生まれしも帰らぬものをわが宿に
小松のあるを見るが悲しさ
堺の今市町にある
「
店前へ掃除をしに出てきたのだろう。
「間違いない! 四郎右衛門さまじゃ! 旦那さまのお戻りや!」
男は俗名を田中四郎右衛門という堺の豪商で茶人でもある。庵号を道庵、斎号を可休斎、茶名を
四郎右衛門に気づいた使用人が店前から奥に声を掛ける。ワラワラと、店の者らが顔を見せはじめた。軒を連ねた近くの千屋からも人が出てきて、四郎右衛門の方に集まって来た。
斗々屋は四郎右衛門の曾祖父・与右衛門
飛騨高山に
因みに、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、後の片桐石州宗関の師となって、道安の茶風が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、それはまた別の物語である。
四郎右衛門が斗々屋で阿波の塩を取り扱い始めたのは、
利休の切腹より三年。ようやく勘気の解けた秀吉公が、四郎右衛門と義弟・
堺にも既に赦免の話は届いていて、店の者らもいつ四郎右衛門が戻るかと心待ちにしていたそうだ。口々に喜びの声を挙げ、下女が奥に知らせに行ったらしい。出てきた者の中に、
「四郎右衛門!」
千屋を継いだ伯父の与一郎
「与一郎伯父上、ご無沙汰でございました」
四郎右衛門はその場で深々と頭を下げた。
与一郎は利休の実兄であり、利休の死に際して斗々屋を継ぐことになっていた四郎右衛門が連座したため、一時、斗々屋を預かってくれている。六郎左衛門は与一郎を輔けて、千屋を切り盛りしていた。
「四郎右衛門さま……」
奥から妻・
「いつまでも立ったままでもなんですから、中へ」
喜兵衛が気を利かせて中へ誘う。気付けば、隣近所の人々も何事かと顔を出していた。追っ付け、天王寺屋の津田家や
「中でゆっくりいたしましょう」
四郎右衛門は喜兵衛に頷き返し、登喜を支えながら、与一郎へと微笑んで、中へと姿を消した。与一郎は、その後ろ姿を見て「よう似ておる……」と零した。
四郎左衛門に遅れること半月、京に戻った四郎右衛門は、利休の弟子であった古田織部助重然の京屋敷の門を叩いた。秀吉公への赦免の御礼を取り次いでもらうためである。織部は快諾し、即日謁見の手配を済ませた。当日は所用で同席できぬので、同門の細川越中守三斎殿が介添えするところまでの段取りをするほどの気配りである。
「
深々と頭を下げる四郎右衛門に古織は苦笑いを浮かべていた。
「
淋しげに古織が笑う。四郎右衛門には、父が居ないことを深く哀しんでいるのが感じられた。
謁見すれば父を殺した男としての憎しみを秀吉公に感じるかと思っていた四郎右衛門であったが、実際に目通りが叶うと、そんなことは露程も感じることはなかった。
(小さくなられた……)
実際に秀吉公は小さくなっていた訳ではない。
「紹安よ、再び余に仕えい」
「太閤さま、その儀は何卒、御容赦願いたく」
四郎右衛門は平伏して懇願した。しかし、秀吉公は四郎右衛門の話など聞いていない。スッと立ち上がるとスタスタと歩き出した。そして、呆気に取られて微動だにせぬ四郎右衛門を見て
「紹安、付いてくるがよい」
と言って再び歩き始める。四郎右衛門は傍らに控えていた三斎殿を振り返ると、大きく肯き返され、戸惑いつつも、後を追った。
暫くすると、秀吉公は狭い座敷へと入った。大広間などの広い場所で、華美な席を好んていた秀吉公が、侘びた座敷――しかも、利休が好んだ二畳敷である。
四郎右衛門も腹を決め、中に入ると、秀吉公は客座に坐っている。四郎右衛門に茶を点てよということであった。致し方なしと、茶道口へと下がり、水屋ヘ道具を取りに行く。水屋には整然と並べられた道具があり、茶堂らが滞りなく仕えていることが分かった。そこに並ぶ道具はかつての秀吉公が好んだ綺羅びやかな名物ではなく、侘びた珠光好や利休好の道具であった。目を引いた黒茶盌は
「利休によう似とる……」
点前を見ながら、秀吉公はそう呟いて、大きく頷いた。四郎右衛門は黙ったまま、ひたすらに茶筅を
そこにいたのは天下人・
「利休の遺品な……あれを、そちに返そう」
「いえ、あれは太閤さまに差し出したもの。私にはここに父の遺したのものがございますれば」
四郎右衛門は自分の胸を指して首を振る。
「そうか。……ならば、そちの義弟に息子がおったであろう」
「
猪之吉とは四郎左衛門の長男で、
「昔、利休があれを小坊主に使っておってな、愛らしゅうて小姓にしようとしたら、利休は喝喰に入れてしもうての。そちが受け取らぬなら、あれに取らせよう」
四郎右衛門は深々と手をついて平伏した。
この辺りの感覚が、武家と商家の違いなのかもしれない。四郎右衛門にとって大事なのは
つまりそれは、四郎右衛門とっては父である利休と違う茶の道を歩むということでしかなかった。利休の道具を受け継げは、他人は利休と同じ道具組みや茶風を心の何処かで求めるであろう。それでは利休の猿真似になり、四郎右衛門は何処に在るのか。滅私の思想など利休にも四郎右衛門にもありはしなかった。
それと、四郎左衛門は足
四郎右衛門には斗々屋があった。
商いをしていれば、喰うに困ることもない。蟄居先の飛騨高山にも店を出したことで、金森家とも近く通じており、家業に心配はなかった。
四郎右衛門は理想に殉じる人ではなく、政商となるのも嫌であった。しかし、茶風とは生きていてこそ体現できるものであり、先ず生きていなければならない。権力争いに巻き込まれるのは御免だが、力がなければ面倒事が逃れることは出来なかった。
「茶堂として仕えるようにな。利休の茶は、そちにしか点てられん」
秀吉とて四郎右衛門と利休の茶風が違うことは分かる。しかし、それは美味い茶をどう出すかの道筋が違うだけで、父子は同じ茶の美味さに辿り着いていると見た。それこそが秀吉にとって
「かしこまりました」
四郎右衛門は観念して、水屋へと下がった。そして数日後、堺の自宅に戻る許しを得て、戻ってきたのである。
「なんと……」
与一郎は絶句している。登喜に秀吉より賜った京屋敷に来てもらい、斗々屋は引き続き与一郎と喜兵衛に任せ、ゆくゆくは紹二に譲ることにしたいと四郎右衛門は言う。四郎左衛門には以前からの京屋敷を与えて分家させ、堺千家は四郎右衛門が家督することを伝えていた。子のない与一郎伯父は紹二に千屋を継がせようと思っていたらしいが、そこは折れてもらえまいかと直談判である。
「四郎右衛門さまはそれで宜しいので?」
喜兵衛が利休の遺品が、養子の子に受け継がれることを問い質してきた。思うところがあるのだろう。
「我らは商家であって、商いが本分。欲しければ儲けて買うなり、作らせるなりすれば好い。茶の湯を以て禄を食むは本分に非ず」
四郎右衛門はそれだけを言い残し、奥へと消えた。登喜が、旅装を解いて寛げるよう部屋着を用意したのである。喜兵衛は首を傾げた。
「あれはどういうことやろか」
喜兵衛はそばにいた六郎左衛門に尋ねてみる。
一頻り頸を傾げた六郎左衛門は微妙な顔をしたまま「まだ、
それはあるまい……と喜兵衛は思う。稲は利休と仲直りするように四郎右衛門に遺言しており、それを受け容れられず、悩んでいたことを知っているからだ。
「伯父上の才を受け継いでいる唯一の御人との自負か」
喜兵衛はそう独り
「喜兵衛さま、旦那様がお呼びです」
下女が、喜兵衛を呼びに来た。四郎右衛門が堺に滞在できる日は僅かである。少しでも多くを語りおきたいと、喜兵衛も慌てて奥へと向かうのであった。
(四郎右衛門さまには跡継ぎが居らん。ならば、利休さまと四郎右衛門さまのことは、よくよく聞いて書き遺して置かねばなるまいて)
喜兵衛は折りをみて四郎右衛門に昔話をせがむ事にしようと決めた。四郎右衛門もそれを嫌がらず、四季折々に語って聞かせることになる。
「茶が渡来したのは、平家全盛の折でな……」
蜀地方の喫茶法が流行したのは、宋の三代皇帝真宗の皇后・
栄西から茶の種を譲り受けた
その頃、宋で「闘水」という「どこの水を当てる」遊戯が流行していたが、ここから発展した「闘茶」が輸入され、武家を中心に流行した。これは、歌合せや絵合せなどの社交的遊戯が素地となり定着する。闘茶の後は宴会となり、武家から庶民にも爆発的に広がった。鎌倉末期から南北朝・室町初期に闘茶は最盛期を迎え、幕府は度々闘茶禁制令を出すことになる。
闘茶も流行によって複雑化したが、最も広まったのは「四種十服茶」であった。これは、四種類の茶を十服点てて飲み比べ、本茶を言い当てた数を競う。加えて、大名の間で、支那渡来の道具や鎌倉以来の伝来品――唐物を蒐集することが流行し、盛大な闘茶会や宴会が催された。佐々木道誉などの「婆沙羅大名」らによって莫大な賞金賞品を賭けた「百服茶」なども行われている。
闘茶全盛の最中、
また、この時期、宇治茶の品質が向上し、栂尾茶と並んで本茶に数えられるようになり、献上された宇治茶を義満が褒め、「無上」という銘を贈っている。
義持の嗣子・五代義量が亡くなると、義持は後嗣を立てず、そのまま歿してしまい、籤引きで青蓮院の門主であった義満の子・義円が指名された。しかし、幼少であったため、元服後に将軍となることとなる。この間、将軍職は空位となり、管領が権力を掌握した。
六代将軍となった義教は、軍制改革や将軍親政を行い、幕府の威信回復に努める。悪御所と綽名されるほど、苛烈で厳しい処断を行ったと言われるが、茶湯に興味を示し、同朋衆に茶の湯を仕切らせた。これは、茶の湯を幕府の権威付に利用した最初の例である。そして、八代将軍・義政によって茶の湯は確立した。
「話は
喜兵衛は反故に走書きで四郎右衛門の話を書き起こしていった。この物語は、四郎右衛門が喜兵衛に語った千家三代の物語である。