さかひこゑ ちぬなぎぬれる 馬の子は
千世のむつきを かさねうるかな
雲一つない晴れた日であった。
鳥が小さく実のなった梅の枝に留まって啼いている。障子に映し出された影が、少し揺れた。シュンシュンと、
風炉は火鉢に風通しの窓を空けて炭の火が消えぬよう工夫した道具である。この風炉はその左右に鬼の顔をした耳があり、丸い金属の
釜は流行りの
男は茶の湯に興じている割に、落ち着きがない。何処か心此処に在らず、といった雰囲気だ。男の名は田中
堺は元々
納屋というのは貸倉庫のことで、堺には納屋を各種の問屋や座に貸し付けることで財をなした町衆が多い。納屋を生業とする家は油屋の伊達家、天王寺屋の津田家、
堺の会合衆は十人衆を筆頭に、年々その数を増やし、現在三十六名を数えるが、大半が湯川一族か、その
町衆はそれぞれの
当年二十五歳の与兵衛に、
ちなみに屋号というのは扱い品目を示していることはほとんどない。それよりも先祖の生業や出身地を表していることが多い。千屋もそうである。与右衛門は
千屋は、戦乱に巻き込まれ流浪して、斗々屋に入った与右衛門が先代の援助で興した商家である。才覚があったのか、瞬く間に商いを広げて納屋衆となり、三十六人衆に名を連ねた。近頃は与兵衛に店を預けられるようになれば、さっさと隠居して茶の湯三昧と洒落込みたいと零している。
子供は与兵衛だけであったから、大事にはされてきたが、与右衛門はあまり家庭を顧みず、仕事に明け暮れる毎日であったので、与右衛門が茶の湯に興味があったとは知らず、大変驚かされた。若い頃は京に居たと聞いているので、その頃に習ったものだろう。
茶の湯は近頃、堺の納屋衆の間で流行り始めたもので、元々は京都の武家の間で行われていた。闘茶から賭け事の要素を無くし、唐渡りなどの珍しい器物を観て、愉しみながら茶を飲むのを主体としている遊興である。これを
この頃、堺で一番の茶の湯巧者といえば、天王寺屋の津田
与兵衛も宗柏の手解きを受けてはいるが、身になりそうもないと、自分では思っている。ただ、納屋衆や大名家との付き合いに茶の湯は欠かせないため、仕方なくやっているだけだった。それ故、目利きや宗匠を目指そうとは思えない。
半刻ほどまえ、妻の紗衣が産気づき産婆を呼んだのだが、厳しい顔で長く掛かると早々に母屋を追い出されて所在なく、書院に籠もるしかなかった。
一番上の多呂丸が今年六歳になったとはいえ、二番目は二歳にもならぬ内に鬼籍に入り、三番目は生まれてまもなく母親を連れて逝っている。男
若い与兵衛にも悩みはある。それは兄弟が居らず、子が少ないことだ。身内が六歳の子供が一人では何かあったときに困るし、商売は兄弟がいた方が心強い。分家するにも身内が安心だ。備中屋の湯川家は代々子沢山で現在では十六の分家すべてが会合衆に名を連ねている。田中家もそう有りたいと与兵衛は思っていた。
その上、後添えとはいえ正室である紗衣のことも考えれば、長男には別に店を構えさせ、新しく生まれる子供にこの店を譲るのが無難だろうかとも思えた。いや、逆に紗衣とその子を分家させるか。
「まだ……
しかも、多呂丸はまだ六つである。海の物とも山の物ともつかぬ童だ。与右衛門健在の今、事を急くこともありはしないと独り
紗衣がまだ子をなしていないころ、使用人の中には「
商人としては、その正直さが、
「多呂丸はまだ六つぞな」
与右衛門はいつも羨ましそうに津田宗柏の二人の子の話をしていた。孫がほしいのは分かるが、自分が子を沢山作らなかった所為でもあろうに、責任をこちらに押し付けるのは辞めてほしいと与兵衛は不満だらけである。
「子をなさなんだのは
近年は将軍跡目や管領家の家督争いから戦が頻発しており、近隣諸国では戦火に巻き込まれた商家も多いと聞く。堺だけが戦火の外に在ると言ってよかった。
ふと気づくと、松風が老けすぎて
松風は釜の音の一つで、釜の音にはいくつかの段階があった。「無音」「松風」「遠浪」「
その他に「
「いかんいかん。茶の湯の最中に考え事とは」
手に取ったままの柄杓を横に構え直し、合を水指の中ほどまで沈め、清らかな水を取ったところで、汲み上げる。釜の口に運んで、水を差すと、幾分遠浪の音が無音となり、再び松風を奏で始めた。水指とは水を入れておく陶磁器製の五寸ほどの筒桶のことである。合とは竹でできた柄杓の先にある筒状の受けのことで傾けた状態でほぼ一合入ることから、合と呼ばれていた。
さっと、柄杓を釜底までくぐらせ、合が鳴金に強く当たらぬように止め、温められたばかりの湯を取って、湯返しをする。
「茶でも飲んで落ち着かな」
茶は心を落ち着かせると言われているのだが、落ち着くのではなく、落ち着いてやらねばならぬのだろうと与兵衛は思っている。子供の時分は「遊興に金など使っていられるか」と見向きもしなかったが、代替わりして会合衆に名を連ねるともなれば、そうも言っていられなかった。商家の当主ともなれば、風流を解さぬは無粋と蔑まれる。二十代になると茶会などに招かれるようになり、与兵衛も少しは茶道具を集めていた。但しここにあるのは与右衛門の道具であり、自分のものは
千屋にある殆どの茶道具は天王寺屋を通じて手に入れたもので、宗柏の好みなのか与右衛門の好みか、
耳を澄まして母屋の様子を伺うが、紗衣の子は、まだ生まれそうにもない。
凪いだ松風が、再び荒々しく鳴りはじめた。
与兵衛の目の前には青瓷の茶垸が黒塗に青貝の天目台に載せてある。この当時、茶垸といえば天目や天目形の物を指す。正しくは石偏に完と書くそうだが、この字は残っていない。茶垸は艶のない黒く深い漆塗――真塗の台子の手前、唐銅鬼面風炉の前に置かれ、台子には青瓷の
与兵衛は抹茶が飛び散らぬよう、茶の脇に湯を垂らし、おもむろに茶を煉り始めた。今で言う濃茶である。天目での濃茶は力を入れ過ぎれば天目が揺らぐ。優しく丁寧に茶筌の柄を振った。天目台にしっかと押し付けるように左手を
柔らかい上品な茶の香りが立った。照りも申し分ない。満足げに笑みを浮かべて、茶筌を置き、少しばかり湯を足すと、再び茶筌を手にする。客が居る訳ではない。手持ち無沙汰な上に落ち着かぬゆえ、無聊に茶でも点てようかとはじめたのだ。が、やはり心ここに非ずである。
じっと、点てた茶を見つめると、清水のような茶垸に抹茶が写り込んでいた。ゆっくりと茶筌を引き上げ、一呼吸、茶筌から垂れないように心付けて、茶入に並べる。
茶垸の高台は熱い。特に青瓷は熱を遮らぬ。それも好い青瓷ほど薄いため、掌に熱湯を押し付けられているようになる。故に与兵衛は懐中から帛紗――現代では古帛紗と呼ばれるもの――を取り出し天目を載せると、そのまま一口茶を喫もうとした。
その時、急に陽が翳りをみせる。雲一つなかった空がみるみる暗くなった。
ポツリ。
空から雨が落ちてきたかと思うや否や、夕立かと見紛うばかりな雨である。まだ、昼九つ(正午)を過ぎたばかりだというのに。
「……むぅ」
与兵衛は急に不安に駆られた。それを圧し殺すかのように一口
舌の上にどろりとした抹茶が広がった。心を洗うような香りが鼻腔をくすぐり、爽やかな茶の甘みが口当りを軽く感じさせる。そして深いコクのある渋みが喉を通り、与兵衛を満足させた。流石に
「ふぅ……」
続けて二口。飲み干すように上を向いた。
時折聞こえる大声は、産婆のものだ。まだ、産声は聞こえない。いや、まさか。茶垸から口を離して
(悪うことを考えれば、その通りになるやないか。きっと元気な男子が生まれるよって……)
急に変わった空模様に感じた不吉さを振り払うように、天目台に茶垸を戻す。改めて湯を取り、茶垸に注ぐと、薄茶のような残り湯になった。茶垸を取り上げ、ゆっくりと三度湯を廻す。解けるように、吸い痕が消え行き、元の清水のような青瓷の器膚が姿を現す。そして、ゆっくりとこぼしに湯を空けた。
雨は激しさを増している。激しい風と雨であった。終いには雷が鳴った。
ニャァァァ――ニャァァァァ――
雷の音にも関わらず、微かに聞こえた猫のような声。これは産声に違いない。そして、母屋に挙がる歓声。おそらく安堵の声に違いない。続いて、ドタドタドタという足音が近づいてきた。
「与兵衛! 与兵衛! 男子じゃ、男子が生まれたで!」
晴れやかな与右衛門の声が廊下の向こうから聞こえる。与兵衛は、願いがかなったことを知って、思わず柏手を打った。その手に茶垸を持っていたことなど、すっかり失念して。
ガチャン!
バンッ!
甲高い音がして、天目がこぼしに中る。それと同時に障子が開いた。そこには喜色を浮かべる与兵衛の姿の脇に、欠けて転がる青瓷茶垸があった。与右衛門は
「与兵衛……」
与右衛門の声に、我に返った与兵衛は、与右衛門の視線の先を辿る。そこには、唐銅のこぼしにあたって口造りが欠け、ニュウの入った茶垸があった。
「それは先日、ぬしが宗匠から譲って頂いた大事な茶垸であろ?」
「はい……。思わず手ぇ放してしまいました……」
与兵衛が首をすくめて笑ってみせると、与右衛門もつられて笑う。若い頃は細身であった与右衛門も、體は丸みを帯びて、中年相応になっている。欠けてしまった茶垸は
「このカケをみる度に、
笑いながら、欠片を茶垸の中に入れ、茶垸を天目台に載せた。
与右衛門が見上げた与兵衛は既に茶垸を忘れ、赤子のことだけを考える父親の顔だった。駆けだしたいほどの喜びを抑えて、静かに母屋へと戻る息子の後ろ姿に、与右衛門は思わず笑みをこぼした。
「志郎丸か」
与右衛門は多呂丸に弟ができたことを喜ばしく思いながら、火の始末もせず、母屋へ向かった与兵衛の後始末をするべく、道具を片付け始めた。外はにわか雨であったのか、再び雲は消え、五月晴れの蒼穹が戻っている。土が湿り気を帯び、雨の名残りだけがあった。