乳を同じうして枝を連ねる
いささめに 時待つまにぞ 日は経ぬる
武者子も吾子も ともにはぐくむ
千屋は堺の今市町にあり、この辺りは住吉大社の社領である。今市町の西には宿院頓宮があった。
宿院頓宮は住吉大社の御旅所として設けられた社で、夏越の祓には住吉大社より神輿を迎えて、境内西側にある飯匙堀で荒和大祓神事が斎行されることで有名である。夏越の祓は現代のように新暦6月末に行うものではなく、旧暦六月の晦日に夏が終わり翌日から秋になる暦の区切りで行われる物だ。これに対して大晦日に行われるのが年越の祓である。
今市辺りには納屋衆が多く住んでおり、千屋や本家の斗々屋だけでなく、親しい天王寺屋も割合近く、皮屋は通りを挟んだ向かいにある。また納屋宗才の邸も皮屋と軒を並べていたし、天王寺屋の向こうには、錺屋や木屋なども軒を並べていた。
その千屋に、ひっそりと訪れた客人があった。そのため、離れに近づかぬよう父に言われた多呂丸は義母の許に来ている。その義母の許にも小さな可愛らしい客が迎えられていた。
そして、多呂丸は昼過ぎからずっと二人の赤子を眺めている。赤子というのは、泣いては乳を貰い、泣いては襁褓を変えてもらい、キャッキャキャッキャと笑っては、紗衣を独り占めしていた。
紗衣は多呂丸からすると継母ではあるが、これまで紗衣に子がなかったこともあり、実の母子のように仲睦まじい。先日の出産の折には実の母のように死んでしまうのではないかと、子供ながらに心配して、いつでも手伝えるようにと産屋の前から離れなかった。
二人の赤子のうち、一人は十日ばかり前に生まれたばかりの弟・志郎丸である。もう一人は客人に連れられて来た赤子だ。但し、客人の子にしては歳が離れている気がする。名前はたしか千熊丸といった――と思い出していた。千熊丸は豪奢な御包みを纏い、乳母に抱かれて千屋に連れてこられた。どうやら、その実母も乳母も乳の出がよろしくないようで、やってきてからというもの、志郎丸の分も飲んでいるのではないかと多呂丸が心配するほどに、紗衣は千熊丸に乳をやっている。
「あれ、多呂や……多呂もほしいかぇ?」
紗衣は多呂丸がじっと見ているのに気付くと、手招きしてみせた。多呂丸はカッと頬を紅く染めて大きく頭を振る。
「多呂は赤子ではありませぬ! 志郎の分が無ぅなりはせんかと……」
ほほほと、紗衣は笑った。
微笑ましい兄弟愛に嬉しさがこみ上げる。この乱世では同腹の兄弟ですら争うことがあるというのに、異腹の弟を気遣う心が多呂丸にあることが嬉しいのだ。
「かぁさまはたんと乳が出るに、志郎の分など無ぅなりゃせんがね」
笑顔でそう紗衣がいうと、多呂丸はばつが悪そうにしょげ返ってしまった。もう一人の赤子への意地悪と思われたと心配したのだろう。
「多呂はいい兄さまになるねぇ。せやけど、これからは志郎だけやのぅて、千熊さまの兄さまにもならなあ」
そう言うと紗衣はクシャクシャっと多呂丸の頭を撫でた。多呂丸ははにかんで笑顔を紗衣に向ける。幼い童の笑顔に千熊丸の乳母も紗衣の侍女も安堵した表情を浮かべていた。
紗衣の言葉に多呂丸は気づいたことがある。千熊丸がこののちもずっと、千屋に滞在するらしいということだ。それならば志郎丸と千熊丸が乳兄弟になる。武家の子弟というのは母親だけに育てられることは基本的にない。武家の妻というのは夫の留守を守る女主人であり、家臣の妻らの面倒をみる当主の代行者であり、奉公人の差配の役目がある。それ故、特に赤子に掛り切りになることは出来ないからだ。とはいっても、普通は子を外に出すことはない。乳母に阿波訛りがあったから、父の取引先であろうことは幼い多呂丸にも察しはついた。
千熊丸の乳母は阿波の豪族の女に違いないが、乳呑児を連れていない。つまり、乳母はここに留まらず、数日ののち国許に帰るのだ。これからは紗衣が千熊丸の乳母になるのだろう。紗衣を二人に取られてしまうという一抹の寂しさはあるが、それ以上にこの睦まじく眠る二人の赤子が離れ離れにならずに良かったという不思議な感情が多呂丸の心を占めていた。
志郎丸が生まれた大永二年は穏やかな年である。昨年の帝の代替わりから続いた一連の大騒動が片付いたからだろうか。
大騒動の発端は永正十八年三月七日、管領・細川高国と反目した義稙公が京を出奔したことだった。同月廿二日に行われた後柏原帝践祚の儀および即位の礼に武門の棟梁たる征夷大将軍が欠席し、細川高国が警護を代行するという異例の事態となった。これにより、細川高国は事実上の天下人となったと諸大名は受け取っている。だがその実、管領という将軍家の家臣の立場を保持しており、あくまで将軍権威の下の天下人であった。
践祚とは、皇太子または皇太弟・皇太孫などの皇位継承者が皇位を受け継ぐことを云う。即位の礼が国の内外に知らせるのに対し、践祚の儀とは「御祖神に告げる」ものだ。この二つの儀礼を警護するのは武門の棟梁たる将軍の重要な務めである。それを怠ったというのは、朝廷の信頼を損ねることに他ならなかった。ただでさえ不安定な幕府の屋台骨が傾きかねなかった。室町幕府というのは、それほど中央の権勢が強くない。鎌倉幕府と異なり、内乱に次ぐ内乱を武力ではなく政戦両略によって解決した大名連合政権であった上に、応仁の乱以後、細川氏の専横で将軍権威は揺らいでいた。かろうじて朝廷と有力大名らの支持によって命脈を保っているに過ぎなかった。人望のある者や政治力の高い者が将軍であれば、然程問題とはならぬことも、後継者を定めぬまま歿してしまうと内紛の火種を抱えることにもなるし、政治に関心のない者が就けば、私心ある有力大名らに政治が左右されてしまう。ましてや、室町幕府は遠方に奥州探題・羽州探題・九州探題を据え軍事指揮権を与えていた。さらに関東には鎌倉府を置いて分割統治をしている。その結果、鎌倉公方と幕府の確執は何代にも渡って常態化し、反目するまま、応仁の乱に先駆けて関東で享徳の乱が起こった。鎌倉府は戦火に飲まれ、古河公方と堀越公方が対立する。しかし、堀越公方がわずか二代で伊勢宗瑞に滅ぼされ、今度は古河公方の父子の対立が永正の乱を引き起こした。これによって北条と名を改めた伊勢宗瑞の子・氏綱が関東を席捲する。関東と畿内の大戦が立て続けに起こりで、幕府や鎌倉府の統制力は事実上なくなり、実力のみが問われる戦国の世が幕開けた。
その戦国の世にあって幕府を支える管領との仲違いである。元々、高国は積極的に義稙公を擁立したわけではなかった。大内義興の軍勢と戦って敗れることを回避するために、疑り深く馬の合わぬ澄元と袂を分かっただけのことである。先に高国を敵視したのは澄元なのだ。あっさりと義稙公追放を決めた高国は、先の将軍・義澄公の遺児・亀王丸を京に招くことで敵対勢力の取り込みを図り、政権の安定を図る。赤松義村とともに播磨各地を転々としてきた亀王丸は、ようやくひと心地つくことができた。
永正十八年四月六日、京に入った亀王丸は、細川高国に迎えられ、将軍就任の準備に入った。
七月廿六日には将軍家学問始である「読書始」が始まる。同月廿八日、高国と文章博士の東坊城和長が選んだ義晴の名乗りを与えられ、従五位下に叙された。
八月九日には、元服前の儀式である涅歯を終え、同月廿三日、称元。永正が大永に改められ、同月廿八日、内裏に代始めの参賀を行う。ちなみに、天皇即位に際して元号を変えることを『称元』という。
高国の意向を受けた朝廷は、十一月廿五日、将軍継嗣に与えられる左馬頭に亀王丸を任じた。
十二月廿四日亀王丸は元服して義晴となり、翌廿五日、征夷大将軍に任じられ、政務が始まった。勿論、十一歳の義晴が政務を行える筈もなく、細川高国や政所執事の伊勢貞忠、飯川国信や大舘尚氏ら義澄を支持していた御供衆や、播磨国に所領を持つ奉公衆・三淵晴員の姉で大舘常興養女の佐子局らが政務の補佐を行った。
伊勢貞忠は足利義澄・義稙に仕えた貞陸の子で八月に家督を継いだばかりではあったが、将軍家に代々仕える政所執事の家柄である。父・貞陸は祖父・貞宗が義澄の後見をしていたことからも心情的には義澄派であり、貞忠も同じと見られていた。
飯川国信・大舘尚氏はともに奉公衆であり、幕府直属の軍事や代官などを務めている。特に大舘尚氏は父・教氏同様、有職故実に詳しく北陸方面の申次衆を兼務するほどの将軍側近であった。
その将軍を支えていた細川氏は永正の錯乱と両細川の乱という二つの内訌によって弱体化した。そこに現れたのが阿波守護代三好之長である。
三好之長は阿波守護細川讃州家に仕える阿波の豪族で、元々は守護代小笠原家に仕えていた久米氏の一族だった。
久米氏というのは伊予の国造を拝命した久米直の後裔で、伊予久米郡を領していた。
これの一族が阿波へ入り、三好郡に土着して勢力を伸ばしていく。主家である小笠原氏の姻戚となり、主家が没落すると、これに取って代わったのである。
そして細川澄元の京兆家・家督を取り戻すため、之長は大内義興が山口に帰郷し、高国の軍勢が弱まった隙を突いて畿内へ進出した。之長も摂津に拠点を設け、家督も取り戻し、政権運営も上手く行ったのだが、之長を支持していた讃州家先々代当主の成之、当代当主之持が相次いで亡くなると、澄元との仲が元々あまり良かったとは言えなかった之長は四国勢の諸豪族から反発されるようになっていった。
そして、永正十七年等持院の戦いで局地的な勝利を収めたものの、之長に反発した久米氏・河村氏・東条氏などが高国に降ったため、大勢が決して三好勢は大敗した。
高国勢の包囲を破れなかった之長は曇華院に身を潜めたが、高国の知るところとなり、謀られて弟の芥川長則・長光、長尚の子・長久と共に斬首されたのである。
千熊丸の父は三好元長という。細川澄元に仕えた之長の四男であり、嫡子の長秀の同母弟である。のちに古今無双の武将として名を馳せる男であるが、現在は細川高国と対立し、病死した澄元の遺児とともに阿波に逼塞していた。
「与右衛門殿、孫次郎様はそなたを大いに頼みにしとると申されとった。頼んだぞ」
親しげに与右衛門に話す人物、六十を少し過ぎたばかりの老人で、物腰も柔らかく人当りも良さそうであるが、小兵の割にはガッチリとした体躯をしている。相好を崩して話し入る様子から、与右衛門とは旧知の仲であることが察せられた。
「いやいや、蔵人様こそ、ご当代の後見。私なぞ微力にもなりゃしまへん」
蔵人とよばれた好々爺は、三好元長の叔父で彦四郎蔵人之秀という三好家の長老である。その物腰は飄々としており、一見して戦人とは思えなかった。三好家の人々というのは、文化の匂いのする者が多いのが、与右衛門の好ましきところであった。商人だからと見下げぬところがさらに良い。
「蔵人などと呼んでくれるな与右衛門殿。昔のように気安く彦四郎でよい。それにな、千熊を預かってもらえること以上に、今の大事はあるまいよ」
高々と笑い声を挙げる彦四郎につられて与右衛門もともに笑い声を挙げた。
そもそも与右衛門は三好之長と付き合いがあった。之長が堺には進出した折、これをいち早く支援したのは他でもない天王寺屋津田宗柏である。与右衛門は宗柏の声掛かりで参じた。幕府寄りであった湯川一族を出し抜いた宗柏と与右衛門は利を独り占めすることなく、納屋衆らを紹介し利を共有したのである。このことで、与右衛門は納屋衆に名を連ねることができた。天王寺屋が三好本家の御用を担ったのに対し、与右衛門は分家の御用を受けることになったが、三好家が阿波に逼塞してから天王寺屋は手を退いていた。阿波とは付き合い浅からぬ与右衛門が、その代わりを務め頼りにされたのは言うまでもない。
彦四郎とはその時以来のつきあいであり、与右衛門としては三好一族を恃みにしているところもあった。しかし、昨今の情勢はそうもいかない。之長が敗死し、元長が逼塞している現状を与右衛門とて面白くなく見ていた。
「これからな、讃岐の十河まで足伸ばそうと思っての」
十河氏は古代に讃岐に下向した神櫛皇子の流れをくむ植田氏の一族で、山田郡中央東部に位置する十河城を治める東讃の有力豪族である。現在は七代当主左衛門尉存景が細川高国にも澄元にも属さず中立を保っていた。
「ほう、十河殿と申しますと、左衛門尉殿ですかな」
商売のネタになりそうなことであれば、聞き逃すまいと、心の居住まいを正した。
「いや、あそこに若いのがいてな。元長さまの小姓にどうであろうかと思っての」
存景には金光丸という十二歳になる男子があった。中立を保つ十河に阿波から楔を打つことで、畿内への進出を容易くしたい意図が明らかである。東讃の最西部に三好の影響が及べば、摂津との経路が一つではなくなり、孤立する危険性が減るのだ。
四国から畿内へと手をのばすには淡路だけの経路では心許ない。最短経路の淡路以外にも補給路や退路は確保しておかねばならぬ。また、軍勢を養う拠点となる摂津にも近い東讃は抑えておきたい重要な土地である。
「なぁるほど、これはなかなかの買い物ですな」
十河氏は植田氏の中でも庶流であり、神内氏、三谷氏らとともに讃岐守護代安富氏の麾下につけられていた。十河氏が阿波の三好氏の後盾が得られれば、この中で一つ頭が抜きん出ることになる。存景が山田郡の惣領を狙っていることを之秀は知っていたのだ。
「ふぉっふぉっふぉっふぉ、そうであろう、そうであろう」
大仰に頷き返す彦四郎。与右衛門にもこれで、三好宗家の長老がワザワザ当主の子を伴い堺まで出てきた理由が分かった。
現在、阿波に逼塞する元長の周囲は刺客の危険性が大きくなっているということだ。刺客を送りつけているのは高国一派、やり手の尹賢辺りならやりかねない。
その一方で、元長も調略の手を讃岐に伸ばし、同族の伊予の久米氏にも阿波への移住を呼び掛けているのであろう。元長だけでなく、之秀の異母兄長尚も手勢を集めていた。ここで十河氏が三好に通じれば安富氏を三好氏の下風に置くことができる。
「そうなりますと、土産が要りますな?」
にっこりと人好きのする笑顔で商売人の顔となった与右衛門に、一頻り之秀が大笑いをした。
「それよ、それ! 与右衛門殿はそうでなくてはならぬ」
「いつも千屋をご贔屓にありがとうございます」
与右衛門が態とらしく畳に額を擦り付ける。
さらに高笑いをする之秀に顔を上げた与右衛門が戯けた表情を見せると、二人で見合って高笑いを挙げた。
「彦四郎様、手前そろそろ身代を譲ろうかと思っておりました」
「ほう。与兵衛殿にか」
「はい。そのつもりでおりましたが、彦四郎様のお話を聞く限り、あと数年は先延ばしにしなければならないようでござりますな」
にたり。
与右衛門は掴んだという顔をした。
調略には贈物が必要であり、堺と東讃の商人らには繋がりがある。千屋とて納屋衆の端くれ、ここで大商いを捨てる手はなかった。
「そうしてくれるかの?」
之秀は間髪を入れず答えた。
その眼差しは真剣そのもの。それもそのはず、元長は叔父の長尚に押されて家中での発言力を落としている。之秀の長兄之長か嫡子長秀が生きていれば、長尚も表向きは対立するようなことはしなかったろう。長尚は之長の強引な遣り口に反対であったし、異母兄弟故の行き違いもあったやも知れなかった。なにより長男・長久を失ったことが、宗家から心が離れた原因かも知れぬ。
しかし、だからこそ之秀は元長を推戴した。元長とて若いが、三好は今赤子の当主を戴く訳にはいかなかった。長秀の子は之秀が引き取り、養育している。ゆくゆくは元長に許しを得て一家を立てさせてやろうと思っている。子のない之秀の跡を継がせても良いとも考えていた。
「勿論でございますとも。彦四郎様とご当代様が再起する手助け、身代が傾かぬ限りさせていただきましょう」
「恩に着る」
今度は之秀が頭を下げた。
之長もそうだったが、三好の者は商人を見下さず、対等に付き合ってくれる。これは与右衛門にとって嬉しいことだった。
「彦四郎様、頭を上げてくだされ」
「儂の頭で済むものなら、いくらでも下げようほどに、な」
元長の頭は下げさせぬつもりなのであろう。与右衛門とてそこを求める気はなかった。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。
「では、又甥の顔でも見てくるかの」
「かしこまりました。こちらでございます」
与右衛門が先導して母屋に案内する。穏やかな五月の一日が過ぎ去ろうとしていた。