光朽館に宿す
足引の山に生ひたるしらかしの
知らじな人を朽木なりとも
若狭武田氏の軍勢は、九里半越の中ほどにある国境の若狭側の峠――熊川峠を過ぎ、近江に入って一つ目の町――保坂から南に折れた朽木街道を、既に半刻ほど歩いていた。両側に迫り上がる山の向こうに朽木谷を擁する小椋栖山が見えている。
朽木谷――ここは近江国の北西部にある高島郡の最南部にして、山城国に接する地だった。それ故、若狭と京を結ぶ街道筋として古くから開けている。若狭小浜と京を結ぶ街道の内、最も人が行交う経路でもあった。また、朽木は古来から京への木材の供給地であり、この時代の高級食材である椎茸を産し、松茸や山菜なども豊富で、新鮮な食材を京都に提供している。京から半日の距離にある朽木谷は、若狭から琵琶湖西岸に抜ける九里半越を保坂からも半日ほど南に行った所にあり、若狭街道と安曇川が交差し、陸運と川運の中継地としても重宝がられていた。
近江は日本最大の淡水湖である淡海湖――淡海と呼ばれた現在の琵琶湖を擁する、山城国に隣接する国の中で最も大きな国でもある。ちなみに琵琶湖という呼称は、江戸時代に定着したもので、測量技術が発達して湖全域の地図が作られるようになり、湖の形が辨財天の持つ琵琶に似ていことが分かったからだ。この時代の琵琶湖はまだ淡海と呼ばれている。その日本最大の淡水湖である淡海では湖上水運が発達し、湖南から淡海のほぼ全域を抑える堅田党と湖北の一部を扼する菅浦党が湖賊として常に争っていた。
別名江州とも呼ばれ、東山道に属する近江であるが、関西――墨俣の関よりも西にあるため、現代では畿内と合わせて近畿地方と呼ぶ。これは物理的に京との距離が近い土地柄と、河川交通によって摂津や和泉までを交易圏にしていることも相俟っているからだが、それ故にこの当時の幕府や朝廷の影響を受けやすかった。望むと望まざるとに関わらず、中央の権力争いに巻き込まている。
湖を中心に南側を江南・江東、北側を江北・江西と呼び分けられている。江西は高島郡全域、江北は伊香郡・浅井郡・坂田郡、江東は犬上郡・愛智郡・神崎郡、江南は滋賀郡・栗太郡・蒲生郡・甲賀郡・野洲郡であった。郡は十二を数えるも、国土の六分の一を湖に占められている。近江盆地がやや南から東よりに拓け、穀倉地帯となっており、南近江はかなり豊かだ。東の国境は伊吹山地が美濃との境であり、米原から天野川を遡って国境を越えれば関ケ原に抜ける辺りが渓谷となっている。その南の鈴鹿山地が伊勢とを隔てる。山中にある伊賀には甲賀郡から街道が通り、伊勢にまで通じていた。近江最大の街道といえば越前に抜ける北|国街道で、湖の西岸と東岸をぐるりと囲んで京と北陸を結び、それぞれ西近江路・東近江路と呼ばれる。
国力等級は大国、距離等級は近国で、後の太閤検地では七十七万五千石と全国二位を誇る米の生産量がある。さらに、近江商人と呼ばれる水運と陸運に跨がる商活動に熱心な者たちの本拠地であり、経済的価値も高かった。
軍勢の中央よりやや前方に馬を進める武田元光と轡を並べた粟屋勝春が近習らしく主を気遣って話しかける。
「朽木様も、御屋形様との再会を心待ちになさっておいででしょう」
「だといいのだが、な。弥五郎殿の立場も厳しいものがあろうて」
勝春のいう朽木様とは、佐々木民部少輔稙綱のことである。弥五郎は朽木氏歴代当主の通名で、対等な者だけが呼ぶ。元光は自分が一つ違いの年上であることと、お互い当主である気安さから弥五郎殿と呼んでいた。稙綱も元光を彦次郎殿と呼んでいる。元光が上洛する度に朽木谷を通るため、稙綱と元光は幾度となく酒を酌み交わした、気心の知れた相手だった。元光としても若狭と京を結ぶ交易中継地の領主であることもあり、稙綱に対してとりわけ友好的に接している。ただ、相手は外様衆とはいえ将軍偏諱を受ける家柄故、多少の配慮がないでもない。それでも、ともに幕府方である限りは同陣営の仲間でもあった。
朽木氏は高島郡に根を張る高島七頭の一つで、高島七頭とは、
清水山城の高島氏 越中守
平井城の平井氏 能登守
永田城の永田氏 伊豆守
朽木城の朽木氏 出羽守
横山城の横山氏 佐渡守
田中城の田中氏 伯耆守
五番領城の山崎氏 下総守
のことである。山崎氏を除いてすべて同流の西佐々木氏だが、山崎氏も佐々木氏ではある。高島氏が惣領であったが、若狭街道を擁した朽木氏が勢力を大きく伸ばし、高島氏を凌ぎはじめていた。高島氏・永田氏・朽木氏は兄弟分で、平井氏は高島氏の分流、横山氏と田中氏は朽木氏の庶流にあたる。
先々代当主貞綱の子・貞親が義材公より偏諱を受け材秀を、稙綱も復位して改名した義稙公より偏諱を受けて稙広を名乗った。材秀は永正十三年に急逝したため、幼少で家督した稙綱を大叔父の貞清が支えたが、先年亡くなっている。その後、稙綱は第二子に恵まれ、元光も祝いの品を贈っていた。民部少輔を任官し、名を稙綱に改めたのは大叔父歿後のことである。
「色々と難しい時代よな……」
元光には祖父国信のように将軍家を支えていればいい時代ではなくなっている感覚があった。それは凡そ間違いではあるまい。国信がそうしたように、父元信も在京が多く、度重なる出兵に民の不満が溜まり、さらには国主不在で在地支配の箍が緩み、一揆を引き起こしそうになったこともあった。細川高国が大内義興と結び、義稙公を推戴した辺りから、義澄派であった元信は京を辞した。伯父信親は義稙派であり、義稙公を率先して推戴している。信親の歿後、家督を継いだ父も将軍家を支えようとしていたし、元光もそれで畿内が平穏になるならば我が身の労苦など惜しみもしない。しかし、時代は最早足利家を推戴して立て直せるような状況ではなかった。幕府の求心力はほぼ無くなり、有力大名である細川京兆家に推戴されねば維持できない上に、その細川京兆家が分裂して争っている。それ故、積極的に幕府に関わろうという気は元光には無かった。それよりも、独立独歩できる体制を整えることに奔走している。
大名という立場から見れば、半独立の国人衆など目障りなだけである――という考えを元光も持っていた。武田氏とて、国人衆の仕置に苦労している。ましてや、同格の分家が多い近江はまとめ上げるのに気苦労の多いことだろうと六角定頼に同情もする。若狭武田氏とて、反抗的な逸見氏に手を焼いているのだ。一門衆といっても、当主が制禦できないのでは統治に邪魔な存在でしかないのである。その上、代々の宿敵である丹後一色氏に加え、朝倉氏も西進の構えを見せていた。朝倉氏が若狭進出にそこまで積極的ではないのは、加賀の一向一揆を警戒してのことである。このため、信親が繋いでいた旧臣の武田新五郎信久を通じて、本願寺と連携し、朝倉家の後方撹乱を依頼していた。
「あと一刻もすれば朽木城も見えて参りましょう。あれが父の申していた小椋栖山ですかな?」
押し黙った元光に勝春が饒舌に父との思い出を話す。それでも猶黙ったままの元光を訝しげに見ると、元光が難しい顔をしていた。
「御屋形様、如何なさいましたか?」
「いやな……いつまでこんな世が続くのかと思ってな」
応仁の乱――文明九年から始まった戦乱の世も既に五十年以上が経っている。元光が生まれた明応三年は既に戦乱のさなかにあり、これからもまだまだ続くのだろう。それでも――
「戦のない世など、どうしたら訪れるのか――などと考えても埒もないのだが」
そういいながらも行く手の朽木谷を見遣り、考えてしまう元光であった。元光は若狭武田の当主であり、直臣や一門、その家族、家人を背負っている。宿老たちを上手く抑えながら家臣らの謀反の芽を摘み取り、より強く在らねばならなかった。父・国信が文化的な連歌や茶の湯に惹かれたのも分かるという物だ。統治は一筋縄では行かぬ。芸事によって人脈を広げ、家臣とも繋がっていなければならぬのだ。一方で武辺者の逸見一族はそれを懦弱と忌み嫌うのではあるが。しかし、そのお陰で元光は連歌に深入りしてはいないまでも、三条西家の逍遥院殿とは交流があり、公家筋の話の速さに助けられている。
「それであれば、御屋形様が細川様とともに上様をお守りすればよいのでは?」
「御祖父様の頃ならば、あるいはな。だが……」
その将軍が自らの力で京を保持できないのだ。細川政元以来、幕政は細川京兆家の独擅場である。その細川氏が将軍家を二つに割り、自らも二つに割れて争い続けていたのでは、天下の静謐を取り戻すなど夢のまた夢だ。近江では六角氏や浅井氏の山城方面への勢力伸長を押し留めているのが高島七頭であり、その中で最も頼りにされているのが朽木氏である。ただ、その七頭も徐々に六角氏や浅井氏に取り込まれつつあった。
朽木氏は、近江源氏――すなわち宇多源氏の一族である。宇多天皇の第八皇子・敦実親王の流れをくむ源成頼の孫・佐々木経方を鼻祖とする。源成頼が近江国佐々木庄に下向、経方が土着した。一族は近江国一円に拡がり、経方の孫・秀義は源義朝に従って平治の乱に加わるも敗れ、奥州に下向するところを渋谷重国に留められ、その女婿となった。秀義の子ら四人・定綱、経高、盛綱、高綱は頼朝の挙兵に馳せ参じ、それぞれ幕府創設の功臣として遇され御家人となった。しかし、承久の乱で、定綱の嫡子・広綱をはじめ多くの一門が上皇方に付いてしまう。そんな中、北条義時の女婿となっていた定綱の次子・信綱が幕府方に付いたことで、佐々木氏中興の祖となった。
信綱の次子・高信が西佐々木氏の祖で、西近江の高島郡朽木庄の地頭を得て高島郡に入り、清水山城に拠った。清水山城は安曇川の河口付近にある山城である。
佐々木高信の次子・頼綱の長子・頼信は横山氏の祖となり、次子・氏頼は田中氏の祖、三子・泰綱が朽木氏の祖となった。以来、綱を通字としている。
高島七頭は佐々木越中守家を惣領として高島郡全域を保持しているものの、七家全てが独立した御家人であり、室町将軍家直属の外様衆であった。高島七頭の内、六氏は佐々木高信の庶流だが、山崎氏だけは佐々木経方の子・家行が愛智氏を称し、その五男・山崎憲家を祖とする。
江南では佐々木氏の嫡流六角氏による分家や国人らの家臣化が行われており、高島七頭の庶流らも六角氏に仕えて本領を安堵されるものも出ていた。永正十七年に家督した六角定頼は戦国大名として家臣団を再編している。高島七頭も六角氏に押されて徐々にその傘下に入りつつあった。しかし、高島七頭には外様衆とは雖も将軍直臣であるという誇りがあり、特に朽木氏は将軍家の盾であるという意識が強い。とはいえ、現実的には副管領の権威と江南・江東を抑えた六角氏の武威に耐えかね、下風に立たざるを得ないというのが実情であった。
江北を治める京極氏は佐々木道誉の末裔であるが、この頃、京極政経と京極高秀の三十五年に及ぶ家督争いによって衰退の兆しを見せている。没落した政経が出雲に落ちることで、家督を回復した高秀は名を高清と改めて家中統制に乗り出した。その結果、賤臣に過ぎなかった浅井亮政の台頭を許すこととなる。
こうした争いは今の所若狭では起こっていなかった。身内で争うなど、国力を削ぐだけの行為である。元光とて、父・元信とは考え方が違っていたが、相剋するほどのことではなく、家督するまでのことと忍耐の日々を送っていた。
しかし、いざ当主になってみると将軍家との繋がりを絶つことはできず、要請されれば軍を発さざるを得ない。軍を発せば費えが失われると解っていても、細川氏と将軍家に睨まれれば、丹後国守護職を武田のものとすることが叶わなくなるからだ。あちらはあちらで若狭国守護職を取り戻そうと考えていることだろう。
「そろそろにございますな」
「そうか」
勝春の視線の向こうには隅立ち四つ目結――朽木氏の家紋が描かれた幟の立ち並ぶ城が見えた。
城というと、現代の感覚では天守閣があり、石垣の上に曲輪が張り巡らされている物を思い起こすが、この当時の城は土手が巡らされ、その奥に平屋建ての館があり、それを曲輪が囲んでいるような簡素な造りが一般的で、朽木城は平城であることもあり、現代の感覚でいうと館である。川を濠として使うか、川から水を引いて濠を満たすこともあった。朽木城は南に安曇川、西に北川があるため、南側の正門前に川の水を引いた濠が東西に走る。ここは平時の政庁と領主一族の生活拠点であり、戦になると山城に籠もらなければならなかった。朽木城も多分に漏れず詰城が朽木城の南南西十二町離れた西山にあった。西山城は主曲輪に細く鈎のように曲った北曲輪と、広場のようになった南曲輪を持つ山城で、北に堀切が二重に設けられ、南に堀切が一つ。城戸口は西に向いており、東からは出入りできないようになっている。
どちらの城も二〇〇〇もの兵卒らを全員収容出来る筈もなく、上柏の指月谷にある朽木氏の菩提寺である興聖寺に案内された。初めは元光も兵卒らと共に興聖寺に宿泊する予定であったが、稙綱に館の離れを勧められ、今日だけは世話になることとした。
「彦次郎殿も、大変にござりますなぁ」
弥五郎は存外細やかな気遣いができるのに、風貌は粗忽者にみえ、風流人であるの野暮ったさが抜けきれぬ。そこに和らぎと親しみを感じるのだが、本人はどう思っているのだろうか。
「いやいや、弥五郎殿ほどでは御座らぬよ。近頃は雲光寺殿に伺候されているとか」
「ご存知であられたか」
知らぬ筈もない。永正十四年の丹後出兵の後詰に朽木の軍勢を送るとの約定を六角氏綱は武田信親と交わして置きながら、稙綱に断られ続け、それが原因で氏綱を怒らせ、あわや戦端を開きかけた。これは、稙綱から事前に武田氏へ打診があり、信親了承のもとの振りである。その代わり、大永二年には蒲生秀紀が六角定頼に反旗を翻した際には四ヶ月にも及ぶ長在陣を強いられたのだが。
「雲光寺殿も近江統一を急いでおられるのであろう?」
「環山寺殿も不甲斐ないようで」
雲光寺殿とは六角定頼、環山寺殿とは京極高清のことである。京極材宗およびその父・京極高経との家督争い――世にいう京極騒動を制した高清であったが、その終結に尽力した上坂家信が大永元年歿すると、その子信光が家信の跡を継いだ。京極騒動を鎮圧した家信の執政を仕方ないと考えていた国人らも、上坂信光の専横は受け入れ難く、それを許す京極高清への反発が強まっていた。
翌年に入ると、高清の後継者問題が持ち上がる。高清は信光の意向もあって次子の高吉を推していたが、これに反発した浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井秀信ら江北の国人衆は浅井郡草野郷にある大声寺塔頭の梅本坊で談合して尾上城主・浅見貞則を盟主とした反上坂信光の国一揆を結んで、同三年三月九日尾上城に籠もった。長子高峰を擁立する取り決めを交わしていたという。
この動きを察知した上坂信光は今浜城に軍勢を集め、尾上城にほど近い安養寺に陣を張った。しかし、尾上城より出陣した浅見・浅井の軍勢に打ち破られ、今浜城に逃げるも一揆勢は追撃し、城を攻め落とす。辛うじて今浜城を落ちた信光だったが、翌四年、逃亡先の刈安尾城にも攻め寄せられ、ここも脱出した。高清と高吉の籠る上平寺城も一揆勢に焼き討ちを受け、信光と合流して尾張へと落ち延びていった。
一揆勢は刈安尾城に留まった高峰を奉じて神照寺に入り、尾上城に迎えて高峰が京極氏惣領となり、執権に浅見貞則が就くこととなる。しかし、浅見貞則も専横が多く、浅井亮政と対立していた。
「そうはいうても、老獪な備中相手では、環山寺殿など赤子の手を捻らるるように……」
「確かに。暫くは雲光寺殿の目線、江北に向きましょう。某如きに関煩って居る暇などございますまい」
確かに六角定頼の懸念は江北の京極領へ向いたが、その分朽木氏は領内不穏分子の対応で長対陣させられる羽目になるのだが、それはまだ先の話であった。
「彦次郎殿とて、武州殿からの軍催促に御座ろう?」
「いや、此度は京の警固に御座る」
稙綱は意外そうな顔をした。
「警固故、粟屋孫四郎を連れて参った由。軍勢は全て粟屋党でな。某は一人、母の菩提を弔おうと思ってな」
「左衛門尉殿のご子息か」
元光が肯く。粟屋党で外に最も名を知られるのが親栄である。今回引き連れてきた軍勢は粟屋党のみで、元泰に率いさせても良かったのだが、勝春を元光が推したのだ。
「で、武州殿は何処に兵を出されなさる?」
「我ら若狭勢が京に入り次第、嵐山殿と神尾山殿が南に出立するそうな」
稙綱が首を傾げる。今、南に戦火はない。となれば、援軍ではない香西元盛と柳本賢治の向かう先は――
「和泉岸和田城か!」
「で、あろうよ。和泉の上守護家の刑部殿は讃州家に属いて阿波と行き来されておるそうな」
安堵の表情を見せる稙綱に、元光は少しだけ救われた思いがした。