月桑庵曲斎
歴史・時代戦国
2024年07月30日
公開日
7,823字
連載中
茶道×戦国の本格歴史群像劇。
戦国時代前期から戦国末期を生きた「千利休」と「三好長慶」らを取り巻く世相を詳らかに描く。茶聖と呼ばれる彼が生きた時代はどういう世であったのか。幼き友との友情、そして天下人となっていく友を支えて、利休は何を思うのか。茶閥と呼ばれる茶の湯の繋がりを無視し続けた今までの歴史と歴史小説に一石を投じる。
細川高国、細川尹賢、香西元盛、畠山義宣(義堯)、細川元常、武田元光、村田宗珠、津田宗柏、鳥居引拙、若き頃の武野紹泡(紹鷗)など、余り目にしない戦国の人々が活躍する作品です。
歴史改変もなく、転生もない、史実重視の歴史小説がここにある!
第一章 動乱前夜
千利休が誕生した|大永二年《西暦1522年》より物語は始まる。前年の将軍出奔という大騒動が一段落し、新たしい帝の御代となった大永の世は、まさに動乱前夜という様相を呈していた。先年来の両細川の乱は細川澄元の死によって小康状態であり、細川氏と大内氏の対立は遠く海外で衝突を起こす。幕府の抱える問題が噴出し始めていた。
第〇服 安赦帰堺(壱)
安赦されて堺に帰る
生まれしも帰らぬものをわが宿に
小松のあるを見るが悲しさ
文禄三年 秋――
堺の今市町にある千屋の看板が挙げられた商家の前に、一人の男が立っていた。男は懐かしそうに、店構えを眺めている。旅装で上背が六尺を超える男は、武人といわれても不自然ではないが、帯刀しておらず、棍のように長い棒を杖にしていた。それは、飾りも素っ気もなく、山伏の錫杖よりも金剛杖に似る。その姿は僧侶のようでありながら、雰囲気はもっと俗っぽく、眼は穏やかというよりも力強かった。
「貴方さまは……もしや?」
店先へ掃除をしに出てきたのだろう。竹帚を持った使用人が、佇む男を訝し気に様子を伺っていたが、やがて、目を輝かせて声を挙げた。
「間違いない! 四郎右衛門さまじゃ! 旦那さまのお戻りや!」
「これ、茂吉。店先で騒ぐでない」
男は千屋四郎右衛門――田中紹安という堺の豪商で茶人でもある。庵号を道庵、斎号を可休斎といった。茶聖・千利休――堺の豪商・田中宗易の一人息子で、後世に千道安と呼ばれる。四郎右衛門は利休の血を引く唯一の男子であった。
「お帰りをお待ちしておりました」
「長らくであった。皆、息災か?」
「勿論です。みんな、四郎右衛門様のお帰りだぞ」
四郎右衛門に気づいた茂吉が店先から奥に声を掛けた。途端にワラワラと、店の者らが顔を見せはじめる。近くの斗々屋からも人が出てきて、千屋の方に集まって来た。
斗々屋は四郎右衛門の曾祖父・与右衛門の妻の実家である。千屋は与右衛門が岳父左兵衛に支援を受け立ち上げた商家で、祖父・与兵衛から伯父・与一郎に受け継がれていた。利休は千屋の分家であり、その分家を四郎右衛門が受け継いでいる。従弟にあたる和泉国牧野の魚屋喜兵衛――渡辺道通と組んで阿波の塩を商い、讃岐・摂津・飛騨に出店していた。
千屋は利休の実家である。千屋は交易商で、主に印度から木綿や更紗を輸入し、生糸や絹布を輸出していた。
喜兵衛は、蜂須賀阿波守家政に仕えた渡辺与兵衛直と利休の妹の間に生まれた子で、四郎右衛門の従弟にあたる。天正年間に渡辺直が亡くなったため、利休が養育し、四郎右衛門と共に育った故か非常に仲が良かった。
飛騨高山に蟄居していた四郎右衛門は、繋ぎの必要から、喜兵衛に無理を言って千屋の支店を出してもらったのだが、金森家が御用達の塩商人として贔屓にしてくれたため、それ以前とは比べ物にならぬほど稼業は安定した。塩を産さぬ飛騨では塩の確保は貴重であることも理由の一つであろう。加えて法印素玄――金森飛騨入道、諱を長近――は利休の弟子の一人であり、その養嗣子・出雲守可重と孫・左兵衛重近が四郎右衛門に弟子入りしたことも一因であった。
因みに、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、桑山宗仙は後に片桐石見守貞昌――三寂宗関の師となって、道安の茶統が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、それはまた別の物語である。
四郎右衛門が千屋で阿波の塩を取り扱い始めたのは、舅父・三好筑前守長慶が亡くなり実家を支えようとする母・伊音と、三好宗家と距離を取り始めた父がすれ違い始めた頃だった。
堺の塩は芸予諸島――即ち安芸国と伊予国の島嶼に覇を唱えた村上水軍に頼りがちであったため、三好氏は独自の確保を狙っていた。四郎右衛門は父とは別に商売をしたくなり、阿波の海塩を取り扱い始めたのである。
十河民部大夫一存の子で、三好宗家を継ぐことになった従兄の三好左京大夫義継が信長公に臣従してから、四郎右衛門はようやく父と和解した。
その後、天下も定まり、平穏な世になると思っていたが、今度は父が切腹させられてしまった。それも、天下人・豊臣秀吉の勘気を被ってである。四郎右衛門も利休と共に秀吉公の茶堂として仕えていたが、連座して蟄居謹慎の身となり、飛騨高山の金森家がその身を預かった。