いつしかに 春とは知りぬ 鴬の
さだかならねど 今朝の初声
平瀬家蔵短冊手鑑 細川晴元より引歌
足利
岩栖院は
岩栖院は平安京の北に延びる北大路から鞍馬口へと向かう場所にあり、
大内裏から南に向いて左側を
土御門東洞院殿が内裏として用いられるようになったのは、倒幕を志した
洛陽城は益々発展し、中央の朱雀大路が西端になるという偏りが生まれると、居住の禁を破って鴨川にも市街地が広がっていく。結果、朱雀大路を西朱雀路などというようになった。この頃にはすでに洛中という言葉は一般的に使われており、洛中は洛陽城の中ということである。洛陽城を中心に洛北・洛西・洛東・洛南という言い方をするようになるのも鎌倉期からのことであった。
義晴公は将軍宣下を受けて岩栖院から三条坊門御所へと移ったが、居心地の悪さを隠さなかった。坊門とは、長安の町を碁盤の目のように区切った際の、各区画を仕切る門のことで、夜明けの知らせとともに開き、日暮れの知らせとともに閉じられる。夜間は通牒がなければ他の坊へ出入りできない。
三条大通に面したこの御所は歴代の将軍も御所とした場所であり、鳥羽上皇の三条御所があった場所に近い。花の御所と呼ばれた室町殿が「上の之御所」と呼ばれたのに対し、「下之御所」と呼ばれ、前将軍義稙公も御所にしている。しかし、出奔によって放置されていたため、高国が襲位までに修繕させた。それ故、不便はない。高国としては御所はここではない方が好いと考えて正月廿八日に義晴公へ御所の移築を建議し、義晴公はこれを承認した。
高国の手配で、同朋衆や御供衆、奉公衆らも帰参していた。政務は伊勢貞忠が政所執事を引き続き務めたため、滞りなく進み、整った組織によって催事も恙無く行われていた。そのため、若い義晴公が親政しなければならないことは殆どなく、あくまで形式上の話であった。重要なこと――特に軍事・人事関係は
とはいえ、将軍は将軍である。催事の要であり、ましてや人の忠誠心というものはお飾りであっても、将軍に向けられる。居てくれねば困る存在なのだ。催事や酒税・
また、奉公衆などとの面会も拒む様子もなく、政務については真面目である。さらには派閥を作って高国と対立する様子もない。高国としては安心して支えられる良き将軍といえる。少なくとも義稙公とのような緊迫した関係にはならなそうだと感じていた。
「上様におかれましては、我が家臣・細川
「よい、高国。
少年のまだ甲高い声が、大仰な高国の言葉に答える。高国に全幅の信頼を置いていると言わんばかりの喜色に包まれていた。
戦の中を転々とした義晴公は、高国によってようやく安寧の日々を送れる様になった
「御成の準備もお有りかと存じますので、
「待て、高国。折角来たのだ、茶でも
ほぅ、と高国が小さく声に出した。
義晴公が、こうした気遣いをする少年であったことに驚いたのだ。義稙公にはなかった気遣いである。高国との関係性を把握しながらも、立場の上下は忘れず、それでいて気配りを怠らない。これは、拾い物であったかもしれぬと、ほくそ笑んだ。
「そこまで仰っていただきましたら、断るわけには参りませぬな。頂戴仕りまする」
「うむ。
御末之衆が音もさせず御座所から去り、御供之衆筆頭の千阿弥を呼びに行った。
義晴公の御座所の周りにはいくつかの会所がある。裏手には蔵もあり、義満公の遺した北山御物や義政公が遺した東山御物が収められていた。一部は財政難や戦費のため放出していたが、まだ多くが残っている。蔵毎に同朋衆の管轄が分かれているが唐物蔵が最も多く、中でも茶湯蔵が半数以上を占めていた。
今は
会所とは、寝殿造りの客亭から派生した建物で、もとは建物の一部であり、常御殿や泉殿と兼用されることもあった。
常御殿とは邸の主の日常の場であり、平安時代は寝殿で代用されていたが、室町時代になると独立した建物として別殿となった。
泉殿は邸内にある湧泉で池を造り、これに臨んで建てられた納涼や遊興に用いられる小亭のことである。平安貴族が曲水の宴などを愉しむ川や池が傍らにあった。
会所は武家の建物が書院造りに変化していく中で独立した建築様式へと発展していき、奥まった私的・公的を問わず催し物が行われる
御成とは、広義では将軍や貴人が外出することをいうが、一般的には将軍の御成を言うことが多い。将軍ともなると招かれたとしても、御成に用いる道具は饗応の者が用意するのではなく、同朋衆が選別した道具や家具を持ち込んで、茶を点てたり、給仕を取り仕切ることになる。それは将軍だけではなく、御供衆ら供の者らや、御成に付き添う公家衆にも同様に振る舞った。主催者が招いた客は邸主がもてなすことになる。こうした役を担う同朋衆を|御供之衆――御供之同朋衆と呼ぶ。
御供之衆は会所之衆の中から選ばれた者たちで、特に茶湯に通じた者が選ばれることが多い。これは人前で点前や給仕を行うからであり、
今回の御成は前々から決まっていたこととはいえ、節供の設えと重なれば支度が慌ただしくなるのも致し方ない。御供之衆は会所之衆から選ばれているため、両方に携わる者も少なくないからだ。
この時代、連歌に式正能に茶会と将軍は多種多様な催しを行っており、その興行は幕府の収益でもあり、文化の保護でもあり、寺社への奉納でもあり、民への施しでもあった。相次ぐ戦や不安定な政権であった幕府の大事な財政を支える事業と認識されている。
但し、御成はどちらかというと政治の話で、この度の御成は高国が家臣への褒美として乞うた面が強い。それを理解しているのかいないのか、義晴公は二つ返事で決めたと聞こえる。
御成のために集められた道具を箱から出し点検している茶坊主らに、古稀を過ぎた老人が混ざっていた。
「千阿弥様、細かいことはお任せあって宜しゅうございます」
「
道奕が
「玉阿弥殿は道具の扱いの確認に御会所殿の方へ行かれておいでですが」
御会所殿とは会所之衆筆頭の
同朋衆というのは、時宗の者たちが敵味方を問わず死者を弔うために従軍したことに始まる。このため、伝統的に奉行は皆、阿弥号を用いていた。しかし、これは時宗の帰依者と限った訳ではなく、室町時代には大徳寺に帰依した者もあれば本阿弥家のように一家で法華宗に帰依した者も居る。
鎌倉幕府に保護された時宗は、
これに目を付けた幕府が書画や唐物などの御物の管理や調度・家具などの選定、儀典・芸能一般を時宗の者らに委ね、彼らを同朋衆と呼んで組織した。
室町殿の同朋衆は先に述べた会所之同朋衆・御供之同朋衆の他、御末之同朋衆がある。
御末とは諸家諸臣等の対面に用いられた奥座敷のことでおり、一応表向きの場所で、祐筆や書記、奏者をする同朋衆が詰める。
一般的に同朋衆というと、会所之衆を指す。足利義満公に仕えた刀剣の本阿弥、唐物や書画に通じた
また、この他に河原者と呼ばれた者たちや、観阿弥・世阿弥・音阿弥など外部の能楽者たちも存外自由に出入りしていた。会所之衆の海老名南阿弥などは河原者や役者を手配する惣領である。
毎阿弥は能阿弥の父で、元々朝倉氏に仕えた武士であった。しかし、義満公に乞われて同朋衆として出仕した。のち義持公に仕えた会所之衆である。その能力を買われて御供之衆も兼ねていた。義満の信頼は絶大であり、御供之衆の中で筆頭となった。中尾
毎阿弥の子・能阿弥は義教公・義政公に仕えた中尾
能阿弥の子・芸阿弥は義政公に仕えた中尾
道啓というのは法華宗の在家号である。千阿弥というのは阿弥号から始まった家名だ。義政公以後、同朋衆が世襲化すると必然的に家門化し、それぞれ阿弥号を名字として名乗るようになっていた。阿弥号が時宗の号ではあった時代は遙か昔となって、現在は多種多様な宗派の者が同朋衆として家名化した阿弥号を使っている。
千阿弥は唐物奉行の家である。三代目の道啓は高齢ではあるが、御成のための茶道具、会席家具などの準備に余念がなく、忙しくしていた。
御成で道具を運ぶのは御供衆の茶湯奉行だ。御供衆は大名家の一門の者らが多く、御供之衆とは身分が大分違うのだが、彼らは専門家ではないため、中に入ってからは御供之衆が担うことになっている。
先方の見取絵図を見ながら道具の選定をし終えていても、勝手の道具も運び入れなければならないのだ。忘れ物があってその
将軍の使う道具は将軍家が持ち出し、場合によっては、その中から下賜する物もでてくる。故に品物は保管箱の附属品――これを次第というが――にいたるまで完全に整えておかなければならない。欠けていては将軍家の面目を潰してしまうからだ。
「歳阿弥、この茶入の裂が足りぬようだが……」
道啓の手許には開けられた包がある。仕切られた箱の中に空きがあり、本来入っていたはずの
その仕覆が一つない。
「おかしいですな。確かつがりが解れかかっていたはずで……」
「先日袋師にお預けになられました」
道奕の横にすっと入ってきたのは万阿弥であった。手には木箱を抱えている。万阿弥は歳阿弥道奕の妻の一族で、歳阿弥の弟子の中では筆頭であり、同朋十一家の一つである万阿弥家の養子となっていた。
「そうであった、そうであった。千阿弥さま、こちらは修繕に出しております。つがりがよろしくないと以前、相阿弥様が仰られておられたのですが、
「そうであったか。では、代わりのものを出しておいておくれ、万阿弥」
万阿弥が、体の向きを変えて頭を下げる。
「上様のお気に入りをお出しなさい」
万阿弥が了承の会釈を返した。親族であってもここでは他人行儀を崩さない。当り前だが難しい。それが性に合わず飛び出した者もいる。千阿弥は少しだけ自由を愛した弟を思った。
歳阿弥と万阿弥の様子に満足しつつ、道啓は忙しなく茶を点てに向かった。場末之衆が迎えに来ていたからだ。
「今度の上様も茶がお好きのようだ」
それは同朋衆の安泰を約束してくれる。義晴公には、戦や政争に巻き込まれず、長く在位されてほしいと願わずには居られなかった。文化とは平和な時代にこそ花開く。建武の新政以後、騒乱が断続的に続く室町の時代から更に激しい戦乱の世へとなった今、仮初めであったとしても、僅かな日々であったとしても、その倍の戦乱の日々に優ること何十倍であろうか。千阿弥は独り言ちながら、会所へと向かった。