寧波に乱有り
かくばかり 遠き海果つ 寧ら波
今ぞみやこの 夏の黄昏
「すっかり手馴れた動きになられましたの」
台子の前に坐った与右衛門に、そう声を掛けたのは天王寺屋の新三郎引拙である。今年の春に八十歳になった表兄の源左衛門宗柏より弟子らを預けられて指導を始めていた。引拙は宗柏の父・新次郎紹怡の義弟の子である。宗柏が又二郎と名乗っていたころに村田珠光へともに入門した。宗柏には弟が一人と子が四人おり、弟・源三郎了専は十歳下、引拙は十五歳下である。長子・隼人――成人して助五郎が十九歳、次子・真人が十五歳、三子・寿人が十三歳、末子・綾人が十一歳であった。ちなみに引拙は道号、戒名は宗伯で、鳥居引拙というのは津田宗柏と紛らわしいため、後世呼ばれるようになったものだと言われる。
天王寺屋の屋号は津田紹怡が天王寺町の出身であることから付けた屋号で、材木町に居を構えている。宗柏は紀伊津田家に連なるとも噂されているが、宗柏は肯定も否定もせず、ただただ笑っているだけだ。しかし、与右衛門には「紀州の津田家は根来やで」と零したことがある。源左衛門と名乗るところをみると、源氏の血筋といいたいのであろうか。それに、本願寺の御用商人である天王寺屋が、真言宗の根来寺杉之坊の分家筋などとは悪い冗談であった。さらに、法華宗の顕本寺を菩提寺とする三好家とも繋がりがあり、さらには豊後にも支店を持ち、手広く商いをしている。会合衆の幹部である十人衆の一人であり、湯川一族を除けば、能登屋、臙脂屋に次ぐ豪商だ。
「先生、まだまだ手ぇがあきまへん」
言いながらひょいと茶巾を摘んで茶垸に戻し、茶筅を置き付ける。
茶巾とは、上等の白麻布で網目になっている照布を最上とし、奈良晒、越後布、高宮布、薩摩上布などで作られる一尺五分四方の布で、茶垸などを清めるための道具だ。現代の茶巾はこの半分ほどの大きさで、この当時の茶巾は真の茶巾と呼んで、台子の奥秘と呼ばれる一般に秘匿された点前にしか用いなくなっている。
茶筅とは半寸ほどの太さの竹の先を十六〜七二分割して外穂と内穂に分け、緖で縢ったもので、穂数の少ない方から平穂・荒穂・中荒穂・常穂・数穂などがある。一般的に穂数が少ない方が点てにくく、多い方が折れやすいため、常に新しい物を使う。このことから、穂数の多い茶筅を用いることは、のちに謙遜ともてなしの意味ともなった。
今年五十七歳になる与右衛門よりも引拙の方が八歳ほど上で、津田宗柏の従弟だけあって、茶の湯の腕はかなり上手であった。
「千屋はんはそう言わはりますが、商いと一緒で手ぇも抜け目のぅ動かされますやろ、えろう器用でっせ」
些か揶揄めいたこの言い方は、なにやらやらかしたことを注意する言い方だ。だが、与右衛門は全く気付かない。目の前のことをするだけで、精一杯なのだ。
「目の前のことだけやのぅて、二手先のことも気にしまへんと」
目の前のことが出来ていないのにと思うのは素人考えである。茶の湯の点前というのは非常に合理的であり、先のための準備をしていることが殆どで、だからこそ無駄がなく美しいのであり、研ぎ澄まされた洗練さがあるのだ。そして、それでもなお、間違いを許容する懐の広さがある。
「まぁ、ええでっしゃろ。まちごうたらあかん訳やないさかい」
この辺りは宗柏と引拙は似ていなかった。宗柏は手を美しく見せることに厳しかったが、引拙は人当りが柔らかい。しかし、言葉は柔らかくとも芯に冷えを感じさせる。つまり、人として厳しいのだ。決して冷酷な訳ではないし、人情がない訳でもない。自己研鑽を大事にするというか、大事にしない人を見放しているというか、長い目で見ているのかもしれない。風炉釜の蓋を閉めながら与右衛門は思った。
「与右衛門はん」
カチャン!
急に予想していない声に呼ばれて手許が狂い、唐銅の蓋が大きな音を立てた。続き間の開けられた襖の向こうから、宗柏が顔を覗かせている。引拙はどちらにか、しかめっ面をしていた。
この時間に宗柏が顔を見せるのは珍しい。いつもなら顕本寺の日演和尚と碁でも打っているはずだ。早々に負けでもしたのだろうか。とても難しい顔をしている。
顕本寺というのは、和泉国の法華宗の中心で、末寺頭である。南泉に法華経の教区を広げた寺で、開基である日隆は越中守護であった斯波義将の女婿・桃井尚儀の子であった。日隆は河内国石川郡加納の豪族で叔父の斯波義盛の次子・日浄をして顕本寺の後継とし、開山させたものである。
始まりは木屋弥三右衛門や錺屋藤左衛門らの屋敷を法華堂としたところからであった。宝徳三年山之口の南寄り、開口神社の裏に本堂が創建されて以来、和泉国法華宗の中心となっている。堺の納屋衆にも信者は多かった。
「従兄さん」
「……なんや、まだかいな。えろう失礼したの。与右衛門どの、しまいに寄ってくれんかね?」
宗柏は与右衛門に話があるようだった。引拙は渋々といった様子で頷くので、与右衛門は恐縮しながら頭を下げた。
半刻ほどして、稽古道具を片付けて水屋から出できたところに、丁稚の小僧が待ち受けていた。茶の稽古というは、道具を出してから片付けるところまでであり、炭は継いで使い続けて、一日の終わりの者が片付ける。今日は与右衛門の後にまだ稽古をするものがおり、片付けはすぐに済んだ。
早足で廊下を振り返りつつ小僧が歩いていく。大分、宗柏に急かされたのか、今にも走り出しそうで、可笑しげであった。
部屋に通されると、宗柏が手招きをする。 そこは南蛮風の椅子と円卓が置かれた部屋で、葡萄酒が入った玻璃の瓶と銀の杯が載っていた。
「えらいことになりよったで」
声を潜めて宗柏が言う。なんと、細川高国が送り出した遣明船の正使が寧波で殺害されたのだというではないか。四月九日に前将軍・義稙公も亡くなっており、良くないことが続くのを感じさせた。
「そもそも、今回の遣明船はきな臭うての」
遣明船というのは、日本から明に派遣される朝貢使節を乗せた商船団である。春または秋に北東から吹く季節風に乗って出発し、四月を過ぎてから吹く西南西の夏の季節風に乗って日本に戻ってくる。
遣明船はそもそもは室町幕府が行っていたもので、足利義持公が朝貢を嫌って応永十七年に中止するまでに六回ほど派遣されている。回を追うごとに大規模になる朝貢使節に明側も対応を苦慮していたという。足利義満公は名を売って実を取ったが、義持公は朝鮮や琉球との交易でそれを補えると考えた。
その後、幕府は自力で派遣することが難しくなったため、足利義教公は永享四年、堺の湯川宣阿に命じて再開させる。これは有力な寺社や大名家が船主となって、使節を請け負い、代わりに抽分銭を幕府に納め、勘合を発行してもらい幕府の代理人として朝貢を行っていた。これに特に力を入れたのが山口の大内氏と畿内の細川氏である。
大内氏は兵庫津・博多津、細川氏は堺津という良港を擁していて、この日明貿易の経済効果を上手く利用し、それが故に対立していた。
しかし、永正の錯乱によって勢力の衰えた細川氏に対し、大内義興が上洛の軍を起こした。破竹の勢いをみせる大内勢に対抗しようとする澄元であったが、疎まれた高国は大内義興と結び、澄元と袂を分かつ。澄元陣営から離反した高国は、前将軍義尹公を奉じた大内義興を洛中に迎え入れた。大内義興と協調路線を取ることになる。反讃州家の内衆を糾合し、弱体化した細川氏の基盤を補うためでもあった。
将軍に復した義尹公は名を改め義稙と名乗り政権運営に携わっていくが、三者の蜜月は瞬く間に終わりを迎えた。先ず、義稙と高国の意見が対立する。帰国したい義興は将軍を疎んじはじめるも、それを引き止めたい義稙が義興を利で釣り、更に高国との対立を深めるという悪循環であった。
完全に決裂するのは、永正十三年、義稙公が遣明船派遣の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書を、高国の反対を押し切って義興に与えてしまったことによる。これで細川高国と大内義興の協調は難しくなった。
この頃、義興は国許の情勢の不安定さもあって、麾下の武将たちが勝手に帰国するような状態であった。更に大内氏の領国に尼子氏が度々侵攻するようになると、遂に永正十五年八月二日、義興は管領代を辞して堺を出発、十月五日に山口に帰国してしまう。
こうして再び高国の単独政権となれば、大内義興への憚りなく日明貿易に乗り出すことを画策しはじめる。高国としては、敵対勢力を抑え込むのに必要な財力源をみすみす義興に奪われたままにする訳にはいかない。この辺りの政治均衡感覚が義稙公は稚拙であった。
大内氏は応仁の乱で得た播磨の兵庫津から瀬戸内を通り、山口・博多を経由する内海航路を抑えているのに対し、細川氏側は領国である淡路・阿波・土佐から、日向や薩摩に寄港して種子島へ渡る南海航路を扼している。
大永三年の遣明船で細川高国が用意したのは弘治勘合である。本来であればこれはおかしい。明は既に嘉靖帝が立っているが、即位してから朝貢使節は派遣されていない。故に嘉靖勘合は日本に交付されていなかった。新たに嘉靖勘合を受け取るまでの正規の勘合は先帝が発行した正徳勘合でなければならない。日明貿易は朝貢貿易であり、朝貢と貿易が一元管理されるため、新帝即位に際して勘合百部が発行され、幕府に渡されていた。
この弘治帝・正徳帝・嘉靖帝という言い方は日本独自のもので、明が一世一元の制度であり、皇帝一代の間は同じ元号を使い続ける制度であったことに因む。このため日本では明朝皇帝に元号を付けて呼ぶ習慣が生じた。新帝である嘉靖帝は世宗で、弘治帝が孝宗、正徳帝が武宗である。
また、勘合とは、明王朝の発行した文書の名称で、割符のように突き合わせるものではないため、勘合符というものは存在しない。明王朝では国内の商取引のいくつかも勘合によって許可制になっていた。
最初は規模の大きかった遣明船も、応仁の乱以降は十年に一度で派遣船は三艘、乗員は三百人までと制限された。これは滞在費などを明側が持つため、財政難の続く明が支出の削減を狙ったものだと言われている。規模が小さくなったとはいえ、それでも、遣明船による日本側の利益は莫大で、細川氏と大内氏は熱望していた。
しかし、正徳勘合は大内氏の管轄であるため、高国は弘治勘合を幕府から強引に引き出すことになったのである。
そもそも、大永三年の遣明船は永正十六年に大内氏よって計画され、正徳勘合三枚が大内氏に下げ渡されている。正使に渡来人で大内氏の菩提寺である凌雲寺の住持・謙道宗設、副使に臨済宗の日向国竜泉寺住持・月渚永乗が任じられ、三艘の遣明船が仕立てられた。首船は大内船であり、東福寺船と博多船という構成である。謙道宗設らは前年秋に出立、四月廿七日に現地入りした。しかし、何故か臨検が行われず、待たされることとなった。
大内船に遅れること二日、細川氏の弘治勘合遣明船が入港した。細川高国は正使に臨済宗の美濃国瑞光寺から相国寺住持に上がった鸞岡瑞佐を、副使に宋素卿を任じている。これは細川船であるが、相国寺船でもあり一艘のみであった。
不可思議なことに寧波の市舶提挙司が行う臨検は、到着順で行われるのが基本であにも関わらず、市舶司太監の頼恩は細川氏の本来無効な勘合を不問にし、臨検を即刻行ったのである。本来は大内氏の遣明船が先に臨検を受けるはずだった。ちなみに太監とは長官のことであるが、宦官の別名でもあった。頼恩は宦官である。
その夜、両使節団が招かれ、歓待の宴となったが、上座に細川方、下座に大内方という席次である。面白くないのは謙道宗設ら大内氏の使節団だ。臨検を待たされた挙げ句、あとから入港した細川氏らが先に臨検を受け、しかも上座に坐っている。歓待の宴は罵声の飛び交う修羅場となったが、居心地の悪さを感じる鸞岡瑞佐に対して、宋素卿は平然としており、それに謙道宗設はますます憎しみを滾らせ、月渚永乗が必死に宥めた。
宋素卿というのは、明人で貿易商である。明は民間の自由貿易を禁じていて、貿易をしていたということは、当然密貿易であり、倭寇と繋がりを持っていた。
しかし、遣明船が再開されると、倭寇が下火になることを察し、すぐさま明応四年の遣明船で明に渡っていた湯川新五郎に従って渡来、日本に居を構え「素卿」と名乗ったといわれる。これはどうも本名の朱縞を日本人が聞き取り間違えたものがそのまま定着した呼び名に漢字を宛てて名前らしくしたというのが真相のようだ。
堺を拠点に貿易で身を立てた宋素卿は、永正七年四月、足利義澄公の使者として渡明した。あまり歓迎されていない中で、黄金一〇〇〇両を宦官の劉瑾に献上して、歓待を勝ち取り、前例のない飛魚服を得たという。この頃、正徳帝は劉瑾ら八人の宦官――八虎と言われた――に遊興を奨められ、政治を顧みず、一部の朝臣と結託し朝政を壟断した劉瑾ら八虎によって明の朝廷は収賄政治の坩堝と堕していた。
飛魚服というのは、錦衣衛や武将に皇帝から賜る朝服であり、軍服の一種である。宋素卿は皇帝の側近と同じ扱いを受けたに等しい。
しかし、宋素卿が賄賂を贈り誼を結んだ劉瑾は、同年に起きた安化王の乱の原因であると主張されていた。正徳帝の寵愛を失って粛清されることを恐れた劉瑾は、同年八月、史上初となる宦官による帝位簒奪を企てたが、同僚の密告により捕らえられ、凌遅刑となった。凌遅刑とは、死ぬまで少しずつ傷をつけ、肉を削ぐ刑であり、なんと、死に至るまで三三五七刀にも及んだという。
そんな政変があったとは知らない細川高国は翌永正八年、細川船の正使に宋素卿を任じた。しかし、宋素卿は恙無く任を果たしている。
これは明朝が劉瑾の死を以てしても綱紀粛正されなかったからだった。劉瑾の変以後も正徳帝の浪費癖は治らず、今度は宮中で軍事教練を行い、自ら練兵し、慢性的な国庫不足に拍車をかけた。更には宮中教練に飽きると親征と称して軍を率い、各地で美女を捕らえて姦淫に耽る始末であった。明朝はこのまま上向くことなく衰退していく。
宿に戻った謙道宗設は、宋素卿の態度を思い出して更に怒りを募らせ、正式な使節は自分たちであることを頼恩に抗議した。しかし、清廉潔白な謙道宗設が袖の下を贈らなかったため、頼恩は取り合わない。そうなると謙道宗設は宋素卿が賄賂を頼恩に贈ったためだと断じて、事ここに及んでは是非も無しと、襲撃を決意。翌五月一日、船員三百人を率いて官庫を襲った。
大内勢は預けていた貢納品と武器を強奪、東南の城門を占拠する。寧波府および同衙衛に宋素卿をはじめ細川氏の使節七十名が保護されたが、逃げ遅れた鸞岡瑞佐以下三十名が、謙道宗設らに捕らえられた。
翌二日、城門に立て籠もった大内勢と寧波衛の攻防は一進一退が続くが、終始大内勢が優勢であった。勢いにのる大内勢は三日、捕らえた細川方の使節十数名を門外の河岸で斬首の上、死体を川に投げ込むと、港に押し入り細川方の船を貢納品ごと焼き払った。その隙に宋素卿は頼恩に嘆願し、紹興府へと逃亡した。
宋素卿に逃げられた大内方は、怒りが収まらず、その勢いのまま寧波衛を破り、頼恩を殺害、寧波衛指揮の袁璡を捕えて明軍の軍船を奪って、逃亡する細川方を襲撃。若干名を殺傷するが、同時に抵抗する住民も巻き込まれたという。船員たちは町で放火し、略奪を働いたともいわれる。
そのまま紹興に進軍した大内勢に、紹興府は城門を閉ざしたため、大内勢は宋素卿の引き渡しを要求したが、紹興府はこれを拒否。三百名足らずの軍勢では城攻めは難しく、大内方は寧波に引き返し、袁璡を捕虜としたまま、寧波を出港した。
「なんとまぁ……」
与右衛門は絶句した。筋が枉げられたことを怒るのは分かるが、これでは国際問題になる。正式な手続きで抗議を行うべきところを一介の正使ごときが相手国の外交官を殺害した上、官府を襲って役人のみならず住民まで手に掛けるとは……。
「細川さまは大層ご立腹であったとか」
「そらそうでっしゃろ」
ここまでされて怒らない人はいない。完全に面目を潰されたのでだ。ただし、面目を潰されたのは大内義興もであり、もっと面子を潰されたのは明朝である。以後、天文五年まで遣明船は途絶えることになる。そして、寧波市舶司大監は廃止され、宋素卿は投獄された。
不幸な事件であったが、遣明船による貿易の利は、堺を潤していた大きな流れの一つである。これはその一つが絶たれる恐れがあった。宗柏が与右衛門を呼んだのはそれを聴かせるためであったのだ。
「これからどないなりますかな?」
「博多に引き合いのある天王寺屋はそれほどでもおまへんやろけど……」
宗柏も同じ思いであるのか言葉を濁す。与右衛門は、昨年の三好之秀の話を思い出していた。これは時代が動きそうだと、商売人の勘が囁く。三好への肩入れを深めると決めた。