた京極飛騨守高清を大嶽城に迎え、浅見貞則を国人衆らと共に追放した。浅井亮政の台頭を嫌った六角定頼は足場固めの必要を感じ、蠢動する伊庭氏家中の九里加賀守秀雄撃滅をすべく、朝倉弾正左衛門尉孝景に助勢を求める。五月十九日、朝倉太郎左衛門入道宗滴が着陣するが、九里氏との戦いは膠着した。
六月に入ると、美濃に於いて長井藤左衛門尉長弘と長井新左衛門尉正利が土岐三郎頼芸を奉じて挙兵、土岐二郎政頼に謀叛した。六月廿三日には美濃国厚見郡茜部荘で政頼勢と頼芸勢が合戦となり、政頼勢が敗れる。守護代・斎藤帯刀左衛門尉利茂ほか政頼政権の主だった者は守護所福光館を脱出、館は長井勢に占領された。そのまま斎藤利茂は稲葉山城に立て籠もる。長井正利は稲葉山城を攻め落とし、斎藤利茂は政頼が拠点とした武儀郡武芸谷の汾陽寺に逃れた。
この頃、道永の予想通り武田元光は丹後侵攻を長期化させず兵を収めた。これは、領内の不作による糧秣の不足が原因である。この年――大永五年は全国的に飢饉であった。出羽の『羽黒山年代記』には「大永五年 五穀熟シテ、山野人家鼠無シ」と書かれ、『異本塔寺長帳』には「コノ年天下飢饉」とある。
大和では六月廿日に、春日山で六九〇株もの木々が枯れた――「依春日山木多枯<六百九十株云>(『続史愚抄中篇』)」――と伝えられている。
八月二日、浅井亮政は長井正利に助勢すべく、美濃に侵攻、政頼勢が関ケ原で迎え撃つ。しかし、政頼は敗れて再び汾陽寺に立て籠もり、朝倉孝景に救援を求めた。これは政頼の正室が孝景の妹であった縁による。朝倉宗滴の献策により、囲魏救趙と決まった。
周囲が不作の中、六角定頼は豊作の四国に伝手を持つ皮屋から買い入れた糧秣のお陰もあり、無謀な策戦を展開せず、手堅く攻める。八月十九日、大嶽城は陥落、浅井亮政が美濃へ出奔した。余勢を駆った六角定頼は反抗する守護代伊庭氏の有力被官である九里氏を猛攻する。
八月には鎌倉で地震が起き、由比ヶ浜の入江沼が隆起して平地となった。さらに、陸奥国を大風雨が襲い、収穫前の作物が壊滅、不作となる。
ちなみに大風雨とは颱風のことだ。颱風は英語のタイフーンを音訳した漢語で、江戸後期に支那などと一緒に清朝から渡ってきたものの一般には使われていなかった。明治末期に中央気象台長だった岡田武松氏が気象用語に用いて全国的に広まる。それ以前は大風雨が使われていた。
九月初、今度は地震で被災したばかりの鎌倉を大風雨が見舞う。そして、九月四日の夜から、大風雨が畿内を襲った。鷲尾隆康の日記『二水記』には
九月四日 夜風烈、終日猶不休
と書かれている。また、三条西実隆の遺した『実隆公記』には
九月五日、下人於御牧之処、洪水、今日公用不能奔走之由申之、無興也
と書かれた。同日、鎌倉も大風雨に見舞われ
鎌倉大風雨、円覚寺寿福寺壊、河水溢漲、山岳滅没、人畜多死
と『続本朝通鑑』に記されている。大風雨が日本を縦断した年であった。
京の周辺も至る所で洪水となり、被災した地域で流民が発生すると、それがそのまま洛中に流れ込んだ。彼らは衛生状態が悪く、栄養状態も悪いとなれば、起こるのは疫病である。このときは流民の間に痘疱――天然痘が流行し始めた。
痘疱は感染して七日から十日ほどの間に全身に膿疱が出来、高熱を生じ、激痛を伴って死に至る。
しかも、この時代は典薬寮を頂点とした医療制度は全く形骸化し、武家や仏僧で医術を習得した者たちが医療の中心となっていた。本来は官位を得て典医となり、国家認定を受けたものが医療を支えるべきであったが、幕府は独自に民間の名医保護せざるを得ず、「御医」と呼ばれる僧医や医術の心得のある武士が登場している。のちの漢方医学の源流となる李朱医学は田代三喜の帰国によって前年持ち込まれたばかりであり、しかも田代三喜は関東在住で、京にはまだ届いていなかった。
細川稙国は執政として積極的に流民らの収容を寺社に依頼し、洛中の治安維持に奔走する。しかし、昨年の敗戦の影響は大きく、人手不足は否めなかった。
「父上、このままでは洛中が屍で埋まりまする」
「うむ。されど、我らも人が足りぬ。ここは豆州殿と戸部殿を頼るしかあるまいよ。公方様には儂から願い出るとしよう。六郎は市中をしかと護るのだ」
右筆を呼んで、武田元光ヘの書状を認めさせる。それに将軍の添状があれば、先の軍催促を断ったこともあり、此度は道永の頼みでも断るまい――という心積りであった。それに対し、朽木稙綱は六角定頼の影響下にあり、道永から直接の要請は難しい。そこで朽木氏の将軍家外様衆という立場を利用して義晴公からの下命という態にすれば、六角定頼も面白くは無いだろうが、表立った抗議をして来ぬだろうと踏んだ。
九月四日に九里氏を滅ぼした六角定頼は、伊庭氏を減封の上、赦免とする。これは京の状況を知って、戦どころではないとの判断であった。また朝倉宗滴に説得され、九月六日には京極氏・浅井氏と和睦。朝倉宗滴は浅井亮政を美濃より呼び戻し、小谷城に復させる。京極高慶は六角氏の庇護を受けることになった。更に朝倉宗滴は六角氏が撤兵するのを見届ける間に、小谷城の一角に金吾嶽を完成させる。これは小谷城攻めで築いた附城のようなもので、小谷城に接しており、そのまま金吾丸として使われた。
九月十日には武田元光へ公方の使者として義晴公側近の飯川近江守国信が遣わされる。九月廿五日には、伊勢貞忠の弟・駿河守貞雅が朽木へ使者として赴き、朽木稙綱へ武田元光に従い派兵するよう幕命が下った。武田元光は一二〇〇の兵を、朽木稙綱は三〇〇の兵を率いて上洛。武田元光・朽木稙綱は共に京を警固した――といっても実際は、大路まで溢れた屍を荷台に積み上げ河原に運び、河原乞食らに燃やさせるだけであった。
細川稙国・武田元光・朽木稙綱らを中心にに、幕府は奉公衆らも動員して京の復興と防疫に当たるが、流民と死者は増える一方で埒が明かない。次第に兵たちにも罹患する者が現れた。
一月後のある日――
「おおとのさまーーー! 大殿様! た、大変ですっ」
「源五よ、如何した。何をそれほど慌てている?」
廊を大声を挙げながら、国慶が走ってきた。岩栖院にて寛いでいた道永は、座から身を起こし、胡坐を組む。
「源五、落ち着きなさい。何があったというのだ」
「六郎様が、お倒れになられました。痘疱に御座います!」
「なにぃ?!」
流石の道永も大声を出した。聞けば稙国は連日流民の対処と屍の処理の手配で寺社仏閣を回っており、折りに触れて流民の慰問や視察をしていたという。道永は目の前が闇に閉ざされたように感じた。ようやく、ここまで道筋をつけ、当主の座を譲ったばかりである。御医を手配し、祈禱を依頼し、稙国快癒のための願掛けと酒を絶つことを決めて、本邸へと急いだ。
「誰も通すな! ……誰も通すでない……」
本邸の偏殿に着くと、稙国の怒鳴り声が聞こえた。近習らが廊で右往左往している所から見るに、中には僧医の他には誰も入れていない様子である。
「何事か」
訝しがる道永の意を汲んで、国慶が近習らに声を掛ける。近習らも何から話せばよいかと顔を見合わせた。
「誰も中に入れぬのか」
「御意。殿は、これは人に伝染る病と申され、我らすら入らぬようにと。特に、大殿は絶対に入れてはならぬ、と」
道永は黙り込んだ。稙国は身近な者に伝染ることを恐れている。親としては顔を見て、看病の一つもしてやりたいが、稙国の思いを無視することも躊躇われた。天下のことを考えれば、道永と稙国、片方だけでも健在でなくてはならない。
「父上がお出でか?」
痛みを堪えながら稙国が声を絞り出す。障子を締め切ったまま、中から大きな声で道永に呼び掛けた。
「父上! 私はなんとも御座いませぬ! 直ぐに良くなります故、見舞いの儀は御容赦くだされ」
見え透いた嘘である。稙国の心遣いが道永に痛かった。身を引き裂かれるような思いである。しかし、稙国の思いを鑑みれば、近習らを振り切って中に入ることは躊躇われた。
「よいか六郎、必ずぞ……必ずぞ! 健やかになって父の前に姿を見せるのだ。よいな!」
涙を堪えてその場を後にする道永であったが、尹賢を呼び出して、偏殿に兵の見張りをつけさせ、特に虎益丸と聡達丸の二人を近づけさせぬよう厳命した。加えて、一族の主だった者に稙国の面会謝絶を言い渡す。加持祈祷を方々に依頼し、連日、護摩が焚かれた。しかし……
十月廿三日、細川稙国歿。
同月廿七日、相阿弥歿。
追い打ちを掛けるように十一月十一日、季節外れの大風雨が京を襲った。「大風、壊廬舎<近年無如斯風云>」と『続史愚抄中篇』にある。大仏殿が倒壊し、盧舎那仏坐像も破損が著しく、禁裏の損傷も甚だしく、町家も多くが倒壊した。
柳原御所の造営も影響を受け、完成間近であったが、閏月を挟んで二月程落成が遅れることとなる。
十二月十三日、柳原御所が落成し、義晴公が遷座した。